空を振り仰げば、過ぎ去った夏を思うような、優しい青があった。
頬を撫で、長い金髪を揺らす風もさわやかだ。
季節は、十月。
あんなに陰惨な殺人があったとは思えないほど、すがすがしい朝だった。
足取りは自然に、瀞霊廷と流魂街の狭間に広がる森に向かっていた。
ふぅむ、と乱菊は無意識にうなると、歩きながら懐から取り出した紙に視線を落とした。
「流魂街の住人が、次々と虚化する……? 一体どういうことかしら」
それは、十番隊だけでなく、全ての隊の共通任務として配布されているものだった。
理由は一切不明。平和に暮らしていた住人達が、次々と虚化しているというのだ。
虚化すれば元に戻すすべはなく、現世の虚と同じように斬るしかない。
そして現世との違いは、流魂街で斬られた魂は輪廻せず、そのまま消滅することだった。
一旦成仏し、ソウル・ソサエティに送られた魂が虚化するなど、常識ではありえなかった。
……少なくとも、半年ほど前、初めてこの現象が報告されるまでは。この半年で、虚化した住人は数十人を下らない。
十二番隊の涅が原因解明に動いているらしいが、原因が明確になるまでは、
こうやってまめにパトロールをし、虚化した住人が周囲に被害を及ぼさないよう、見つけ次第処分……殺す、ことしかなかった。
住民の虚化が始まったのが半年前。死神の連続殺人が起こり始めたのは三か月前。表面的には瀞霊廷も流魂街も平穏だが、分かる者にはきな臭さが匂う。
「……虚化、か」
まさかね、ひとり呟いた乱菊の声は、吹き抜けた風にさらわれてゆく。
自然と、昨日の市丸との会話を思い出していた。
―― 気をつけろ、って言われてもねぇ。
そうは言っても、一日中隊舎に閉じこもっているわけにもいかない。
隊長がいない隊の副隊長は、実質トップの座にあるのだ。
率直に言って、実力も精神力も他の副隊長クラスに負ける気はしない。
刑軍だろうが、暗殺者などに負けるいわれはないの、だが。
「影の第二席か。噂話好きなギンらしいわ」
乱菊も噂話程度には聞いたことがあった。
刑軍のトップは、二番隊隊長を兼任する砕蜂であり、第二席は、代々暗殺を生業とする者がその任に就く。
そして、暗殺という生業上、第二席の名前や外見が公にされることは決してないのだ。
誰かに素性を知られたら、死ななければならない。そんな信憑性のない噂まで飛び交っているほどだ。
死神の中に紛れているだの流魂街の住人だの、はたまた実は存在しないだの、いろんな説があるが、砕蜂が黙っている以上、全ては憶測にすぎない。
そのため、ついた名前が「影の第二席」。
「そいつが襲ってきたら、危ないかな」
乱菊は一人呟いたが、その声音に悲壮感はなかった。
その時はその時。そう割り切っている。
そう。
自分が狙われるに値する人間だと、自分で分かっているから。
その時だった。
「破道の四十四、鎌鼬!」
突如響き渡った声に、乱菊はハッと我に返った。
それと同時に、腰に帯びた刀に手をやる。
「……ん?」
ひゅうぅ、と足元を風が吹きぬけていった。
鎌鼬とは、真空の刃を打ち出し、相手の体を斬り裂く技だ。
間違っても、そよ風を吹かせる技ではない。
一瞬、暗殺者じゃないかと疑ったのが自分で恥ずかしくなるくらいだ。
「ちょっと誰よ? 鬼道の練習?」
とはいえ、こんな誰が通るとも分からない場所で鬼道の練習など危険すぎる。
乱菊は刀の柄から手を離すと、声が聞こえた森の中へと踏み入った。
***
「だから。そうじゃねえっつってんだろ?」
初めに耳に入ったのは、幼い、といってもいい少年の声だった。
どこかで聞き覚えのある声だ。
茂みの影から、すこし森が開けた場所を見やった乱菊は、ぴたりと体の動きを止めた。
―― あの子!
