流魂街に、虚が出没するらしい。
噂好きの草冠が仕入れてきた情報を聞いて、ばあちゃんを思い出した。
ばあちゃんは無力なんだ、いきなり虚と出くわしたらと思うとぞっとする。
夜に多く出てくるという虚を、夜だけでも見張ってやろうと思っただけだったんだ。
全てが始まったきっかけは、それだけだった。
**
日番谷は音を立てず、気配を殺して真央霊術院の塀を乗り越えた。
死覇装は担いだ袋の中に詰めこみ、学校の制服に着替えている。
「おぉい、誰だ! こんな夜更けに」
こぼれた銀髪が月光を反射してしまったのだろうか、門番が眠そうな声をかけてくる。
日番谷は一瞬ぎくりとするが、すぐに叫び返す。
「一年の日番谷です。すいません」
「おぉ、首席のな。祖母のところへ行くのもほどほどにな。心配する気持ちは分かるが」
「……すいません」
日番谷だと分かった途端、声音が信頼を含んだものに変わるのに罪悪感を覚えた。
門番の中では日番谷は未だに、祖母のために虚の見張りを続ける孝行孫のはずだ。
敢えて否定しない自分も、嫌だった。
寮の同室の草冠はもう眠っているらしく、部屋からは音がしなかった。
日番谷はまっすぐに、二人共用で使っている風呂へと向かう。
着物を脱ぎ捨て、真っ先に水を頭からかぶった。
血の匂い。日番谷は眉を顰める。
いつかこの匂いに、自分で気づかなくなるのだろうか?
いやもしかして既に、べっとりと張りついた血の匂いに気づいていないのは、自分だけではないのか?
焦燥に駆られ、ごしごしと石鹸で体をこする。
一時間前に殺した、あの桐生という三番隊の三席。
地面に転がった首が、体ともう完全に切り離されているのに、言葉を発した気がした。
―― 「さ……く、」
もしかしてあれは、誰かの名前だったのではないか? 思い浮かぶと同時に、ぶるりと体が震えた。
あの男にだって、家族も仲間もいたはずだ。
自分になんの権利があって、あの男を殺したのだ。あんな風に、一分の情をかけることもなく。
風呂の鏡に、幽霊でも見たように蒼白な自分の顔が映っている。
刹那!
日番谷は自分でも気づかないままに、拳で鏡を叩き割っていた。
破片が刺さったのだろう、鋭い痛みが走る。日番谷はしばらく、その場から動けなかった。
「……ばあちゃん」
ぽつりと、流魂街に残してきた大切な家族の名前を呼ぶ。
一緒に暮らしていた平和な日々のことが、遠く遠く思い出される。
この三カ月、全く会いに戻っていない。顔を合わせれば、自分に染みついた血の匂いが見抜かれそうで、恐ろしかった。
「なんで……こんなことになったんだ」
ぽつりと呟いた言葉は、水音にかき消された。
***
― 三ヶ月前 ―
はらり、はらり、と紙をめくる音と、置時計の秒針の音だけが、その場には響いていた。
日番谷は、寮室である和室の障子を開け、縁側から入ってくる涼風に吹かれていた。
「おい冬獅郎、障子閉めてくれ。小さい虫が入ってきて困る」
床の間の前の文机に肘をつき、教科書と格闘していた草冠が、前を払う仕草をしながら日番谷を見やる。
「分かるけど、あちぃんだよ」
「氷輪丸を使って冷やせばいいだろ?」
「寮内で霊圧を使うのは、校則で禁止だろ」
「さすが首席、優等生だな」
「大宇奈原にバレると、何時間も絞られるのがヤなんだよ。涼しくする手段はあるのに、できねぇなんて」
しぶしぶ障子を閉め、襟元をくつろげてぼやいた日番谷を見て、草冠が苦笑する。
机の上に置いてあった大きな団扇で、日番谷を扇いだ。そよそよと銀髪が揺れる。
日番谷は立ち上がり、草冠が読んでいる「鬼道大全」を後ろから覗きこんだ。
「……虫が入らないが涼風は通すような結界を開発するか。結界くらい使ってもいいだろ」
「鬼道はそもそも戦闘用だろ。そんなことに使ってどうするんだ」
大全を読み続けるのを諦めた草冠が、笑い出す。
「役立つじゃねぇか」
「日常に役立つのは認める。でもそれじゃ単位が取れない」
「単位は寝てても取れる。ヒマなんだ」
淡々と言う日番谷に、草冠が恨みがましい視線を向ける。
「お前……勉強中の俺を見ながら、それを言うか。いまいましい奴」
ぷっ、と日番谷がこらえきれずに噴出した。大きく伸びをして、立ち上がる。
「結界を考えてやるから、許せ。ちょっと散歩に出てくる」
刀を担ぎ、そそくさと出て行こうとする日番谷の襟を、草冠が後ろからがっしりと掴む。
草冠の身長は、日番谷よりも頭一つ分以上高いため、つるし上げているようにも見える。
「何だよ、急に!」
「怪しい。最近、毎晩散歩に行ってるだろ? しかも二時間くらい」
「散歩くらいいいだろ、別に」
