藤の里に夕闇が迫っていた。
花柱・胡蝶カナエは、足早に蝶屋敷へと向かっていた。
まだ温かい団子が入った包みを、手の中にそっと抱えている。妹たちが大好きな和菓子屋のものだ。
桜の、どこか艶めいた香りが、まだ冷たい風に混ざって流れてくる。春爛漫も近いのだ。カナエの好きな季節がまた、めぐってきていた。
次の休みが妹の休みと合えば、桜を見にでかけようか。楽しい想像に、自然と頬が緩んだ。
しかし、突然立ち止まり、ふっと顔を上げた。どこからか聞こえてくる野卑な声に、細い眉を顰める。

カナエが駆けつけた時、飲食店が並ぶ一角の陰で、一人の少年が男たちに囲まれ蹴られているところだった。
「子供に何人がかりです。止めなさい」
カナエの静かな声は、その場によく通った。
「なんだぁ？　お嬢ちゃんはすっこんでな」
男たちは面倒そうに振り返り、カナエを見て動きを止めた。
「それにしても別嬪さんだな」
興味は痛めつけた少年からカナエに移り、ものめずらしげな目をした男たちに取り囲まれる。

腰まで届く艶やかな黒髪を蝶の髪留めで飾り、黒い隊服の上に柔らかな色合いの羽織をふわりとまとっている。
つぶらな瞳は少女のようだが、この事態に全く動揺しない姿には気品が感じられた。
「――　おい、あんた。『柱』だな。見たことある」
「ええ。花柱の胡蝶カナエと申します」
にっこりと笑って応えると、男たちは示し合わせたように一歩退いた。
この藤の里では、鬼殺隊のことは誰でも知っている。集まり始めていた野次馬たちもざわめいた。

カナエは周りに頓着することなく、男たちの間を通り抜けて少年の隣にしゃがみこんだ。
おい、と男たちは止めようとしたが、ちらりとカナエが見ただけで、その手を途中で止めた。
「大丈夫ですか」
地面に肘をついて何とか身体を起こし、咳き込んでいた少年の背中に手を当てる。次の瞬間、振り払われた。
「死ね！！」
激しい罵倒が口から発せられ、物凄い目でカナエを睨んできた。
怒りと憎しみに燃えた、何かに飢えている視線に、はっとした。なぜか、どこかで見たことのある目だと思った。

「あのなぁ柱のお嬢さん。さっきそこの店先で、そのガキとぶつかったんだ。先に因縁吹っかけてきたのはコイツの方だぜ」
男たちの一人がそう言った。男たちの怒りがもう冷めているようなのに比べて、少年の怒りは鮮やかな炎のようだった。
「……この子は私が連れて行きます。どうか、あなた方もお引取りください」
「物好きだな、こんなの連れてっても禄なことになりゃしねぇぞ。底辺の底辺にいるガキだぞ」
「だから、連れて行きます」
カナエは静かに繰り返した。ぶつぶつ言いながら背中を返した男たちを見送り、カナエは再び少年を振り返った。
「……大丈夫？」
少年は地面に突っ伏したまま、気を失っているらしかった。
思ったより衰弱が激しい。カナエは埃と血に塗れた少年を抱き起こした。


＊＊＊


それから、一週間が経過していた。
カナエと妹のしのぶは、二人で連れ立って藤の里の通りを歩いていた。
夕暮れが近く、空は茜色に染まっている。
今日は、花柱であるカナエは産屋敷邸に呼ばれており、その道中だった。
「……全く、聞いてるの姉さん？　先週姉さんが拾ってきた子供だけど、手は出るし口は出るしあちこちで問題を起こすから困り果ててるの。身体は大きいし、力も強いから回復するにつれ余計厄介だわ。
あちこちで怪我人病人を拾ってくるのは、もう止めてよ。蝶屋敷は、鬼殺隊の隊員を治療するところなんだから」
「聞いてるわよ。ごめんねしのぶ。負担をかけているわね」
早口でまくし立てる妹を見下ろして、カナエは眉を下げて申し訳なさそうに笑った。
「もう……姉さんは、優しすぎるわ」
そう返されると、しのぶも何もいえなくなるのか、黙った。
「私もあれから、あの子とは話せていなくて。お館様のところから戻ったら、会ってみるわね」
「いいわよ、姉さんも柱の仕事で忙しいし」
「玄弥、という名前以外は何も分からない？」
「ええ。苗字も言わない。どこから来たのかも、自分のことになると石みたいに黙ってしまって。ただ、異常に回復が早くて驚いているところ」
「そう……」
身体の傷は、休めば消える。でもあの少年は、身体よりも精神の傷のほうがよっぽど酷いとカナエは思っていた。
怒りに燃えるあの目は、裏返せば心の悲鳴のようにも見えて。それが痛々しくて、連れてきたのだ。

