―― 今より七か月前 ――

斬れ、と砕蜂は言った。
六番隊の席官という重責を放棄し、失踪した「嵯峨野夜舟」という女が、刑軍に現れたと報告を受けた時だ。
何か隊長に伝えたいことがあるようです、とためらいがちに言った部下を、一瞥で黙らせる。
理由など、聞きたくはない。死神の矜持を護れぬ者には死を。砕蜂の中では、いかなる例外もなかった。

乾いた空気の下、剣戟の音がいくつか、聞こえた。
それを背に立ち上がろうとした時。廊下から長く差し込んだ影が、修練場にいた砕蜂の視界に差し込んだ。
「……貴様」
ゆっくりと、振り返る。その女の姿を見て、正直意外に思った。

まどろんでいるような、どこか柔く甘い空気を持った女だった。手に提げた血刃が、余りにも不釣合いに思えるほどに。
「斬ったのか? 私の部下を」
「殺してはいませんよ」
外見にたがわぬ、ゆっくりとした穏やかな声。まるで上から見ているようなその言い方が、砕蜂の平静をわずかに乱した。

頭の中で、女……嵯峨野夜舟が倒したと言う部下を思い浮かべる。
三席を筆頭に、七席、十席。決して弱くはない。砕蜂は夜舟に向かい合った。


「貴様、脱走者として隠密機動・刑軍から追われていることを知った上で、現れたのか」
砕蜂の問いに、夜舟は黙って微笑みを浮かべた。
「もちろんですわ。死神崩れは刑軍に追われ、殺される。もと死神の私が、それを知らぬはずがないでしょう」
「では何故だ」
「私が追う者たちと、刑軍が追う者たちは同じ、ですから」
「……何の話だ」
「私は、娘を殺した敵が、『虚化した死神』だと知っている。貴方がたが敵対するのも、同じ者たちでしょう」

―― この女。
機密なはずの情報を、何故知っている。
知らぬと切り捨てることもできた。しかし、夜舟の実力は惜しい。
夜舟の提げた刀身に、血が流れる。ぽとり、と床に落ちた時、砕蜂は決断した。

「なるほど。否定はすまい」
砕蜂は、口元に笑みさえ浮かべて返した。
「私に話があるらしいな。何を望む? 嵯峨野夜舟」
「虚化した死神の処理班に加えてください」
ためらいのない言葉だった。そして砕蜂が予想していた言葉と、それは寸分違わなかった。
「……娘の敵討ち。たかが私怨のために、死神であることを捨てた貴様を、信頼できると思うか?」
夜舟は、スッと目を細める。目の前の血刀に、視線を落とした。

「……それは、浅打か。貴様なら斬魂刀を持っているはずだが?」
「娘の刀です。真央霊術院に入学が決まり、支給されたものです」
娘の死後、どれくらいの葛藤を経て母が遺品の刀を取ったのか。砕蜂には、分からない。
夜舟は、砕蜂の知らない微笑を浮かべていた。
「死神を目指していた娘は希望に満ちていました。真央霊術院の首席が自分と同じくらいの少年と知り、
自分もあんなふうになりたいと、嬉しそうに話していました。いつか手合わせをしてほしいと」
「……無理だな」
意味のない会話、としか砕蜂には思えなかった。もう、娘は死んでいるではないか。
「……次の死神の世代が、こんな理不尽な死を迎えなくても済むよう。私は刀を振るいたいのです」
「刑軍に参加するということは、暗殺者に堕ちるということ。碌な死に方はできぬぞ」
「望むところです」


***


もう、随分昔のことに思えるな、と砕蜂は二番隊の敷地内に足を踏み入れながら、思った。
あれが、砕蜂と嵯峨野夜舟の出会いだった。
その次に、まともに会話を交わした昨日―― それは、そのまま最後の会話となった。

見られてしまいましたわ、と夜舟は言った。まるで、通りすがりに知り合いに会ったような、気軽な様子で。
しかし、暗殺の現場を見られたなら、それは暗殺者として最もあってはならない事態。
「殺して来い。今なら見逃してやる」
奇しくも、場所は同じように二番隊の修練場だった。
時刻は、丑三つ時も過ぎた真夜中。向かい合う砕蜂と夜舟以外に、気配は感じない。

