一瞬のひかりが、闇に閉ざされた森を貫いた。数秒後、腹の底に響いてくるような轟音。雨音は間断なく森中を叩きつけている。
足を止めた日番谷は、水をたっぷりと含んで額に垂れ下がってくる髪を、ザッと手櫛で掻き上げた。
銀髪の向こうにあるのは、ただただ漆黒の闇。だが日番谷は、まるで見えているかのような迷いない足取りで、樹上を身軽に渡ってゆく。

脳裏には、雷光が閃いた直後に焼き付けた森の景色が、はっきりと残っていた。
一度眼を通したものは忘れることがない自分の才能が、こんなところに生かされるとは。
日番谷は口の端をゆがめたが、それは笑みを形作る前に顔から滑り落ちた。

軽い足取りで、太い枝の上に飛び降りる。幹に手をやり、周囲を見渡した。
もちろん、何も見えない。しかし、この森のどこかに確かにいる暗殺のターゲットの気配を探った。
「こんな時に、本当に川にいんのか?」
もしそうだとしたら、ソイツは気が狂っている。叩きつけるような濁流の音に耳を澄ませながら、日番谷はひとりごちた。
ただ、自分はどうなのだといわれると、こんな豪雨は決して嫌いではなかった。

誰の声も届かぬ、眼にも留まらぬ、雨のカーテンの中の世界は閉じている。
たった一人の孤独を寂しいと思ってこなかったとは言わない。
でも、孤独の中でしか自分を癒せない。生きていると感じることもできない。
結局は自分は一生孤独なのかもしれない、と日番谷は思う。

どうして、こうなってしまったのか分からない。
流魂街時代に周囲から疎まれたトラウマか、と思おうともしたが、結局のところこれが自分の性分なのだと片付けるしかなかった。
意識を凝らすと、闇の中の蝋燭のように誰かの気配を感じた。
この雨の向こうにいる炎は、どこか自分と似ているのかもしれない、と日番谷は一瞬、おもう。
―― やめた。
連帯感など感じて、どうなるというのだろう。これからこの相手と、殺しあわねばならないというのに。


***


素肌を濡らす冷たい濁流に、乱菊は目を細めた。
むき出しの腕を、まるで天に差し向けるように掲げると、滝から零れ落ちる流れが腕を伝い、顔を伝って一糸纏わぬ全身に流れ落ちた。
一瞬全身を震えが駆け抜けた理由は、雷雨の中という恐怖ではありえない。冷たさによるものでもなかった。
全身を浸したのは、間違えようもない恍惚。
こんな嵐の中、ただ一人滝壺に居て快感を感じるなど、やはりどこかイカレているのだと乱菊は自認した。

「来る、わね」
濁流が押し寄せない、奥まった部分に身体を滑り込ませると、乱菊は水上に背中を投げ出した。
仰向けに浮いて天を眺めやれば、夜空を自在に駆ける稲妻が目に入った。
その第六感とも言える直感は、こっちへ向かって真っ直ぐにやってくる者の気配を捉えていた。
―― 勝てるか?
誰だか知らないが、人間臭さをまるで感じない霊圧だと思った。
死神のものにしては体温が無い。かといって、市丸のように粘着質のある気配ではなく、言うなれば感情も無い。
強いて言えば、圧迫感を持って乱菊に迫る闇そのもののようだ。

まさに死神を狩る「死神」だと皮肉のひとつも言いたくなるくらいだった。
流すことはできない、そう乱菊は思う。逆巻く水に身を任せようと、雨に打たれようと、自分の過去を押し流すことはできない。
その証拠のように、雷はあの時と同じように身を照らし出すではないか。何も隠すことはできないのだとでも言うように。

 



―― 今より30年前 ――

その夜も、叩きつけるような雨が降り注いでいた。時折、雷光に照らされ、雨に打ち叩かれる大地が視界にさらされる。
それが無ければ、闇の中にたゆたっているような……。そんな気持ちにすらさせる、濃度の高い闇が周囲には広がっていた。
市丸ギンと共に、生きるために死神になって、半年後。
十番隊に配属されたばかりの乱菊はその日、雷光に浮かび上がる先輩達の死覇装を頼りに、必死に歩んでいた。