銀色の髪。色白の肌。そして、翡翠色の瞳。
間違いない。一年前、流魂街で出会った少年だ。
その類稀なる霊圧の高さは、忘れようとしたって、忘れられるはずがない。
「死神になりなさい」そう言うだけ言って別れて、その後会ったことはなかった。
風の噂に、銀髪の天才少年が真央霊術院に入学したと聞いたが、会いにはいかなかった。
一人前の死神となった彼に会うのは、時間の問題だと思われたから。
真央霊術院に日番谷冬獅郎あり。そのことを、死神たちは今やもうみんな知っている。
成績優秀な学生としてではなく、いずれ自分たちの上に立つ者として。
乱菊が出会った時はあどけない少年だったが、見違えるように表情も体格も引き締まっていた。
もともと顔立ちがはっきりしていたが、それに精悍さが加わっている。
木の根元に腰を下ろし、自分より頭ひとつ分以上大きい3人の少年達に、何かを話していた。
「そうじゃねえって……どうやりゃいいんだよ? 頼む日番谷、コツ教えてくれよ!」
「試験なんだよ、明日!!」
三人は伏し拝まんばかりに日番谷に頭を下げる。その光景を見て、乱菊は思わず苦笑した。
乱菊も卒業生だから覚えがあるが、どうやら、真央霊術院では鬼道の試験があるらしい。
成績優秀な日番谷に、なんとかコツを教えてもらおうとしている……そんな状況だろう。
「そんなことのために、朝っぱらから人を探しに来たのかよ」
対する日番谷は、苦虫を噛み潰したような表情だ。
「そんなことだとぅ!!」
誰かが日番谷の言葉に大げさに反応し、日番谷に詰め寄る。
「おめー、そんなことっていえるのは首席のお前だけだぞ?」
「あぁもぅ、分かった。放課後付き合ってやるから。今は邪魔すんな!」
ヒラヒラ、と手首の力を抜き、日番谷は手を振った。
年上に対して生意気にもほどがある態度だが、どうやら違和感がないほどの立場にあるらしい。
「本当だな!!」
「約束だぞ!」
あー。
面倒くさそうに返すと、しっしっ、と級友達を追い払う。
―― なんか、微笑ましいわね……
自分が真央霊術院の出身なだけに、どういう生活を送っているかは手に取るようにわかる。
流魂街にいたころは異端として周囲に避けられていた日番谷だが、今は逆に、霊圧の高さが役立っているようだった。
人間関係の作り方は……相変わらず、不器用そうだが。
「で?」
日番谷の声が聞こえた。
まだ誰かいるのかしら……と周りを見回したが、級友達はもうどこにもいない。
日番谷に視線を戻したとき、その視線がこちらのほうに真っ直ぐに向けられているのに気づいた。
「誰だ、そこにいんの? ジロジロ見やがって」
これは失敬。ばれてたなんて気づいてなかったわ。
乱菊は、がさがさと茂みを鳴らし、日番谷の視界へと進み出た。
「あたしよ。久しぶりね」
「ゲッ! お前……!」
座り込んでいた日番谷が、膝を立てて体を起こす。
当惑と、驚愕と、辟易が入り混じった、なんとも微妙な表情だ。
大人びたように見えるが、こう間近で見ると、やはりまだ子供だ。
「……」
乱菊は日番谷の前に歩み寄ると、唐突にバッ!と胸元を開いてみる。
「……寒く、ねえのか?」
しばらく沈黙していた日番谷は、首をひねって乱菊を見上げた。
乱菊の出した謎々が解けない。そんな表情だ。乱菊は思わず噴出した。
「これを見て平然としてるってことは、やっぱりコドモね。むしろオッパイが恋しいお年頃?」
「死ね」
日番谷の眉間の皺が、一気に深まった。
「何しに来たのかしらねーが、用がねーなら帰れ。ていうか、用があるわけねーよな」
