きっと草冠は心配してるだろうな。天頂に達した月を見上げ、日番谷はひとり息をついた。
昼間には人垣ができていた場所も、今やそこにいるのは日番谷だけだ。
夜舟が生きた証のように、くっきりと残る血痕を見やる。血痕に指先を押し当てると、乾いた血の破片が散った。
どこかで、拍子木の鳴る音が聞こえた。火の用心、と聞きなれた声が響く。
背後には、いっそ残酷なほどのいつも通りの日常が広がっている。
それを理不尽だと思うのは、自分が「死」を受け入れられないほどに幼い、ということだろうか?
―― 「本当に甘いわね、ぼうや」
ふと、夜舟の声が、聞こえたような気がした。
女にしては低く、どこか眠たげに聞こえるほど柔らかいアルトの声。
あの声を、もう二度と聞くことは無い。
そう思ってもやっぱり、実感がわかなかった。血痕に背を向け、日常に帰れない。
なんでだ、と思う。たった数回の会話のやり取りがあっただけの相手じゃないか。
死を見たショック、それだけの言葉では言い表せない、嫌な予感が頭の中に充満している。
その時。
無機質、とも言える冷たい空気が、日番谷の背後に現れた。
「……誰だ。てめぇは」
死神なら当然持っている霊圧を感じない。そこにあるのは、異質な気配だけだ。
日番谷はゆっくりと肩越しに振り返った。
「大したものだな。この私の気配に気づくとは」
気配と同じように、冷たく澄んだ声だと思った。日番谷はそっと、刀の鯉口を切る。
墨を流したかのように冥(くら)い気配を持つ瞳が、ひた、と日番谷に据えられていた。
「ヒトのものとは、思えねえ」
「死神に、ヒトらしさなど不要だ」
「……あんた。二番隊隊長の砕蜂か」
畳み掛けるように女に向かって話しかける。そうでもしないと、その霊圧に飲まれてしまいそうだ。
疑問系で聞いたものの、心中では確信を持っていた。
二番隊隊長にして、隠密機動の総司令官でもある女。
女の隊長は二番隊の砕蜂、四番隊の卯ノ花の2人だったから、隊長と分かれば選択の余地などない。
砕蜂は、感情のこもらぬ瞳を、その時スッと細めた。
「貴様か。夜舟が殺せなかったばかりか、護ろうとした子供は」
日番谷の瞳が、対照的に見開かれる。
「……殺せなかった?」
その手が、柄から離れる。
「護ろうとした、だって?」
それ以上先は、聞いてはダメだ。警鐘を心の中で聞きながら、日番谷は一歩踏み込んだ。
「嵯峨野夜舟を殺したのは誰ですか!」
砕蜂は、その隊長とは思えぬほど華奢な人差し指を、すぅ、と上げた。
その指先が自分を示すのを、日番谷は唖然として見守ることしか出来なかった。
「夜舟を殺したのはお前だ」
砕蜂は静かに、しかしきっぱりと言い放った。
絶句したのは、その言葉が信じがたかったからではない。心のどこかで、すでに分かっていたからだ。
「貴様は、昨日の夜何を見た」
一歩砕蜂が出る。押されるように日番谷は退がった。
刺すような視線が日番谷に向けられている。齟齬がひとつでもあれば、直後に斬り捨てられてもおかしくないような気がした。
「……夜舟が、死神を殺すところを見ていました。でも、死神の方は気が狂ってるようにしか見えなかった……
夜舟は、そいつは虚を利用して力を得ようとして、発狂したんだって言っていました。流魂街の住人が虚化しているのも、それが原因だって」
日番谷が言い終わる前に、ち、と砕蜂は舌を打っていた。
「そこまで話したのか、あの女は。……まあ、良い」
日番谷はいつでも刀を引き抜けるよう、柄を握る手に力を入れる。砕蜂はそれに頓着することなく、続けた。
「死神の虚化は、死神に蔓延する麻薬のようなもの。刑軍は中央四十三室からの密命を受け、関わる死神の排除に当たってきた」
それはそうだろう、と聞いていた日番谷も思う。
昨夜見た死神は、明らかに異常だった。あんな死神が次々と現れているなら、手を打たないほうがおかしい。
「……でも、六番隊の席官だった夜舟がなんで、刑軍に入る必要があったんですか?」
到底、納得できない。嵯峨野夜舟という女の輪郭は、くっきりしたと思うが早いか、ぼやけてゆく。
砕蜂は日番谷の問いに、スッと両眼を細めた。
「……嵯峨野夜舟の娘を殺したのは、虚化した死神なのだ」
あぁ、と思わず日番谷は声を漏らしていた。心の中で、夜舟の輪郭が一瞬にして浮き上がった。
「刑軍はそれを把握していたが、公にすることはなかった。しかし死神を抜けて単独で犯人を捜し続けた嵯峨野は、
どういう手段を使ったのか事実を探り当て、私のところに辿り着いたのだ。
死神の失踪は重罪、その場で手打ちにしても良かったのだが、あの実力は使える。
そのため、虚化した死神の処理に当たらせてくれと乞うたあの女の願いを、私は受け入れた」
日番谷は油断なく砂蜂の一挙一動に注意を凝らす。
砕蜂が一言発する度に分かる、この女の中に「感情」は存在しない。
夜舟を受け入れたのも、彼女の敵討ちに力を貸すなどという温情ではなく、単に「使える」からだ、という彼女の言葉に、何も言い返せなかった。
ただ、やりきれない気持ちだけが、日番谷の頭の中にこみ上げた。
馬鹿な女だ、と砕蜂は続ける。
「暗殺者に徹すると誓ったというのに、掟を護らず自ら死を選ぶとは」
「……掟?」
砕蜂は、目の前に立つ少年を改めて見返した。
「標的を殺せなかった場合。もしくは、誰かに殺害現場を見られた場合。死なねばならぬのが、暗殺者たる刑軍・第二席の掟だ」
日番谷は、まるでその言葉に押されたように、無意識のうちに背後に下がっていた。
数歩も後ずされず、すぐに背後の壁に背中を打ちつける。
夜舟の乾いた血のカケラが、パラパラと宙に舞った。
「……だから、俺、なんですか。あの女を殺したのは……俺が現場を見たから」
日番谷の声が、自分でもはっきりと分かるほど震えている。
そういえばあの女は、会ってすぐに言っていたはず。
殺害現場を見られたら、自分は日番谷を殺さなければならないと。
それなのにあの女は日番谷を殺さずに去った。
「あなたに会えてよかった」。一言だけを言い残して。
なぜだ?
「……私は、ひとつチャンスを与えた」
日番谷の耳には、砕蜂の言葉は聞こえるが、理解することはできなかった。
それくらい、頭が混乱している。
「死にたくなければ今から目撃者を殺して来い、という私の指示を拒絶し、自ら死を選んだのだ」
黙り込んだ日番谷を、砕蜂は見下ろした。そして、スッと身を引く。
「貴様も並々ならぬ霊圧を持っているようだが、所詮は学生。分をわきまえろ。二度と戦いに首を突っ込むな」
「何故俺を殺さない」
匕首を押しつけるように、押し殺した声だった。
「夜舟が死んだところで、俺が事実を知ってるのは変わらないはずです。それなのに、なぜ」
砕蜂は、眉をひそめて日番谷を見下ろした。そこには、不快が露に見て取れた。
「……全て、忘れろ。隊長命令だ」
一陣の風が吹きぬけ、顔を上げたときには既に、砕蜂の姿はどこにもなかった。
last update: 2012/6/2