「松本、大丈夫か?」
幾人もの死神達の中で振り返ったのは、乱菊の教育を任されていた第十席、市ノ瀬陣内という男だった。
どんな虚を前にしても怯まず、無力な流魂街の人間を庇うことを躊躇わず、でも乱菊の露な胸には赤面するような。そんな男だった。
十番隊に二百年も配属されながら十席ということは、もうこの後出世する見込みはあまりない。
部下に追い抜かれても、黙って微笑っているような。弱肉強食の世界で生きていた乱菊には、何から何まで異色の人物だった。
信頼できる。初めてそう思った人物でもあった。

「ここで待ってろ。それか、先に瀞霊廷に戻ってもいいんだぞ」
猟師のように日焼けした、皺に囲まれた唇が放った言葉に、乱菊は一度大きく首を振った。
「まだ席も無い新米ですが、あたしも護廷十三隊の死神です。それにあたし、こんな闇には慣れてるんです。一緒に行かせてください」
陣内はそんな乱菊の勝気な表情を見返した。その口元が、ほころぶ。
「何ですか? 笑ってる場合じゃないでしょ」
「俺は、お前のそういう真っ直ぐなところが気に入ってるぜ」
「はぁ? あたしのドコが?」
どんなにかしこまっているつもりでも、驚いたりする度、地の性格が露になってしまう。
それでも陣内は、それをたしなめたことは一度も無かった。

「真っ直ぐなのは貴方ですよ、市ノ瀬第十席。あたしがそうだとしたら、貴方に影響されたんです」
「そうかい」
陣内は笑顔のまま頷いた。また父親みたいな顔をする。
そう乱菊が言おうとした時、すでに前に視線を戻した陣内の表情に笑みはなかった。
「それなら、俺の後ろから離れるなよ、松本。この圧力、決して雷から来るもんじゃない」
先を行く、同じく十番隊の同僚達と小声で話す陣内を見て、乱菊は初めて不安に襲われた。


「たく。とっとと見回りなんて終わらせて、あったかい布団に入りてぇのに。こんな霊圧見つけた日には、見過ごす訳にもいかねぇな」
「ただし深入りは禁物だ。何がいるのか知らぬが、霊圧は確実に消して近づけよ」
「……松本、分かってるな」
陣内がしんがりにいた乱菊に呼びかける。
「はい」
乱菊は頷くと同時に、纏わせた霊圧を一瞬で殺した。

十番隊第十班、総勢十名あまり。並みの敵なら、この人数がいれば問題にはならない。
しかし、今感じている霊圧は……底冷えがするような得体の知れなさを醸し出していた。
―― 一体、何なの?
こんな霊圧を、乱菊は知らなかった。この気配の元を確かめて、一刻も早く瀞霊廷に戻り、副隊長に報告すること。
それが出来なければ、風呂や布団も遠そうだった。遥か遠い瀞霊廷を思い浮かべたとき、同時に幼馴染、市丸ギンのことが頭をよぎった。
入隊と共に五番隊の第三席の座を与えられた彼が、異才と呼ばれたのは当然の成り行きだった。
彼を良く知る乱菊にとっては、それはなんとも面映い評価だったが、市丸は飄々と自らの任務をこなしていると聞く。
出会ってからただの一度も、追いついたと思ったことのない背中。自分はいつも、追いかけるばかりで。
でも……いつかは必ず、追いついてみせる。そのためには、ここで怖気づいている場合ではなかった。

ひときわ大きな、耳を劈くような雷鳴が轟いたのは、その刹那だった。
「止めて……! 助けてくださいっ!!」
一瞬の異音の後、轟音は草木をも震わせ、死神達は幽霊を見たかのように立ちすくんだ。
「伏せろっ!」
低いがよく通る陣内の声に、我に返った死神達は一斉に茂みに身を伏せた。
「あの声。五番隊の渡貫じゃないか?」
呟いた同僚の声に、陣内は頷く。それを見た乱菊の背中に、寒気がゾクゾクとこみ上げてきた。