「―― まだ、子供でした。銀の髪、翡翠の瞳。瞳の色が宝石のように綺麗でしたわ」
「だからなんだというのだ」
苛苛していた記憶はある。子供だから、なんだというのだ。結論は変わりはしない。
夜舟はそんな砕蜂の様子には気がつかぬように、続けた。
「すぐに分かりました。あれが、亡き娘が憧れてやまなかった少年だと」

数秒の、空白があった。
「……殺せぬ、とでも言うつもりか? 娘の敵打ちのために全てを犠牲にしたお前が?」
殺さねば殺す。殺気を十分に込めた一言だった。
夜舟はその問いには無言。流れるような動きで、左腰の刀の柄に手をやる。
自分の前で同じ浅打を抜いた時、刀はまだ銀色に輝いていた。
しかし、おびただしい人間の血や油を吸ったそれは、ところどころ黒ずんで見えた。

目撃者を殺さないどころか、自分に刃を向けて生き延びようとするか。
かかってくるなら、斬り捨てるまで。砕蜂は懐の刀を確かめた。


「……あの少年を見て、気づいたことがあります」
夜舟は、刀をスイッと中空に持ち上げながら続けた。
「私は、娘の敵を全て殺したいのだと思っていた。でも、そうではなかったようです。
私はただ、娘の願いを、死してなお先へとつなげていきたかった。私は、娘の願いが、あの少年へとつながっていくのを見ました」
「……意味が分からぬ!」
突然こみ上げた不快さを露に、吐き捨てる。

「あなたは……どちらでしょうね」
夜舟の瞳は、いよいよ澄んでいる。砕蜂は、吸い寄せられたようにその顔を凝視した。
「大切な者を失った時。恨みを晴らすため戦いますか? それとも、その方が遺した願いを叶えるため動きますか?」
ああ。砕蜂は心の中で嘆息した。
どうして自分が、この女の一言ひとことに心を引っかかれるような思いをするのか、理解できた気がする。
「……答える必要はない」
二人は、意を決して向き合った。
「……最後のチャンスだ。死にたくなければ今から目撃者を殺して来い」
夜舟は、艶やかに微笑んだ。

「やなこった」

振り上げた浅打はまっすぐに、夜舟の胸へと吸い込まれた――



「隊長! 砕蜂隊長! いかがされましたか? 今……」
倒れる音が響き渡ったためだろう、部下が駆けつけてくる足音を聞きながら、砕蜂は動かずにいた。
「たい……っ」
駆けつけた部下が、床に倒れ伏した女の姿に息を飲む。
「……気にするな。そこの、それは、ただの罪人の死体だ」
馬鹿者が。ピクリとも動かぬ体に、吐き捨てる。
「外へ磔にでもしておけ」
碌な死に方をしないと言った。望むところだと返した。
あの女の望むとおりの結論になったのではないか――
なのになぜ自分は今、こんなに納得がいかない思いを抱えているのか?


***


砕蜂は、二番隊修練場の屋根の上に立つと、静まり返った夜の瀞霊廷を見下ろした。
―― 「大切な者を失った時。恨みを晴らすため戦いますか? それとも、その方が遺した願いを叶えるため動きますか?」
「私は……」
口にすると、思いがけぬ弱気な声が出て、唇を噛んだ。。

私にも、誰よりも敬愛する者はいた。
「彼女」を奪われた時自分は、戦うことも、「彼女」の願いを叶えることもしなかった。
ただ、彼女が自分を捨てたという事実から耳を塞ぎ、閉じこもることが精一杯だった。
「私は……なにも、できなかった」
夜舟の死に顔は、あるかなしかの微笑を湛えていた。
あるいは幸せなのかもしれぬ、と思う。娘が憧れていた少年を見つけ、彼を護るために逝ったのだから。

夜舟を、結果的に死に追いやった少年を思い出す。
確かに、綺麗な目をしていたな。ほろにがく微笑む。
あの少年を、殺さなければならない。あまりにも知りすぎてしまった、あの少年を。
もともとそのつもりで、誰もいない時に現れたはずなのに、結局私はまた、何もできなかった。


