沈黙が、周囲を覆い隠す。日番谷は、わずかに眉をひそめた。
聞こえるはずの、木札が岩場に落ちる音はなかった。
その意味を感じ取った瞬間、日番谷は手にした刀を構え、強い雨の中とは思えない身軽さで地面を蹴った。
たおやかな指が、木札を受け止めていた。
一瞬はしった稲妻が、木札に記された名前を、残酷なほどはっきりと照らし出す。
乱菊はスッと目を細め、手にした斬魂刀を正眼に構え斜め上を見据える。
岩の上に、漆黒の小柄な影が舞い降りるのが見えた。その腰で何かが煌く、それが刃だと気づいた刹那、乱菊は刀を大きく振りかぶっていた。
次の瞬間、地響きと共に、二人の間に立ちはだかっていた巨大な岩が弾け飛んだ。
***
―― さすが、副隊長ともなると格が違うな。
スタッ、と地面に飛び降りながら、日番谷は心中感心した。
霊圧の衝突時の衝撃だけで、3メートルは高さがあった岩を吹っ飛ばすとは。
この大雨の中、川に出向くとは頭がイカれていると思ったが、冷静さもあるようだ。
闇にひたりと溶け込むように、相手の気配も、霊圧さえも感じ取れない。
日番谷が、目を凝らした時だった。声が聞こえた。
「誰、あんた」
半ば雨音にかき消されていたが、確かにそう聞こえた。かすかでも、艶やかさが耳に残る独特の響き。日番谷は一瞬、眉をひそめた。
暗闇の中に、ぼぅ……と白い影が幽霊のように浮かび上がった。
すぅ、とこちらに差し伸ばされた白いものが、手だと気づいて日番谷は眉間の皺を深めた。
白魚のようにたおやかな腕だ。その指先は木札を握っている。
それが、自分がさっき投げたものだと気づいた時には、その手は滑らかな動きで、木札を放り投げていた。
雨の合間に、相手の吐息が聞こえた。
どくん、と胸が高鳴る。高鳴りに押し出されるように、日番谷は一歩踏み出した。
どうしてだ、と思う。なぜ自分は、動揺しているんだ?
「暗殺者に名前はない」
動揺を押しつぶすように低い声で呟く。もう、使い慣れたフレーズだった。
そしてゆっくりと、目の前に現れた純白の影に目をやった。
一糸もまとっていないのだ、とすぐに分かった。
艶やかな白い肢体は、まるで燐光を放っているかのように闇から浮き出している。
蜂蜜色の波打つ髪が、豊かな胸元を覆い隠していた。
「……え」
日番谷の全身が強張る。
まさか。そんなはずはない。その髪の色から連想された人物を、すぐに追いやる。
こんな場所にあの女(ひと)はふさわしくない、いるはずがない。
向かいに佇んだ女は、蛇に魅入られた蛙のように動きをとめた日番谷を見て、足をとめた。
怪訝そうに、様子を窺っているように見える。ふたりがその場に向き合ったとき、
無慈悲な雷光が、
二人の姿を照らし出した。
「……」
交錯する吐息、瞳。
「あ」
互いの構えた刀の切っ先が互いを差すのを、信じられぬように見る。
「あ、あ」
次の瞬間、日番谷は喉の奥で悲鳴を上げた。
と同時に、きつく握り締めていたはずの両手から、氷輪丸が滑り落ちる。
カシャン、と音がしても、日番谷は動けなかった。
―― 松本乱菊。こいつが……?
雷に打たれたかのように真っ白になった頭の中で、かろうじて理解できたのはそれだけ。
乱菊は、あの時出会ったのとは別人のような無表情で、日番谷を見返している。
人の手から離れた操り人形のように動きを止めた二人を残し、周囲は再び闇に沈んだ。
「う、そ、だろ」
怖い。
その瞬間日番谷を襲ったのは、ごまかしようもない恐怖だった。
今まで、何のためらいもなく何人も、何人も殺してきたのに何で今更。
ざっ、と静かな足音が聞こえ、日番谷は顔を上げる。
相手の顔は、再び闇に沈んでいる。嘘だと、言って欲しかった。
白い足が、ゆっくりと自分に向かって進められるのが分かった。
それは唖然とするほど、動揺を感じさせぬ滑らかな動きだった。
女……松本乱菊が迫る、それを理解した瞬間、日番谷はじりじりと背後にさがっていた。
全身が震えるほどの鼓動の高まりに、目がくらみそうだった。
伸びてきた手が、ゆっくりと地面に落ちた氷輪丸の柄を握り、持ち上げる。
二本の抜き身の刀の残像が、白く日番谷の瞼裏に残る。自分が丸腰だということに、やっと気づく。
―― 殺される。
刀を突きつけられたわけではないのに、日番谷は乱れた足取りで背後にさがった。
喘ぐ自分の息が、やけに大きく聞こえる。
女の白い影は、まるでこの世のものとは思えぬほどの圧力を持って、確実にゆっくりとこちらに迫ってくる。
「な、んで」
ダン、と背中が背後の岩についた時、日番谷は背の衝撃に押し出されるように、声を絞り出した。
暗殺者として張り詰めていた糸が一気に切れたように、どうしたらいいのか全く分からない。
「……あたしの名前は、松本乱菊。知らなかったのね」
やめてくれ、と日番谷は思う。なんでこの期に及んで、この女はこんなに平気なんだ?
「そしてあんたは、『影の第二席』。そうなのね」
やめてくれ。どうしてそんなに、穏やかな声で、
「そう」
頷くことができるんだ?
ゆっくりと手が日番谷のほうに伸ばされる。日番谷は、とっさに顔を背けた。
ぽん、と銀髪の上に、掌が置かれた。
その髪をなでる指先は、あの日と同じようにやさしかった。
日番谷は思わず、弾かれたように顔を上げる。
乱菊は、微笑んでいた。
日番谷がまともに自分を見たのを確かめると、逆の手に持っていた氷輪丸を差し出す。
「何、を」
乱菊は、戸惑う日番谷に柄を握らせた。
そして、その切っ先を、ゆっくりと自分の喉へと向けた。
氷輪丸の切っ先で、その真っ白い首に赤い線が入り、プツ、と血の雫が膨らむ。
「ちゃんと、狙いなさいよ」
その艶やかな笑みを、日番谷はただ、見上げることしかできなかった。