「俺が行こう。助けを求めている仲間を放ってはおけん」
陣内は、歴戦の戦士にふさわしい、落ち着いた声でそう言い放つ。
静かな鞘走りの音が響き渡り、誰かがごくりと唾を飲み込んだ。
乱菊の記憶に有るその瞬間は、スローモーションのように鮮明で、周りにも音が無い。
立ち上がった陣内の輪郭が、続いて降った雷光により照らし出される――
そして、陣内の体の向こうに現れたもう一人の姿に、その場の全員が息を飲んだ。


「誰か……誰か、助けてくれ!!」
死神としてのプライドもかなぐり捨て、裏返った悲鳴と共にこちらに駆けてきた男……それが五番隊の男だということは、乱菊にも分かった。
その恐怖に歪んだ顔を見た、と思った直後、カカッ、と雷光が断続的に天を渡った。
その間断なき光は、出来損ないのフィルムのように、その場の風景を途切れ途切れに映し出した。
五番隊の男の体が、骨を失ったかのように奇妙な形によぎれ、異常なダンスを踊るところを。
そして、その口から白い何かが吹き出し、顔を全身を覆ってゆくところを。

「わ、渡貫! どうした、大丈夫か!」
陣内は動揺しながらも刀を引き、獣のようなうめき声と共にその場にうずくまった男に駆け寄った。
どうしてかは、分からない。流魂街で生き抜いてきた経験が、そうさせたのかもしれない。気づけば乱菊は、声を振り絞って叫んでいた。
「市ノ瀬十席! 逃げてください!」
「え?」
陣内が、眼を見開いてこちらを見るのが分かった。そして、その背後で刃を抜いた、もう一人の人影がその肩越しに見える。陣内がもう一度、背後を振り向いた。
「何……」
その言葉に、乱菊の悲鳴がかぶさる。五番隊、渡貫だった男の放った袈裟懸けは、陣内の肩から胸を大きく斬り下げていた。
鮮血が迸り、周囲に濃厚な血の匂いが立ち込めた。

「陣内十席! 無事ですか!?」
同僚達が駆け寄ろうとしたのを、陣内は掌で制した。血の溢れる右肩を押さえ、背後を振り返る。
「お前達下がれ! ここは俺がやる!」
「ですが、あれは渡貫では……」
「ちがう」
陣内は、さっきまでとは全く別の返答を返した。そして、血刀を下げてにんまりと笑った、その「死神」だったモノを睨みすえた。
その顔半分は、奇妙な仮面……そう、奇妙なほど「虚に似た」仮面に覆われている。
そして、その両腕には角に似た、異様な形のものが突き出していた。

「……虚?」
乱菊の声は、ひどくか細く聞こえた。
「聞いたことがある」
陣内は、背後の仲間達を庇うように、斬魂刀を構えながら言った。
「死神を虚化することで、死神としての能力の壁を越えられる。そんな根も葉もない噂がはびこっていると」
「そんなことが……」
「渡貫。てっきり俺は、お前が無席だと思っていたがな? どうした、その霊圧は……」
陣内の言葉が緊張をはらんだその刹那、綿貫だった男が、大きく斬魂刀を陣内に向かって振り下ろした。

「ちっ!」
陣内は斬魂刀でその一撃を受ける。しかし同時に刀を斜めに倒して綿貫の刀身を滑らせると、倒れこむように横に逃れた。
「十席! 加勢します!」
「ムダに怪我人出すだけだ!」
陣内劣勢と見るや飛び出そうとした死神たちを、陣内は遮った。
「大体、あれは渡貫なんだ。元に戻さなきゃならん……」
陣内が、唐突に言葉を切った。乱菊を含むその場の誰もが、なぜ陣内が言葉を止めたのか分からなかった。

「じゅっ……十席?」
様子がおかしい。不自然に身体をひねってこちらを向いたまま動きを止めた陣内に、乱菊が駆け寄った。
この隙に渡貫に襲われては戻すも戻さぬもない。暗がりの上この雨で、乱菊の足元は心もとなかった。
「陣……」
目の前に駆け寄った乱菊は、陣内の表情を覗き込む。すぐにおかしい、と気づいた。
その瞳は、乱菊を見ていない。流れる血が、陣内の瞳の中に飛んでいる。それでも、その瞳は瞬きひとつしない……

