そして、時刻は夕刻。
「……そろそろ起きねーかな、コイツ」
日番谷は困っていた。

目の前には、スースーと幸せそうな寝息を立てる、乱菊の顔があった。
それよりも更に前には、乱菊の巨大すぎる胸が鎮座していた。
少しでも動けば、その片方何キロあるのかと思わせる胸に当たってしまう。
起こすことはたやすかったが、起こして目下の状況を分かち合うのは絶対に避けたい。

「よっ……と」
細心の注意を払い、日番谷はそーっと乱菊の腕から抜け出すことに成功した。
「やべ、もう学校終わってンな……」
既に大きく傾いた太陽を見上げ、ひとりごちる。
教室で寝てしまったことは最近数あれど、外で朝から夕方まで寝てたなんて初めてだ。
とにかく、放課後級友達の修行につきあう約束だ。それまですっぽかす訳にはいかない。
立ち上がろうとした時、視界に小さな影が落ちてくるのが目に入った。
それは、伸ばした日番谷の掌の中に、すっぽりと納まった。

「二日連続かよ」
それを目にした日番谷の声が、一気に感情を失う。
それは、墨書きで名前が書かれた小さな木札だった。
「三番隊第三席。桐生誠か」
読み上げると、物憂げに視線を木の上にやる。
枝の上には、死覇装とは若干異なる黒装束を身につけた男がいた。
足首と手首には黒いゲートルを巻き、黒い布で眼と鼻を完全に覆っている。刑軍の衣装だった。
「は」
返された返事は、最小限。
「砕蜂隊長からのご指示です。お願い致します、『日番谷第二席』」
「……あぁ」
木札を見下ろした日番谷の瞳に、冥(くら)い光が渡った。
同時に、頭上の影はフッと姿を消した。


「おい、お前」
乱菊は、小さな手が自分の肩を揺するのに気づき、目をうっすらと開けた。
「ン……あたし、寝ちゃってた?」
「ぐっすりとな」
ぼんやりした視界で、地面に座り込んだ日番谷の姿が見えた。
懐に、小さな棒のようなものを差し込むところだった。
そのまますっくと立ち上がり、視線を乱菊に落とした。
「いい加減起きて隊舎に帰れよ。……夜風は、冷えるからな」
それだけ言うと背中を向ける。
足音を立てないその背中は、やけに寒々しく乱菊の目に映った。

 
***


そろそろ、十五夜が近い。時刻は、十二時を回っていた。
夜の空はいよいよ澄み渡り、月光が降り注ぐ瀞霊廷内は、明かりがなくとも歩けるほどに明るかった。
吹き抜ける涼しい風が、酔いが色濃く残る頬に心地よい。
「ハー、今日の酒は最高だったな」
千鳥足で、鼻歌を歌いながら夜道を行く男が、一人。
もう壮年と言ってもいい年頃だが、その体は屈強に鍛え上げられている。

今日は、いい酒だった。
彼の一人息子が、真央霊術院に合格し、同じ死神の道を歩むと決まったのだ。
いつもの酒飲み仲間が開いてくれた酒宴の席で、温かい言葉をかけられたのが嬉しかった。
息子は、もう寝てしまっているだろう。合格したその日に戻らなかった父親を恨んでいるか、と苦笑する。
帰ったら、おめでとうと言ってやろう。
同じ道を歩んでくれることを、父親として嬉しく思っていると、伝えよう。
今宵の月は、普段は伝えられないことを自然に橋渡ししてくれるような、不思議な輝きに満ちている。


「……桐生第三席か」
不意に、静かな声が夜道に響き渡った。
「ン?」
広い道路に、長い影がうっすらと伸びている。その先を追うと、死覇装をまとった小柄な人影が見えた。
身長からして女だろう、と見当をつける。酔いも手伝って、怪しいとは思わなかった。
「どうしたんだ? こんな夜中に。急用か?」
酔った足取りのまま、そちらに歩み寄ろうとした桐生の足がピタリと止まった。

