差し込んできた夕日のまぶしさに、日番谷はふっ、と目を覚ました。
しばらく、自分がどこにいるのか分からずに目をしばたかせる。
「また、寝ちまってたのか……」
重い体を引きずるように授業に出席し、放課後になると同時に教室を出た。
草冠が、何か言っていたような気がする。どこへ行くんだ、お前大丈夫か。そんな問いかけにどう返したのか、覚えていない。
身を起こすと、体に降り積もっていた枯葉が数枚、ハラハラと落ちた。
それだけで、自分がどれくらい正体不明に眠っていたか、分かるというものだ。

周りを見渡せば、昼寝によく使っているお気に入りの木の根元だった。
さわさわと木々が揺れる音に、木立を見上げる。
ここで、自分を死神に誘った女に出会ったことを思い出す。
どうして、ここへやって来ていたのか。それすらも記憶が危うい自分自身に、ぎょっとする。
疲れているのか、気力をなくしているのか―― 
暗殺の記憶だけが鮮明で、それ以外の時は心ここにあらずの状態が続いていた。


とにかく、寮へ戻ろう。立ち上がった日番谷の視線は、木の根元でキラリと光ったものに吸い寄せられた。
摘み上げてみると、それは真紅に輝く小さな宝石だった。
ああ、とすぐに思い出す。昨日ここで会った女の耳飾に違いない。
そこまで考えて、ふと気づく。
―― あの女……名前なんだっけ?
忘れたのではない、そもそも聞いていなかった。
まるで昨日会った知り合いのように話しかけてくるから、つい名前を聞きそびれていた。
これでは、届けてやることもできない。

あんな派手な外見の女なら、容姿を伝えればすぐに分かりそうではある。
ふわり、と日番谷の肩にもかかっていた、金色にけぶる髪を思い出す。
同時にやわらかく漂っていた、名前も知らぬ香水の香りも。
眠っていても自分をしっかりと抱いて離さなかった腕と、口元に浮かんでいた微笑。
それに気づいた時、いたたまれないような居心地の悪さを感じながらも、日番谷は結局動かずにいたのだ。

日番谷は、母親を知らない。
現世で生きていた時代にはいたに違いないが、全く記憶になかった。
流魂街に家族と言える女は二人いるが、どちらも護る存在で、護られることなど想像もつかなかった。
しかしあの瞬間、確かに日番谷は何かから護られていたのだ。
つられるように眠りに落ちた時の気持ちは、身に覚えがないものだった。


「……ばかばかしい」
日番谷はそう言い放つと、立ち上がった。
口にしてしまえば、自分の取りとめもない考えが断ち切れる気がした。
こんな甘ったれた考えが浮かぶのも、疲れているからに違いない。
死神である彼女に、護られるなんてことは今更あってはならなかった。
何しろ自分は、死神を殺すことを生活の一部にしているのだから。

不意に、首飾りを懐に入れようとした手が、止まった。
―― もしも……彼女がその事実を知る時が来たら。
それが、日番谷には恐ろしい。
殺した中には、もしかしたらあの女の知り合いもいるかもしれない。
それでもなお、何事もなかったかのように。
微笑んでくれるのだろうか?

その質問に意味がないことなど分かっている。
「そんなことは、ありえない」。

日番谷はしばらくその場に佇んでいたが、やがてしゃがみこむ。
掌の中の耳飾を、そっと根元に置きなおした。
残照の光を浴びて、輝く真紅の宝玉に視線を落とし、かすかに微笑む。
思い切るように立ち上がった時、上空から突然落ちてきた木札をとっさに受け止めた。


「……またか」
見なくとも、それが何なのかは分かっていた。
一体何人の死神に、虚化の病巣が広がっていると言うのか。きりがない気がした。
「今度の敵は副隊長です」
上から降ってきた声に、眉を潜める。
副隊長の風上にも置けない奴だ、と思った。
他の死神の模範になるべきなのに、狂気の力に身を染めるなどと。
「倒せますか?」
聞かれた抑揚のない刑軍の声に、日番谷は同じくらい感情のない言葉で返した。
「なぜ、そんなことを聞く?」
恐怖など感じない。感じる資格もない。
「当然だ」
樹上の気配が消えるのを感じ取ってから、木札をひっくり返した。
「松本乱菊か。女かよ」
 
 
懐に木札を納めながら、女を殺すのは嫌だな、と不意に思う。
死体になれば老若男女関係ない。すべてただの肉片と化すのに、そう思う。
でも女を見ると、「彼女」をどうしても重ねてしまうからだ。
「夜舟」
口の中に噛んで含めるように、一人静かにあの名前を呼ぶ。
暗殺者になったことを……後悔は、しない。
成り行きだったとは言え、あの時選んだのは自分自身だからだ。


