その夜は、昼間の晴天が嘘のように、一転して雨になった。
夏のように、スコール染みた激しいものではなく、音もなく降りしきる秋の雨だ。
強くはないが、外に出ればあっという間に芯まで濡れ細ってしまう。
そんな銀糸が、もう何時間も降り続いていた。

日番谷は一人、抜き身の氷輪丸を片手にぶら下げたまま、寮の縁側から降りしきる雨を眺めていた。
日付も変わろうというこの時間になれば、いつもはにぎやかな寮もひっそりと静まり返っている。
ゆっくりとその刀身を雨に翳すと、刀の上に落ちた水滴がスイッ、と刀身を滑り落ちた。

いつ見ても、綺麗な刀だ。
あれだけ黒く赤い血を浴びているにも関わらず、戦えば戦うほどいよいよ銀色に澄んでくるように思う。
びちゃっ、と粘着質な音を立てて地面に飛び散る血。
思考が暗い処をさまよった瞬間を待っていたかのように、カキン、と鋭い音が響いた。
顔を上げると、夜空から振り落ちる雨が、次々と雹(ひょう)に変わってゆく。
地面が真っ白に凍りつき、庭にある池までも、ピキピキと凍りついてゆくのを見やり、日番谷は我に返った。

「よせ! 氷輪丸」
その刀身をとっさに鞘に収め、迸りそうになる霊圧を、刀の中に押し戻そうと集中する。
しかし沈静化を試みながらも、押さえきれないことは分かっていた。
刑軍である限り、霊圧の解放は認められていない。霊圧は指紋のように一人ひとり違うため、
暗殺の際に解放してしまえば、特定してくださいと言っているようなものだからだ。
未熟な状態でさえ、氷雪系最強と呼ばれるこの刀の力も、眠らせておくしかない。
しかし、それがいかにも気に食わないとでも言うように、氷輪丸の力は日に日に強くなっている。

―― 「我を止めようとしても無駄だ」
突然頭の中に響き渡った声に、日番谷はびくりと顔を上げた。
「氷輪丸……」
自分の心に棲む斬魂刀の本体が、直接語りかけてくるのは、暗殺者に身を落としてから初めてのはずだ。
日番谷の動揺に気づかぬように、地響きのような声は続く。
―― 「我は貴様の心そのもの。我が貴様に歯向かうのではない。貴様が、貴様自身に反抗しているのだ」
「どういうことだ?」
―― 「日番谷冬獅郎。貴様は、矛盾している」
矛盾。その言葉を反芻し、日番谷はひっそりと微笑った。さすが自分自身の魂だ、と思う。
その言葉は、今の自分の心理状態を的確に突いているように思えた。

死神は、流魂街の民を護る者。護られる側から護る側になりたかったから、実はずっと前から、死神を目指していた。
実際、志したのは雛森よりも先だったのではないかと思う。
それなのに、実際に垣間見た死神たちは、力を追い求めるためには流魂街の者を殺すことさえ厭わぬ。
死神達が原因で虚化する流魂街の住人は、潤林安など瀞霊廷の周辺に集中している。
祖母が虚に襲われる危険どころか、祖母自身が虚化してしまう可能性もあるのだ。
だから、どんな理由があれど、祖母を傷つけるかもしれない死神達を、敵だとみなすのに躊躇いは感じなかった。
流魂街を、ひいては祖母を護りたい。そのためなら死神も殺せると自分を納得させてきた。
それなのに……今、日番谷は迷い始めている。

どうして、「あの女」と再会してしまったのだろう。
ほんのささやかな出会いが、これほどまでに心を揺さぶってくるとは自分でも意外だった。
―― 「もしもあんたが……あたしを殺せと命じられたとする。その時は、あたしを殺しなさい」
そう言われた時、自分の素性を見抜かれているような気がして、ぎくりとした。
殺す? 自分が、あの女を?
「馬鹿な」
日番谷は、思わず呟いていた。