そう言うなり、ゴロリとまた木の根元に背中を投げ出した。
どうやら、級友達がやってくる前も、ずっとこうやっていたらしい。
乱菊は、そんな日番谷を見下ろした。
確かに、一年ぶりに顔を合わせていきなり用がある、ということはあまりないだろう。
「あんたに用はないけど、さ」
乱菊はそんな日番谷から視線を外し、光が満ちる森を見回した。
「ここに用があったのよ」
そして、日番谷の脇に腰を下ろした。
気分がくさくさした時には、自然の光を浴びるに限る。
ここは、音に満ちているが静かだ。
どこかで、水が流れ落ちる音。木々の葉が風に揺れる音。鳥のさえずり。
それらは音で在りながら、すこしも乱菊の耳を刺激しない。
日番谷は、頭の後ろに両腕を回して軽く目を閉じている。
こんな少年の頭にも、癒されたいと思うような事情が詰まっているのだろうか。
日番谷を見やった乱菊の視線が、その傍らに置かれた刀に吸い寄せられた。
日番谷の腕くらいの長さの、大人には短めの刀……しかしただの刀じゃない、これは。
「これ、あんたの斬魂刀?」
どこまで早熟なんだ、この子は。乱菊は、半ば呆れて声をかける。
自分の斬魂刀を手にできるなんて、死神でも簡単なことじゃないのに。
乱菊は思わず、日番谷の体越しに手を伸ばす。すると、その手首を日番谷がガシッと掴んだ。
「人の刀に触るんじゃねーよ」
おっと。乱菊はそっと手を引っ込めた。
下から睨みつけている日番谷は小さくても、もうしっかりと戦士の顔をしている。
というより、今の間延びしきった護廷十三隊の中では、新鮮に見えるくらいだ。
「あんたも、もう立派な死神の卵ね」
乱菊は体勢を戻すと、座ったまま背後に両手をついた。
その声音に、ほんの少しの寂寥が混ざったのは、自分でも無意識。
しかし、日番谷はすっと視線を乱菊に向けた。
「どうかしたのか?」
どうって、と返そうとして、言葉が途中で止まった。
他人に関心がないような顔をしていて、意外と気持ちの機微に敏い。
「なーんでも、ないわよ」
率直な聞きぶりが、幼いと思う。でも同時に新鮮でもあった。
大人は、図星を言い当てられた時ほど、本音を隠そうとするものだ。
「あんたのこと、たまに思い出してたわ」
気づけば、そう話しかけていた。
人間関係にはサバサバしていると自他共に認める乱菊が、他人を思い続けることなどあまりない。
でも、なぜか日番谷のことは、ずっと覚えていた。
「あんたの力は、強すぎる。でもまだ幼すぎる。あんたはまだ知らないと思うけど、死神の道は険しいわよ。弱肉強食の世界だもの。
そんな世界にあんたを放り込んで、本当によかったのかってね」
「弱肉、強食……」
日番谷がゆっくりと、乱菊の言葉を繰り返す。
「強い者は、弱い者に何をされても仕方ないってことよ。例え、仲間同士でも」
仲間同士、という言葉を、敢えてつけ加えた。目下のところ、死神には敵といえる敵はいない。
それほど強い虚は生まれていないし、虚より上のレベルは王属特務の管轄だ。
流魂街も表立っては平穏で、瀞霊廷に牙を剥こうという輩は今のところいない。
それでも。
平和を謳歌しながらも、裏では死神が死神を殺しているという現状。
結局は、恐ろしいのは反乱でも虚でもなく、仲間なのだ。
この子も、いつかそんな醜い部分に触れてしまうのだろうか。
その時、どんな反応を返すのだろうか。
それが、乱菊には恐ろしい。
「分かってる」
日番谷は、そう言った。しかし乱菊は首を振る。
