―― 今より三か月前 ――

「……以上を持ち、本日の講義は終了とする!」
特進学級の担任、大宇奈原が声を張り上げた。
「起立っ!」
日直の号令に、生徒が一斉に椅子を引いて立ち上がる。
その音を聞きながらも、日番谷はうつらうつらと座ったままでいた。自分でも、起きているのか寝ているのか分からない。
昨夜、あの惨劇を見た後、1時間後くらいに草冠と寮室で顔を合わせた。
草冠は何事もなかったよ、と言うが早いか寝てしまったが、日番谷は一睡もできなかったのだ。
初めて死神が殺される場面を目にした衝撃は大きく、目を瞑るたびに生々しく思い浮かんで寝るどころではなかった。
くすくす、と周囲の押し殺した笑い声が聞こえてくる。

「おい冬獅郎、起きろ。起きろって!」
草冠の小声が、遠くから聞こえる。それでも、重いまぶたを引き上げることができない。
「目を覚ましてから帰ったほうがいい者がいるな」
怒りをたっぷりと含んだ大宇奈原の声が、頭上で聞こえた。

ぶん、と音を立てて腕が振り下ろされる気配に、反射的に顔を上げる。
目に入ったのは、自分の頭にむかって拳骨を振り下ろしている大宇奈原の顔だった。
日番谷の頭上10センチほどのところで止まった拳骨の向こうの教師の表情は、異様に緊張している。
―― しまった……
無意識のうちに叩きつけてしまった殺気を、日番谷は一瞬で自分の中に押し込めた。
「……すみませんでした」
頭を下げて、立ち上がる。大宇奈原は、奇怪なものを見るような目で、一瞬日番谷を見た。
「……夜、出歩いているのは聞いている。ほどほどにしろ」
「……はい」
日番谷にしか聞こえない程度の声で耳打ちされた言葉。日番谷は小さく頷いた。



「タイミングいいな〜、日番谷」
「もうちょっとで、拳骨を食らう冬獅郎が見れたのに」
大宇奈原が出て行った後、生徒達はどっと笑い出す。
「ぅるせぇな……」
言葉を押し出すのも、億劫だった。苦虫を噛み潰したような顔で、書類を束ねる。
一刻も早く寮に帰って、寝ないと体が持たない。

「大丈夫か?」
とん、と掌が机の上につかれ、日番谷はようやく顔を上げる。草冠が心配顔で見下ろしているのと目が合った。
「夕方の電話番は代わってやるから、お前は寝てろ」
「……悪ぃ」
自分がその当番に当たっていることすら、忘れていた。
二つに分け、紐で十文字に縛った教科書を肩に引っ掛け、立ち上がる。草冠がついてくる気配がした。
「……なんか、外が慌しいな。何かあったのか?」
窓の外を見やり、草冠に視線を移す。
噂好きの友人は、あぁ、とすぐに頷いた。その表情が浮かない。

「死神が殺されたんだ」
椅子を机にしまおうとした日番谷の手が止まったが、それは一瞬のこと。
「よくあることじゃねぇか、最近は」
平静を装い、窓の外を一瞥する。死神達が小声で会話を交わしながら、何人も通りを駆けて行くのが見える。
「でも、ついに一晩に二人だぜ?」
「二人?」
眉を潜める。一人については言うまでもない、日番谷が昨夜目撃した、首を刎ねられた男だろう。
だが、もう一人が分からない。直感に過ぎないが、あの後夜舟がさらに暗殺を重ねていたとは思えなかった。

「殺されてたのは誰なんだ?」
日番谷の問いに、草冠は少し意外そうな顔をした。
「珍しいな、お前が殺された奴に興味を持つなんて。誰だったかな……」
真央霊術院の学生が現役の死神と、直接関わりを持つことはめったにない。
とはいえ、席官以上の死神となるとファンクラブも多いが、日番谷は珍しいほど淡白で、特定の死神には興味を持たなかった。
「一人は、確か九番隊の竹添佐助。この男は、首を刎ねられてたらしい。もう一人は、二番隊の前で、磔にされてたって話だぜ」
草冠の歯切れが、急に悪くなる。
「まるで見せしめみたいだったって誰か言ってた。元・六番隊第五席、嵯峨野夜舟って女の人だ」
途端。
日番谷の肩から、束ねた教科書が滑り落ちた。