頭の中に浮かんでは消える、二人の女。
一人は、自分を死神に導いてくれた金髪の女。もう一人は、暗殺者に導いた、黒髪の女。
氷輪丸は、耳を澄ませるように黙り込んでいる。やがて、日番谷はぽつりと呟いた。
「……それでも、俺は夜舟を裏切りたくないんだ。あいつはもう、どこにもいないんだから」


***



―― 今より三か月前 ――

夜舟に出会ったあの夜は、昼の熱気を残す生ぬるい風が吹いていた。
首から先を無くし、どうと地面に倒れた男の体温のようで、吐き気がこみ上げる。
日番谷は全身を強張らせ、自分と対峙した夜舟と向き合った。

「この場を見られたら、私はあなたを、殺さなきゃいけないの」
夜舟の唇が言葉を紡ぐ。こんな時なのにゆっくりと穏やかに、どこか眠るような口調で話す女だと思った。
その声音とは裏腹に、血刀を片手に無造作にぶら下げたまま、日番谷に向かって歩み寄ってくる。

殺される。瞬間的にそう思った日番谷は、刀の柄に手をやる。
「遅いわね」
数メートル離れていたはずの夜舟の白い顔(かんばせ)が、ひとつ瞬きをする間に眼前に迫る。
頭上できらめく、白い刃。その存在を感じながら、日番谷は抜刀した。
腕がしびれる感触と同時に、刀がぶつかり合う。飛び離れたのは、二人同時だった。

ふわり、と近くの橋の欄干に飛び移った夜舟は、乱れた髪を手櫛で掻き上げた。
一瞬遅れて日番谷も、欄干の端にトン、と飛び降りる。その拳が、夜目にまぶしいほどに白く輝いている。
「白雷!」
今の女の素早さからして、直接狙っても鬼道は当たらない。
そう察した日番谷は、雷撃に輝く拳を欄干にたたきつけた。
感電した橋全体に稲妻が走り、夜舟の目が見開かれる。
瞬歩で避けて地面に着地したものの、ふらり、と一瞬よろめくのを日番谷は視線の先に捉えた。


「てめえは何者だ」
欄干に立ち、夜舟を見下ろす。女の唇が、わずかに持ち上げられた。
「可愛い顔をしてるのに、すぐにやり返してくるなんてね。噂どおりね、『日番谷冬獅郎』君」
「なんで俺の名前を知ってる?」
「当然よ」
夜舟は、日番谷をスッと指差す。
「その真央霊術院の制服。銀髪の子供。そして、腕が立つ。……死神の中では有名よ、あなた」
「てめえも死神か?」
「かつては、ね。こんな形で会ったのが残念よ、神童君。なぜこんな所へ来たの」
「……流魂街を、虚が襲ってると聞いて見回ってた。まさか、死神が死神を殺すところに出くわすとは思ってなかったけどな」

日番谷は、注意深く夜舟を観察した。初めて会った時の動揺は、嘘のように影を潜めていた。
流魂街を襲う虚。気が狂った死神と、それを殺す「元」死神。一見関係ないように見えるが、タイミングが合いすぎている。
「……関係、あるんだな」
妖しい微笑を唇に乗せたまま、夜舟は動かない。この女も、どこか狂っている。
一体死神に、何が起こっているんだ? 日番谷の疑念をよそに、女の視線が倒れた男に向けられた。
つられて見やった日番谷は、男の死体の横に転がった、白い仮面に気づいた。脳天の部分から口元にかけて、一文字にヒビが入っている。
「なんだこれ? 虚の仮面……か?」
なんで死神が、こんなものを。思わず呟いた日番谷を、夜舟は見返した。