「刀を担いでか?」
口での言い合いになれば、どうやったって草冠のほうが強い。
日番谷は頬を膨らませてふてくされた。
「お前は俺の保護者か? ほっとけよ」
「ダメだ! 寮に個室がないのは、どうしてだと思うんだ。互いの行動を正すためでもあるんだぞ」
さすが次席は優等生だ、と日番谷が嫌味を返しそうになった時、草冠が不意ににやりと笑い、日番谷の耳元でささやいた。
「流魂街に行くんだろ? 虚が出没してないか確認するために」
ぎくり、とした。まさにその通りだったからだ。
それが表情に出てしまったのだろう、草冠は得たりとばかりに笑みを深くする。
「流魂街に虚が出るって俺が言った、その晩からだもんな。お前は、分かり易すぎるんだよ」
「……だったらどうした」
「俺も行く!」
は? と頓狂な声が出た。草冠はためらわず頷く。
「そりゃ、学生は手を出すなってお達しが出てるのは知ってるけど、俺達だって死神の卵なんだ。流魂街を虚の手から守るのは当然のことだ、違うか」
「違わない。違わない、けど。二人いないとさすがに……」
「部屋の明かりをつけていけばバレないさ」
いつもこうなのだ。日番谷のほうが成績は優秀だが、勢いがいい上、何かと器用な草冠にいつも押し切られてしまう。
普段は考えを押しつけられるのは嫌いだが、草冠となると腹が立たないのが不思議でもある。
結局十五分後、日番谷は草冠と共に夜風に吹かれていた。
いつも一人で歩いていた道を、二人でゆくのは変な感じだ、と日番谷は思う。
「お前はさ、割としっかり寝なきゃダメなタイプだろ」
急に草冠に呼びかけられ、顔を上げる。うぅん、と曖昧に頷くと、そうなんだよとなぜか強く言われた。
「授業中も眠そうにしてるだろ。流魂街が気になるなら、俺と交代で見回ろう。明日は俺が行くよ」
夜道のせいでよく顔は分からないが、心配されているのだ、と日番谷にも分かった。
日番谷が黙っていると、草冠が見下ろしてくる視線を感じた。
「駄目か?」
「駄目じゃない」
慌てて、すぐに返す。返した後、自分でも意外に思った。
基本的に、誰かにものを頼んだことがない。
申し訳ないと思う気持ちが半分、そもそも信用できないのが半分。
特に今回は、流魂街で虚に出くわせば命にも関わるだけに、そうそう他人に頼んでいいことではなかった。
「そうか!」
笑顔を浮かべる草冠が友達で、本当に良かったと思う。
「……ありがとう」
礼を言われたのが照れ臭かったのか、草冠は黙ってしまった。
瀞霊廷から流魂街へ向かう道は、途中で二股に分かれている。
「じゃ、今日はバラバラに行こうぜ。せっかく二人いるんだから」
「おぅ、じゃあ冬獅郎は右な。俺は左へ行く」
「ヤバくなったら霊圧で知らせてくれ。すぐに行く。深入りすんなよ」
「お前もな」
言いつつも、自分が虚の一体やそこらで引けを取るとは思っていない。
草冠が左の道へ入るのを見送った後、日番谷は右の道へと進んだ。
季節は、七月だった。梅雨明けも近い頃である。
大きな釜でじわじわと蒸されているような暑さは、夜になると少しはマシになった。
ひたひたと小さな足音を立てながら、どんどん暗くなる夜道を進んでゆく。
虚の気配は、まるで感じない。
―― しかし……流魂街に虚が出る、ってどういうことなんだ?
実際にその姿を見ていないからなんとも言えないが、火のないところに噂は立たない。
流魂街には本来、成仏した魂のみが送られるのに、成仏していない魂である虚が入り込むのはおかしいと思う。
何か、教科書には載りようのない事実があるのだろうか。
雛森に聞いてみるか、と一瞬思ったが、すぐに却下した。
聞けば何かしら答えてくれるのは間違いないが、なんとなく力を借りるのは嫌だった。
顔を上げると、隣は七番隊の隊舎だった。まだ大勢が起きているらしく、ほとんど全ての窓に明かりが見える。
―― 何千人も雁首そろえておきながら、こんなお膝元の虚も片せないのかよ……
流魂街全域で虚化騒動が起こっているならまだしも、瀞霊廷周辺に被害は集中しているのだ。
―― 俺が、もし隊長だったら……
その考えが、自惚れでも過大妄想でもなく、近い未来の現実だということを日番谷は知っている。
他の学生には極秘にされているが、隊長となることを前提とした帝王学の個人授業も受けている。
真央霊術院の中にあっても、日番谷はなお、他の者と同じ視点を持つことは許されない「異端」だと自覚していた。
「……待てよ?」
日番谷はそこで、思わず声に出してしまって我に返った。
瀞霊廷の周囲でしか起こらない現象。ということは単純に考えれば、瀞霊廷自体に原因があるのではないか?