級友達が振り返り、草冠が身をかがめて教科書を拾っても、日番谷は微動だにしなかった。
「一体どうした、とうし……」
「夜舟。本当にそう言ったのか」
声が震えているのが気づかれなければよい、と日番谷は思う。
「そうだが……知り合いか? 違うよな、俺ら死神に直接は接点ないし」
草冠が、そういいながら気遣わしげに日番谷を見下ろした。

草冠の視線に気がつかないほど、日番谷は混乱していた。
一体、何があったんだ。昨夜日番谷を見つけた死神達は、逃げた夜舟を追うことはできなかったはずだ。
暗殺者は夜舟だと嗅ぎつけた別の者が、彼女を追い詰めて殺したということなのか?
「……悪い、草冠。今日は先に帰る」
そう言いうと、日番谷はさっと立ち上がった。
「おい!」
瞬歩で姿を消そうとした時、肩を掴まれて日番谷は振り返る。
そこには、当惑と心配を露に表情に表した、草冠の顔があった。
「一体どうしたんだ、冬獅郎。昨夜、何かあったのか?」

「それは、」
言葉を続けようとした日番谷は、口ごもる。
惨劇を目撃したとき、夜舟は「見た者は生かしておけない」と言った。むやみに話せば、今度は草冠の身が危ない。
草冠に、そんな日番谷の葛藤が通じたはずはない。しかし、黙って見下ろしていた草冠は、小さな肩に手を置いた。
「やっぱり、いい。でも全部終わったら話せよな。俺たちは友達だろ」
「……ああ」
言えるはずがない、と思う。でも日番谷は頷いた。


*** 


「どいてくれ!」
二番隊隊舎に駆けつけた日番谷は、ごったがえしている人垣に行く手を阻まれた。
日番谷が無理やり隙間に体をねじ込もうとすると、前に居た死神が振り返る。
「何だ? 子供じゃないか、どうやって入り込んだ! ここはお前みたいな子供が来る場所じゃない、帰れ!」
しかし、その死神の指は日番谷の肩に届く直前で空を切った。
「なに?」
死神が目を見開いたときには、日番谷は既に瞬歩で死神の前に回りこんでいた。
「知ってる奴だと思うんだ、どいてくれ!!」
日番谷の声は、ざわめいていた中でもよく通った。
振り返った死神たちは、不審そうな表情を向けながらも、日番谷に道を空ける。

ざっ、ざっ、と足を進め、二番隊の入り口の前に歩み寄る。
知っている奴。
そうは言っても、昨日の夜までは知らない奴だった。
でも、その鮮烈なイメージは、全く薄れるどころかどんどん強まっていた。
「なん……で」
掠れた声が、喉元から漏れる。
地面や壁にへばりついた、乾いた血。
それでも漂う、鉄のような匂い。
その女、嵯峨野夜舟は、壁にもたれかかるようにして「立っていた」。
そしてその胸には、壁に縫い付けるように一本の刀が突き立てられていた。
血が飛んだその頬は、なぜだか少しだけ、微笑んで見えた。
まるで、日番谷と昨夜別れるとき、「ありがとう」と呟いた時のように。


「どうする? 死神から抜けた罪人だ。このままにしておくわけにはいかんが、従来どおり弔うわけにも……」
「あぁ。どんな理由であれ、任務から逃げるなど……」
日番谷の耳に、人垣からの会話が飛び込んできた。
罪人だと?
確かに、仲間の死神を暗殺していたのは確か。
それでも、死の尊厳は護られるべきだ。
「ふざけん……!」
拳を握り締めた日番谷が、振り返ったときだった。

「ふざけたことを言うな!」
凛とした声が響き渡り、日番谷は言葉を飲み込んだ。。


―― あいつは……
夜舟のほうに迷いない足取りで歩み寄ってきたのは、一組の男女だった。
怒鳴りつけたのは、男の背後についた小柄な女のほうだ。
漆黒の髪を肩より少し長めに伸ばし、黒目がちな大きな瞳が印象的だった。
そして、その前に立つ男に、日番谷は視線を向ける。死神には無関心でも、彼のことは知っている。
「朽木隊長!」
「朽木隊長が来られたぞ!」
隊首羽織が翻った。その無表情の瞳には、全く感情の色は見て取れない。
「下がっていろ、ルキア」
朽木白哉は、背後の少女にそう呼びかけると、夜舟に目を向ける。
そして、日番谷には目もくれず歩み寄ると、夜舟に突き立った刀の柄に手をやった。
そのまま、ゆっくりと引き抜く。
力を失った体は、刀が引き抜かれると同時に、どう、と地面に倒れこもうとした。
その肩を、白哉が支えると、横抱きに抱き上げた。
周囲はしん、と静まり返り、そのまま踵を返した白哉の背中を見つめるばかりだった。