「素敵なことだと思う?」
刀を手に対峙しているとは思えない、穏やかな声だった。
「虚の力を借りれば、死神の限界を超えることができるって、素敵だと思う?」
日番谷は、本能的に首を振った。
どうしてかは分からない。しかし、転がった仮面からは、不吉な気配しかしない。
ふぅ、と夜舟は息をついた。
「その意味が分からない子供でも危険を察するのに。死神は、一体どこへ行こうとしているのかしらね」

日番谷はゆっくりと、さっきから心に浮かんでいた疑念を口にする。
「こいつは、虚の力を取り込もうとして……だから気が狂ったのか? まさか、流魂街の虚も」
「頭がいい子は好きよ」
ふわり、と夜舟が微笑む。
「死神の虚化には、多くの霊子を消費する。一人の死神が虚化するために、10人前後の流魂街の住人が霊子を奪われ共に虚化すると言われているわ」
「じゃあ、お前は」
そこまで言って、日番谷は夜舟に向き直った。では、この女は「敵」ではないのか?

「勘違いしないで」
その心の声を読んだかのように、夜舟は返す。
「私は、暗殺を生業とする『死神崩れ』よ。命令が下れば誰であろうと殺すのが私の役目。
……この姿を見られた者は、生きて返すわけにはいかないの。人の口には、扉は立てられない」
日番谷は、刀を見下ろし、つかの間躊躇った。
殺す、殺すと言いながらも。この女には殺気は感じられない。



「おい、何事だ!」
暗闇を裂いたのは、こちらへ走りよってくる死神達の声と、足音だった。
「誰かの霊圧を感じたぞ! 戦闘が起こっているのか?」
日番谷と夜舟は、同時に声がするほうに顔を向けた。
「あぁ。鬼道なんて使うから、見つかっちゃったじゃない」
夜舟はそういったが、別段焦っている風には見えない。

「行けよ」
カシャン、と刀を鞘に納め、日番谷は夜舟を見た。
いぶかしげに、夜舟は日番谷を見やる。
「どうして私を逃がす――」
「いいから行け」
断固とした日番谷の声が、夜舟を遮る。
夜舟は言葉を途切れさせたまま黙り、二人は無言のまま、視線を合わせた。

「本当に甘いわね、ぼうや」
ふわり、と夜舟は優しげに笑う。
「私に、丸腰のあなたを一瞬で斬り伏せることができないと、なぜ思うの?」
「分からない……けど、お前は俺を斬ったりしない」
日番谷は、言葉を吟味するようにゆっくりと口に出した。

その刹那だった。
ふわり、と風が周囲に起こったような気がした。
次の瞬間、夜舟の細い体が目の前にあった。
「っ!」
とっさに逃げようとするが、肩を、二の腕を押さえられる。
気づいた時には、近くの屋敷の壁に、強く押しつけられていた。

「本当に子供なのね」
つい、と顎をとられて上を向くと、紅色の瞳と目が合った。
「それがどうした!」
日番谷は見返すと、夜舟はふふっ、と笑った。
「あなたに会えてよかった」
どういう意味だ。
言葉の意味が判らない。
その哀しげな表情の意味もまた、分からない。
もどかしいくらいに。

日番谷が何か言おうとした時、女の顔が更に近づいた。
ふわり、と口元に、やわらかい同質のものが触れる感触があった。
口付けられたのだ、と気づく前に、
「ありがとう」
女の姿が、ふっ、と掻き消えた。

 
 

「どうした、君!そこに誰かいたのか!!」
それから、わずか三十秒ほど後に、死神達が駆けつけてきた。
「大丈夫か? 怪我はないか?」
「……いや」
放心していた日番谷は、二度、三度と頭を振って立ち上がった。
「誰かいたのか?」
日番谷はとっさに嘘をついた。
「何もないし、何も見てないんだ」
「……そうか。もう夜も遅い。最近は物騒なんだ、早く家に帰りなさい」
日番谷はコクリと頷く。
脳裏には、女の微笑みがくっきりと残っていた。






last update: 2012/6/2