「じゃあ、ここで」
「ええ。私は薬草を買ってくるわ」
柱ではないしのぶは、産屋敷邸に行くことができない。というよりも、柱と限られた隊員以外は、産屋敷邸の場所さえ知らされていない。
カナエはしのぶと別れ、通いなれた裏道へと入っていった。


産屋敷邸では、藤の花が咲き始めていた。
優雅な紫色の花房の下に、カナエはよく知った男の背中を見つけた。
「……悲鳴嶼さん、ご無沙汰しています」
「カナエか」
振り返ったのは、熊のように巨躯の男だった。筋肉の形が隊服の上からでも分かるほど、全身が鍛えられている。
その目には瞳孔がなく、盲目だということが分かる。一見して恐ろしげだが、今は柔和な笑みを浮かべていた。
「久しぶりだな。妹も息災か」
「おかげさまで。悲鳴嶼さんもお元気そうで何よりです」
カナエは微笑んだ。
鬼殺隊の柱の中でも、カナエとしのぶの姉妹にとって、悲鳴嶼は特別だった。
普通の娘として、普通の家庭で幸せに暮らしていたカナエとしのぶの家を襲い、両親を殺した鬼。
その鬼を殺し、二人を守ってくれたのが、この悲鳴嶼だった。
命の恩人であると同時に、この人のように鬼から誰かを救えるようになりたいと願った、憧れの人でもある。
柱としての経歴・実力を見ても間違いなく筆頭隊員と誰からも認められている男でもあった。

「お館様が待っておられる。座敷で待っていろ」
「はい。すぐに」
半年に一度の柱合会議の他にも、柱は時々産屋敷家に呼ばれ担当区域の鬼の動向を報告する慣わしだった。
今のところ、鬼は相変わらず出没はするもののいつもと変わった動向はなく、鬼の首魁とされる鬼舞辻無惨が現れる気配はない。
良くも悪くも、現状維持が続いていた。

産屋敷邸での報告を終え、屋敷を出た時には既に辺りは真っ暗になっていた。
――　「何も起きていない、と思う時は注意が必要だ。何かが起こる先触れかもしれないからね」
いつもの穏やかな声で産屋敷に言われた言葉が、カナエの耳から離れなかった。
産屋敷には、「先見の明」としか言えない能力が備わっている。彼が言うことは、本当になる。それを柱としての経験から知っていたからだ。

――　誰も死なせたくない。鬼だって。
しのぶにしか言っていない心のうちを、カナエは心中で呟いた。
文字通り鬼を殺すのが鬼殺隊の使命である。でも、幾多の鬼と戦う中で、気づいたことがある。
鬼は、もともとは悲しい過去を背負った人間だということ。そして誰もが、鬼になる可能性があるということ。
目の前に立つ鬼は、もしかしたら昔すれ違ったことのある誰かかもしれない。
そうであるなら、先週助けた少年と同じように、「助けたい」。
でも現に、鬼は今この瞬間にもどこかで人を喰らい、かつての自分たちのような孤児を新しく生んでいる。
全ての鬼の起源といわれる無惨を倒せば、この終わりなき戦いがいつか終わり、人間も鬼も殺しあわなくて良くなるのだろうか。
カナエはため息を少しずつちぎって捨てた。

藤の里では、買い物を済ませたしのぶが待っているだろう。産屋敷邸を後にしようとした時だった。
「緊急連絡！　緊急連絡！　藤の里に鬼の群れが出没！　柱は直ちに向われよ！」
鎹烏の声がその場を劈き、カナエはびくりと肩を揺らした。まずい、ととっさに思った。藤の里にはしのぶがいる。
「カナエ！」
屋敷から悲鳴嶼が険しい表情で出てきた。
「場所が悪すぎる」
「ええ」
鬼の出没よりも、現れた場所が産屋敷家の近くだということが問題だった。
無惨は、鬼の動向を離れていても把握できるという。最悪、産屋敷邸の場所が割れる危険があった。
「悲鳴嶼さんはお館様のもとに。私が行きます」
「藤の里は風の管轄だ、連携しろ」
「はい！」
頷き、刀を手に駆け出した。







Update　2019/11/28