「……なんだ、子供。どけ」
白哉はふと視線を落とし、立ちふさがるように自分の前に立った銀髪の少年を見やった。
「……その女を、どうするつもりですか」
「そこをどけと言っている」
断固として、日番谷は動かない。白哉の瞳に剣呑な光が宿ったとき、
「よせ、少年。兄様の邪魔をするな」
背後から歩み寄ってきたルキアが、日番谷の肩を捕まえ、背後にぐいと引いた。
「……」
白哉はしばし無言でルキアと日番谷を見下ろしたが、すぐに興味を失ったかのように歩みを進めた。


「放せよ」
日番谷は、白哉の背中を見送ると、自分の肩を掴んだルキアの手を振り払い、くるりと振り返った。
「その制服、真央霊術院の学生だろう。なぜこんなところをうろついている?」
「……知っている奴だったから、飛んできた」
「夜舟殿を知っていたのか!?」
ルキアは意外そうな顔をした。当然だろうと日番谷も思う。
常に激務にさらされる死神と、真央霊術院の学生の接点はほとんどないからだ。

「……あいつは、どうなるんだ」
日番谷の問いにルキアは少しためらったが、すぐにきびきびとした口調で返した。
「心配するな。罪人だろうが関係ない、六番隊の元隊士として丁重に弔うつもりだ」
「罪人……?」
「そうだ。夜舟殿は、かつて六番隊の席官だったのだが、脱走し行方をくらましたのだ。
死神にとって脱走は絶対の禁忌。総出で行方を追ったが、見つからないままだったのだ」
「なんで、夜舟は脱走したんだ?」
日番谷の脳裏に、昨夜の夜舟の姿がよみがえる。
六番隊の席官、という恵まれた立場をも捨てて、暗殺者に身を堕としたのはなぜだ?

「それは、お前が知る必要は……」
ルキアはそう言いかけたが、不意に言葉を切って日番谷をまじまじと見つめてきた。
「何だよ?」
「お前。日番谷冬獅郎か? 霊術院首席の」
「何で皆知ってんだ……それがどうした」
それは、今の会話の流れとは関係ないだろう。日番谷の声は不機嫌に尖ったが、ルキアはそうか、ともう一度小さく呟いた。

「夜舟殿と話したことがあるのなら……一人娘の話をされていたか?」
「……いや」
日番谷が首を振ると、ルキアはしゃがみこみ、視線を合わせてきた。
「夜舟殿には、来年真央霊術院の入学を控えた娘がいたのだ。私も会ったことがあるが、お前に憧れていると言っていた。
子供でも、大人の死神を凌ぐほどの力を身につけたい。お前を目標にしたいと。あの子にとって、お前は希望だったのだな」
「……娘が『いた』ってどういうことだ」
尋ねる前から、予想はついていた。思ったとおり、ルキアは重苦しい溜め息をついた。
「……一年前、殺されたのだ。その刀傷からして、死神の斬魂刀に斬られたと断定された。
捜査は当然進められたものの、犯人は見つからないままだったのだ。夜舟殿は、死神に恨みを持ったまま、姿を消された。
こんな風に、子だけではなく母親までも殺されてしまうとは……むごい話だ」

日番谷は、言葉をなくしたまま、じっと考え込んでいた。
昨日見た夜舟と、今のルキアの言葉を重ね合わせる。ルキアは、白哉の去っていった方角を眺めた。
「ではな。葬儀の準備がある、私は六番隊舎へ戻る」
黙ったままの日番谷の肩に、ぽんと手を置く。最後に言い残された言葉が、日番谷の心に焼きついた。
「……夜道は、出歩くなよ。夜舟殿も、自分の娘が憧れたお前が、凶刃の餌食になるのは望まぬはずだ」