死んでいる。

その場に立ったまま、微動だにもできず。
「い、や、だ……」
乱菊の悲鳴が声になるよりも早く、鈍い音がかすかに下から聞こえた。
肉を裂き、骨を絶ったささやかな音。見下ろせば、陣内の腹の前に、キラリと銀色に輝くものが見て取れた。
それが、背後から陣内を貫いている刀なのだと気づくのには、しばらく時間がかかった。
ゆっくりと刀は引き抜かれ、支えを失った陣内の体は、ボロクズのようにその場に崩れ落ちた。

「陣内さん!」
「十席!!」
陣内の体を受け止め、その場に崩れ落ちた乱菊に、他の死神達が駆け寄った。
「来ないで!!」
そこで、凛と放たれた声の主が誰なのか分からず、死神達は立ちすくむ。
「逃げるわよ、ここから」
乱菊だった。乱菊が、そっと陣内の体をその場に横たえ、立ち上がっていた。
始解を覚えたばかりの刀を引き抜き、渡貫だった怪物に向き直る。

―― 今の一撃は、綿貫のものじゃない……
それは、明らかだった。では、他にも敵がいるということだ。
―― ごめんね、十席。
なきがらとなった陣内を見下ろし、乱菊は綿貫と向かい合う。
ただ、陣内が力で遅れを取っていた相手に、乱菊が勝てるはずが無いのは分かっている。
とにかく、何が何でもこの場から離れなければ。陣内の体を置いていくことになるが、それをきっと陣内なら許してくれると思った。

「とにかく。みっともないが、逃げるしかないな。だがその前にすることがある」
気づけば、乱菊の周りに仲間達が集まっていた。そしておのおの刀を抜き、綿貫と向き合った。
息詰る緊張がその場を支配する。しかしそんな中、
「あぁ、アカン」
その声は、まるで別次元から聞こえてきたかのように飄々としていた。それを聞いたのと同時に、乱菊の全身が硬直した。

「まさか」
陣内の体を貫いた刀を見た瞬間に、閃いてはいた。
だが、こんな、ときに、こんな、男が、ここに、いるはずが。
「貴様! 五番隊第三席、市丸ギンか!」
その叫びは、まるで現実味がなく、乱菊の耳に届いた。
その後に、白い幽霊のように現れた銀髪を見たときはもっと。
市丸は、まるで瀞霊廷で仲間と出くわしたかのような視線を、その場にいた全員に向けた。

「アカンわ。所詮は無席、ちょっとくらい強なってもせいぜい三席どまりや。失敗作やな」
その時。そう言い放たれた渡貫だった男が、市丸を見やった視線を、乱菊は忘れない。
もう、意識はほぼ無いはずなのに。かつての上官を見下ろす綿貫の目は、疵ついていた。
「貴様……まさか、綿貫を虚化させたのは!」
「ちょお待ち」
市丸が携えていた白銀の光が、再度一閃される。
脇差のような長さの其れは一瞬で数メートルもの長さに伸び、黙って突っ立っていた綿貫の肩を、ごっそりと薙いだ。
「あ……」
誰かの声が、ぽつりと漏れるだけの間に、どうと音を立てて綿貫だったものの体が、陣内に折り重なるようにして倒れた。

「ギ……ン」
呼びかけたのは、半ば無意識だった。振り向いて欲しかった、でも振り向いて欲しくはなかった。
この目の前の「バケモノ」が、彼だと思いたくは無かった。でも、市丸はその声に振り向いた。
「あぁ。追いついてしもたんやね、ついに」
市丸の声は残念そうだったが、悲しそうではなかった。つまりはその程度のものに、乱菊には聞こえた。
「ちょお、待っといてな」
市丸が、近づいてくる。一歩、また一歩。自らが殺したふたつの死体を乗り越えて。その細い瞳から、真紅の瞳孔がのぞく。
「すぐ、終わるさかい」
「な……」
何を。そう言おうとした時、乱菊の目の前に、市丸の掌が差し出された。
何をされたのか分からない。でも次の瞬間、乱菊の意識は急速に遠のいた。





last update: 2012/6/3