闇に潜んだ刀に、月光がギラリと渡り妖しく輝いた。
「……それは、俺の斬魂刀か」
間違いない。三番隊の自室に置いてきたはずの、自分の斬魂刀だった。
その小柄な人影は、その切っ先をまっすぐに桐生につきつけていたのだ。
「何者だ!」
酔いが一瞬で吹き散らされた。桐生は人影に向き直る。

女か? と思ったのは、その体格が極端に小さかったからだ。
月光を背後に背負っているため、顔は全く分からない。
銀色の髪がキラキラと月光を受け、輝いていた。
「……日番谷冬獅郎だ」
名乗った声に、桐生は目を見開く。
「お前。真央霊術院の神童か?」
桐生もその名は何度も、仲間内の噂話で聞いていた。
卒業すれば即、席官に任じられることは確実で、史上最年少の隊長になるだろうことも。
幼くとも、実力さえあれば認められる。体でそれを証明している少年の存在が、息子が真央霊術院を目指す理由になったのではと桐生は思っている。
「こんな夜更けに、何をしているのだ? それに、……その恰好」
少年は、死覇装に手甲脚絆を身につけている。一瞬見過ごしそうになった桐生の目が止まった。
彼は、まだ学生のはずだ。それなのになぜ、死神の装束を身につけているのだ?

「こんなところで何をしている? それに、その恰好」
少年はそれには答えず、懐から小さな木札を取り出し、無造作に放り投げた。
それを何気なく見下ろした桐生の表情が、硬直する。
「……この木札」
黒々と、自分の名前が書かれているのを桐生は唖然として見下ろした。
修練場の自分の木札が数日前になくなったのは、知っていた。もちろん、その後何が起こるかということも。
しかし敵が何者であれ、第三席の自分をそうそう殺せる者がいるとは思えない、と高をくくっていた。
もし襲い掛かってきたら飛んで火に入る夏の虫だ、返り討ちにしてやると豪快に笑い飛ばしたばかりだった。
「まさか。お前が連続殺人の犯人なのか?」
信じがたい思いで、桐生は華奢にさえ見える少年を見下ろす。
しかし日番谷は、一度だけ、しかしきっぱりと頷いた。
「なぜだ?」
桐生は声を張り上げた。
「お前は将来を約束された神童だ。なぜこんな……暗殺なぞに手を染める必要がある? 誰の指示だ」
「誰の指示でもない。……俺の意思だ」
「馬鹿な」
桐生は吐き捨てた。
「お前が神童だろうが、第三席の死神には勝てん。……お前を捕えて刑軍に引き渡す。子供だとしても、今まで殺した人数を考えれば見逃せん」
おそらく生まれつきの才能を持ち、このまま行けば輝かしい進路が開かれているはずなのに、一体どうして棒に振る真似をするのか。
今だ半信半疑ながらも、もし少年の言葉が事実なら、しかるべき裁きを受けさせるほかない。しかし、息子よりも幼い子供を殺すと言う選択肢は桐生にはなかった。

ふ、と日番谷は一瞬、息を漏らした。
「……無駄だな。俺が刑軍だ」
「なに?」
桐生は何かを呑み込んだような顔をした。
刑軍にはただ一人、誰にも顔を知られず、暗殺のみを行う者が存在すると言う。
「お前……まさか、『影の第二席』か」
無意識のうちに、身構えていた。第二席であるなら、桐生よりも格上だ。

沈黙が落ち、日番谷はその翡翠色の目で、まっすぐに見返して来た。
否定しない、その無言の意味は嫌でも伝わる。桐生の背に、冷たい汗が伝った。
刑軍であれば、罪を裁くため死神を斬る。何も、断罪されるような罪は犯していない……そこまで思った時、まさか、と桐生の脳裏に閃くことがあった。