***


「松本副隊長!!」
その頃。隊首室にいた乱菊は、息せき切って扉を開けた部下達を振り返った。
「なーによ、あんたたち」
「修練場に! 修練場に来てください!!」
「修練場?」
その単語、部下の表情。それだけで心当たりは十分にあった。
乱菊は、手にしていた書類を机の上に戻すと、足早に部下達の後を追った。

「……副隊長」
乱菊が修練場に駆けつけた時、振り返ったのは部下達の不安そうな顔、顔、顔。
「あんたら、全員集まってんじゃないの?」
眉を潜めながら、隊士達が集中している壁のほうへと歩み寄る。
そして、「それ」を見た乱菊は、とっさに言う言葉を失い、沈黙した。

隊士全員の名が書かれた木札がかけられた壁。
一番右に掲げられているはずの「松本乱菊」の札があったところには、何もない。
ただ、壁に刻まれた日焼けしていない四角形が、札がそこにあったことを示すのみだった。
「あらま」
乱菊が初めに漏らした言葉に、隊士達は一斉に目を剥いた。
「副隊長、呑気に構えてる場合じゃないです! このままじゃ、あの暗殺者に狙われてしまいますよ!!」
「なーに言ってんのよ」
乱菊は振り返り、掌をヒラヒラと振った。
「あんたら、あたしを舐めてんの? あたしは副隊長よ? そう簡単に負けてたまるもんですか」
「で! でも。相手は『影の第二席』という噂があるんですよ? 本当だったら……」
そこまで言った隊士の一人が、唇を噛んで言葉を一旦切った。

護廷の副隊長と刑軍の第二席を単純に比較はできないが、実力は似たようなものだと想像できる。
「もし。この隊に隊長がいてくだされば……」
第二席を排除できるのは、隊長しかいない。
「それは言わない約束でしょ」
乱菊は、間髪入れず言葉を封じ込めた。
その時、ガラリ、と木の扉が引き開けられた。



「い……市丸隊長っ!?」
驚きを含んだその声に、乱菊も思わず振り返る。
隊ごとに設けられた修練場は、いわばその隊の魂のようなものだ。
暗黙の諒解で他隊の者が入ってくることはなく、隊長が入ってくるなんて前代未聞である。
「邪魔するで」
市丸は気負う様子もなく、さらりと言い放つと、修練場に足を踏み入れた。

「あらま」
期せずして、乱菊の隣に立った市丸は同じ感想を口にした。
「しゃーないな。お前、ボクと一緒に来な。ボクやったら、第二席には絶対負けん」
「いやよ」
即座に乱菊は言い返した。カクリ、と市丸の肩が落ちる。
「お前なぁ、こんな時くらいボクに花持たせる気ないんか。可愛げなさすぎや」
「副隊長! 市丸隊長の傍におられたほうが……」
「そうですよ! 副隊長に万が一のことがあったら、私達はどうなります!」
市丸を援護するように、隊士たちが乱菊に迫る。
そんな部下達を見下ろして、乱菊はつかの間、困ったように肩をすくめた。
「嫌、よ」
「なんで……」
部下の一人の声に、乱菊は綺麗な微笑みで返した。
「生まれつき、可愛げがない性格なの」


誰であろうが、護られたり、頼ったりするのは御免だった。
相手を信じて、頼って、その上で裏切られる痛さを知っているからだ。
二度と誰にも頼らないと、決めた一瞬がある。
だから、生まれつきなんていうのは嘘。
でも、それを伝えたくはない。
特に、目の前にいるこの男にだけは。


「……乱菊」
踵を返した乱菊に、市丸はポツリと言葉を投げた。
「これだけは忘れたらあかんで。死神の世界は弱肉強食やってことを。
もし襲撃されたら、相手は殺すべきや。たとえ、相手が誰であっても」
「……まるで、相手の見当がついてるみたいな言い方するのね。『影の第二席』の正体を知ってるの? ギン」
乱菊が肩越しに振り返ると、油断ない視線を市丸に向ける。

市丸は、すぐには何も返さなかった。
―― ああ、あの笑みだ。
乱菊は市丸の表情に浮かんだ、蛇のような恍惚を見やる。
「もし敵の気配を感じたら、顔を見る前に一瞬で決めるんやで」
なんで、コイツはそんなことを言う?
乱菊は市丸を凝視したが、その人を食ったような笑みからは何も読み取れない。

「……当然、でしょ」
乱菊はつかの間逡巡したが、言い捨てた。
「闇討ちしてくるような暗殺者に、容赦はしないわ。一太刀で決める」