砕蜂がうつむいた、その一瞬だった。視界の端で、白銀の煌きを捉えた。
それが何なのか理解すると同時に、ぴたりとその喉元に刃が突きつけられた。
「貴様!」
翡翠色の瞳が、射るような鋭さで砕蜂をその場に縫いとめていた。
刀の切っ先を、砕蜂の喉に触れる直前で止めている。

「なんのつもりだ」
背中に背負っている時点でもしやと思ったが、突きつけられたのは浅打ではなく、斬魂刀だった。
鬼道系の斬魂刀か、と推測するだけの余裕はあった。日番谷は、刀はそのままに一歩、ずいと砕蜂のほうへ歩み寄った。
「あんたに一つ、要求がある」
要求、と日番谷は言った。頼みでも、願いでもなく。
こんな子供が、脅迫の仕方を知っているとは。その瞳ははっきりと、圧するような力を湛えている。
刀をそのままに一歩、砕蜂のほうへ歩み寄る。

「俺を第二席にすると言え。さもなければ、刺す」
一瞬絶句した砕蜂を見て、畳み掛けるように続ける。
「好都合だろ? どうせ、知りすぎた俺をいずれは殺すつもりだろう」
好都合。確かに、それは日番谷の言う通りなのだ。知りすぎてしまったことも、日番谷自身が夜舟の後釜に納まるのならば問題ない。

しかし、砕蜂は鼻で笑う。
夜舟の血の跡を見つめながら、衝撃覚めやらぬ顔をしていた日番谷を思い出す。
あの様子では、昨日初めて人が殺されるところを見たのだろう。
「貴様のような子供に、人が殺せるか? 返り討ちに遭うか、精神崩壊を起こすのが落ちだ」
「……じゃあ、試してみればいいだろ。今」
底光りのする瞳が、砕蜂をじっと見つめている。やれるものならやってみろ、と言葉よりも瞳で語っていた。

動けぬ、と。認めるほかなかった。
隊長たるこの自分が、あの時放心していたのは事実。
しかしその瞬間を見定め、飛び込んできた日番谷を、どうすることもできなかった。
この距離だと、自分の刀に手をやった瞬間、首元を掻き切られるのが落ちだ。

接近にさえ気づかなかった、その瞬歩。
一瞬で刃を突きつける、その体さばき。
そして何より、隊長である自分に面と向かって刃向かう、その胆力。
「死が恐ろしくないのか」
砕蜂の問いに、日番谷は瞬きもせずに返した。
「死ぬよりも怖いことがある」

死ぬよりも怖いことか。砕蜂には、その言葉はすんなりと受け止められた。
確かに、それは砕蜂の中には存在する。きっとあの、夜舟の中にも。

「……碌な死に方はできぬぞ」
「俺は死んだりしない」
死ぬのだよ。そう砕蜂は思う。
因果応報。暗殺者には、暗殺者にふさわしい残酷な死が待っている。

やや置いて、砕蜂はため息をついた。
日番谷が、わずかに刀を首元から引く。殺気が急速に薄れた。
「よくよく愚かな子供だ。掟は分かっておるだろうな」
「標的は殺す。現場を見られても殺す。それが出来なかった時は死ぬ」
「結構だ」
その言葉と同時に、砕蜂の姿がフッ、とその場から掻き消えた。
「……なっ」
日番谷が目を見張った時には、砕蜂が振り上げた腕がすぐ目の前へと迫っていた。
避けるヒマもなく、その頬を砕蜂の拳が打った。


「……あとひとつ言っておくぞ。隊長命令には絶対服従だ。刃を向けるなど断じて許さぬ」
「……了解」
じわり、と鉄の味が口の中に広がる。
日番谷はクラクラする頭に手をやりながら、何とか体勢を立て直した。
「俺の名は……」
言いかけた日番谷を、砕蜂は無言のうちに制した。
「その名は今日限り捨ててもらう。貴様の名は今から『影の第二席』だ」





last update: 2012/6/3