「……お前は、死神としての『禁忌』を犯した」

まだ子供とは思えぬ、冷徹な声音だった。まるで、「死神」全ての存在から放たれた声のように、桐生の耳には届いた。
「なんのことだ」
そう返した声は、わずかに震えていた。
「なぜ黙っている!」
そう声を荒げても、日番谷は無言だった。全てを見通すようなその目が、桐生には恐ろしかった。
自分の中の罪を暴き立て、この眩しすぎる月光の元に晒そうというのか。心が、ずきりと痛む。
「言うべきことは、それだけか?」
少年は、静かにそう言った。
「何を……」
「言い遺すことはそれだけかと、言っている」
声はいよいよ冴え、凍てつくようだ。少年は、音もなくすべるような足取りで歩み寄ってきた。
その瞳が、月光の影のような深い翡翠色に沈んでいる。
眦を決した瞬間、ぞくりと背筋があわ立つような殺気が、桐生に向かって吹き付けられた。
途端、桐生は本能的に背後に飛び退いた。小さな少年の姿が一瞬、膨れ上がったように感じたのだ。

日番谷は、突きつけた刃を桐生のほうに放り投げた。
カラン、と地面に転がった刀の音を聞いても、桐生は日番谷から目をそらせなかった。
一瞬でも視線をそらせば、その瞬間に斬りつけてきてもおかしくない。
「何のつもりだ?」
「手に取れ。死神らしく、戦って死ね」
「後悔するぞ」
桐生はそう返すと、足先で刀を跳ね上げ、手に馴染む柄を掴んだ。
こんな子供に……一瞬起きた葛藤を振り払う。殺さなければ、殺される。桐生は切っ先を日番谷に向けた。

沈黙が、二人の間を支配する。
「……死神とは戦う者。非力なことが一番の罪だ。違うか」
「違う」
「何が違う! 死神には必要なのだ、全てを凌駕し、支配する力が!」
これが、最後の問答になる。それが互いに分かるほど、その場の空気は限界まで張り詰めていた。
「……お前が、刀を取った理由は何だ?」
日番谷は、わずかに視線を伏せ自らの刀を見下ろした。
「力や支配など、初めはどうだってよかったんじゃないのか?」
「……それは」
一瞬桐生は言葉につまった。
「それは綺麗事だ! 虚は刻々と力を上げ、死神では手に負えぬ破面も次々と発生している。
少しでも強く、そうあらなければ誰も護れない。手段は選んでいられない、違うか!」
緊張の糸が、これ以上引っ張れば切れる。言葉を終えないうちに、桐生はダン、と地を蹴った。
そして、刀を真っ向から振り上げながら、一気に日番谷へと迫った。
日番谷は、腰を落とし刀の鯉口を切った体勢のまま、動かない。
5メートル。3メートル。
「もらった!」
桐生が刀を振り下ろそうとした、瞬間。
日番谷の姿が、フッ、と掻き消えた。

―― 瞬歩か!
そう思った時には、日番谷が稲妻のようなスピードで、桐生の懐に飛び込んでいた。
前に出した桐生の右膝の上に、トン、と日番谷の足が乗る。
ぐん、とスピードを上げると同時に、一気に刀を抜き放った。

―― 死ぬ。
桐生の脳裏に恐怖が拡がる。
それと同時に頭をよぎったのはなぜか、まだ幼いころの息子の笑顔だった。
――…… 俺は、なんのためになりふり構わず、強さを目指したのだったか?

ぶつからんばかりに入れ違う二つの影。
刀が一閃し……次の瞬間、濡れた音と共に桐生の首が弾けとんだ。
どさっ、と鈍い音を立て、首の無い体が地面へ転がる。
それと同時に、日番谷が音もなく地面に飛び降りた。
その足元に、ごろり、と桐生の首が転がる。
何が起きたのか分からない、という感情を剥き出しにした、驚愕に満ちた表情。

日番谷はつかの間、瞑目する。
そして地面に転がった木札に、視線を落とす。
「三番隊第三席。桐生誠」
平坦な声で、それを読み上げる。そして惨劇の場に背を向けた。




last update: 2012/6/2