乱菊がどういう背景を元にそう言っているのが、日番谷に伝わっているはずもないと思う。
「分かってるっていうなら、今のうちに言っておくわ。もしもあんたが死神になった後、あたしを殺せと命じられたとする。その時は」
「おい」
日番谷が、おそらく意識的に口を挟んだ。
しかし、乱菊は一旦口に出した言葉を留められない。
「ためらいなく、あたしを殺しなさい」
それが、死神だ。
そうしないと、生き残ってはいけない。
そして乱菊がもしも狙われたら、その時は相手が誰だろうが、戦い退けるしかない。
死神は裁く者でも正義を貫く者でもなく、その前に戦士なのだから。
「断る」
日番谷の返事は、これ以上ないほど短かった。
そして、寝転がったまま、真っ直ぐな翡翠を乱菊に向けた。その綺麗なまなざしに、乱菊は思わずドキリとする。
「死神がお前を殺そうとしたら、俺が味方になってやる」
だからそんな辛気臭い顔すんなってんだ、と憎まれ口を叩く。
「……」
乱菊はつかの間、言葉を失って日番谷を見下ろした。
「何だよ?」
「……」
「気味悪ぃな、だから何だって……うわっ!」
「かわいいっ!!」
がばっ!! と乱菊は唐突に日番谷に飛びついた。
「かわいい!? なんでそうなるんだよ、撤回しろ!」
乱菊の体(胸)の重みに押しつぶされそうになりながら、日番谷が顔を真っ赤にしてもがく。
「ほら、かわいい。赤面してる」
「息できねーんだよ!! 離れろっ!」
「いい風ねー」
「てめ、聞け!!」
「そう思わない?」
日番谷は乱菊の腕に抱え込まれたまま、空を見上げた。
タイミングよく、涼やかな風が森を駆け抜けてゆく。
日番谷も、ふっとまなざしを和らげた。
そのまま、ふたりは黙ったまましばらく空を仰いでいた。
「……それ、何だ?」
不意に日番谷がそう言った。その声は、少し眠たそうに揺れている。
日番谷の視線が、乱菊の耳元に注がれていた。
「ピアスよ。耳飾り」
乱菊は、自分の耳たぶに指先で触れる。そこには、小さな赤い石で出来たピアスが着けられていた。
「似合わねー、色……」
なんだと? 乱菊が日番谷に視線を戻す。しかし。
「あら?」
間の抜けた声を出した。
「眠っちゃった?」
温かさが心地よかったのかもしれない。日番谷は、乱菊に抱かれたまま、規則正しい寝息を立てていた。
「こんないい女に抱かれて寝ちゃうなんて。やっぱりコドモね」
肘を立て、赤ん坊を見守るように日番谷の寝顔を見下ろす。
心が一瞬で凪いでゆくほど、無邪気な寝顔が目に入った。
寝息と共に、上下する小さな胸。
ひたむきなまでに生きようとする力を感じるようで、乱菊はふと切なくなる。
早熟なこの子が、瀞霊廷を卒業して死神になるのは、時間の問題だろう。
その時、瀞霊廷はどうなっているだろうか。
同士討ちを重ねるような哀しい悪習から、抜け出せているだろうか。
この少年の持つ翡翠は、本当に美しい。ヒトの持つ色とは思えないくらいだ。
それがこのまま、曇らずに済むようにと、心から願う。
乱菊はそっ、とその銀色の髪に手を伸ばした。
掌で撫でてやると、かすかに表情を和らげ、乱菊の方に首を傾けてきた。
愛情を知らぬこの掌でも、死神として命を奪い続けたこの指でも、誰かを癒すことができるなら。
「……まだ。暗殺者とやらに、殺されるわけにはいかないわね」
ふ、と乱菊はつぶやく。
今この子に会ってよかった。心からそう思った。
まだ、やることがあるんだ。
日番谷が死神になる前に、こんなゴタゴタには決着をつけなければならない。