日番谷は思わず、そびえ立つ隊舎を見上げた。
異質な音が響いたのは、その時だった。
どっ、と何かがぶつかり合うような鈍い音と共に、誰かのうめき声が聞こえた気がする。
日番谷は一瞬足を止めたが、鍛錬している体は勝手に動いた。
霊圧を消し、瞬歩でその場へと向かう。
死神同士が激しく戦っているのだ、と把握するのに、それほど時間はかからなかった。
その場は倉庫郡になっていて、昼間でも閑散としている場所だ。
白壁に背中をつけ、月光を背にしていないのを確認してから、音が聞こえている通りを伺う。
月光に照らされ、まるで白壁がスクリーンになったかのように、二つの黒い影が行きかう。
―― やっぱり、死神か。
その影は、死覇装に違いない。両者とも、手に刃を持っていた。
キィン、と耳が痛くなるほどの金属音が断続的に響く。
じゅるっ、と粘着質な音が響き、日番谷はそっと通りに顔を突き出す。
すると、まるで猿のように前かがみになり、歯をむき出した男の横顔が目に入り、ぎょっとした。
まるで、正気とは思えない。
舌なめずりをしながら、刃を手に前へと踏み出した姿は、獲物を前にした獣のようだった。
「てててめぇ……ころ殺してやる。ぶち殺してやるぜ」
やっぱり、マトモじゃない。狂ったように笑い出した男の声に、ぞくっ、と背筋が泡立つ。
肌をチリチリと焼くような純粋な殺意が、周囲には吹き付けられている。
―― 相手は?
男の影になってよく見えない。身をわずかに乗り出した時、月光を背に佇む姿が見えた。
目にすると同時に、男を見た時とは違う戦慄が、日番谷を襲う。
それは、細身で長身の女だった。
腰の辺りまである漆黒の長い髪が、風になぶられ揺れている。
細く切れ長の瞳が、怯える風は微塵もなく、男をまっすぐに見据えていた。
しかし男に対する敵意や殺意のようなものは感じられず、むしろ女の雰囲気は穏やかとさえ言ってよかった。
男が動とすれば女は静。日番谷は固唾を呑んで、二人を見守った。
男が、女に向かって一歩踏み出す。その全身を舐めるように見回し、下品な笑みを浮かべた。
「ただじゃ殺さねぇええ。その着物ひん剥いて、その澄ました面を屈辱でゆがませてやる。ゾクゾク、するぜ……」
次の瞬間、男が地を蹴る。そして、女に向かって手にした刀を叩き付けた。
「!」
日番谷は思わず、身を乗り出す。明らかに、女に勝ち目があるとは思えなかった。
―― 斬れるか?
手にした氷輪丸の柄を、握り締める。
愚問だ。明らかにあの男の死神は正気を失っている。戦うしかないではないか。
鯉口を切り、通りに飛び出した、その瞬間……日番谷は息を飲んだ。
まず視界に入ったのは、闇の中でも鮮やかな赤。
その細かいしぶきが、顔に向かって吹き付けてくる。
その向こうにあるものに目を凝らし……日番谷は固まった。
男は、その場に棒立ちになったまま、止まっていた。
しかし、その男のシルエットは、異常だった。
首が……なかったのだ。
首があるはずの場所からは、血がびゅうびゅうと恐ろしい勢いで噴出していた。
あまりの事態に、自分が見ているものが理解できない。
男の体は……いや、死体は。
スローモーションのように傾き、横様にどうと倒れた。
そして、男が立っていた先の視界が、露になる。
そこに立っていたのは、背を向けて何事もなかったかのように佇む女だった。
手にした斬魂刀を一振りし、まとわりつく血痕を払う。懐紙で刀身をぬぐうと、赤に染まったそれを地面にふわりと投げ捨てた。
話しかけてはいけない。女に、気づかれてはならない。この女は―― 危険だ。
本能がしきりに警鐘を鳴らしていたのに、日番谷は魅入られたように動けなかった。
ごくり、と唾を飲む音が、他人のように感じた。
「お前は……誰だ」
鞘に刀をおさめようとしていた女の動きが、ピタリと止まる。
慌てる風もなく、ゆっくりと肩越しに振り向いた。
切れ長の瞳に、刃のような冷たい光が渡る。
「私は……夜舟(やふね)」
日番谷は、本能的に刃を抜いて飛びのいた。
―― コイツは、やばい……!
どうして今まで気づかなかったのか。恐怖が沸くほど濃厚な血の匂いが、女からは漂っていた。
「なぁに。まだ子供じゃないの……」
その声は、どこか眠たげに、寂しげに聞こえた。
ただ、まだ血がどくどくと流れ出している死体を前にしている状況下では、明らかに異様だった。
「残念ね」
女の唇に、魅入られたように日番谷は動けない。
そのすらりとした立ち姿と栗色の髪が、数年前に初めてであった死神に似ているからかもしれない。
「この場を見られたら、私はあなたを、殺さなきゃいけないの」
last update: 2012/6/2