気がつけば、草も生えない、荒れ果てた岩の大地にいた。
過去を忘れ、未来のことも考えられず、今だけのために時間を過ごしていた。
金色の髪は本当は自慢だったけど、伸びると直ぐに切った。
女だと知られたら、子供だろうがなんだろうが奪われ、売られ、殺されると分かっていたから。

乱菊。
花の名前を与えられながらも、あたしは花ひとつ咲かない大地に、ただひとり生きていた。
いっそ出会わなければ良かったと思う。
「自分の誕生日、知らんのか?」
一人じゃないことの心地よさを、教えてくれたあの男に。
「それやったら、ボクと初めて会った今日がお前の誕生日や、乱菊」

 

あたしは、暗闇の中で、ハッと目を覚ます。
「ギン……?」
粗末な小屋の囲炉裏の火は、もう消えかけている。
そのかすかな明かりで、あたしは隣に寝ているはずのギンを伺う。
そっ、と指を布団の上に這わせる。
まだ、ほんの少しだけ布団は温かい。
でも、その主はいない。
「ギン」
土間には、あたしの草履だけが、ポツンと寂しげに放り出されていた。

ここは、荒野に打ち捨てられた粗末な小屋。
遮るものが何もない周囲は、びゅうびゅうと風が吹き荒れ壁を揺らす。
誰の、気配も感じない。
敵さえいない。
そしてギンの気配は、どこまで追っていっても分からないほどに遠い。


静かな絶望が、ひたひたとあたしを浸してゆく。
今日は、あんたとあたしが出会った日。もう、何度目かも分からないけれど。
あたしの誕生日だと、まるでそれが特別なことのように、あんたが言ってくれた日。
でも、あんたはいつもどおり。あたしに何も告げず姿を消すのね。

あたしは何も望んでなんかいなかった。
ぎゅっ、と布団の端を握り締め、あたしは深く俯く。
一緒にいて欲しかった、なんて。
声をかけて欲しかった、なんて。
信じさせて欲しかった、なんて。
「あたしは、なにも望んじゃいないわ」
その言葉とは裏腹の涙が、頬を滑っていったのにも気づかず。

 
***
 

「乱菊さん、起きてください。乱菊さんっ!?」
誰かがゆさゆさと肩を揺さぶる気配に、乱菊はゆっくりと覚醒した。
「なーに、よ……七緒? 何しに来たのよ」
「何しに来たとはご挨拶ですね。そんなことより、この命を狙われてるかもしれない時に、一人で執務室で居眠りしないでください!」
眼鏡を指先で押し上げた七緒は、スキのない視線を、長椅子から上半身を起こした乱菊に向けた。
「分かったわよ、厳しいわね七緒は。起き抜けに捲くし立てないでよ」
「今は執務時間! 寝る時間じゃないです!」
はいはい、と乱菊は生返事をすると背中を背もたれに落ち着け、七緒が差し出した紙の束を受け取った。

「……これは」
パラパラと捲ると同時に、乱菊は眉をひそめる。
羅列されている名前は全て見覚えがある。無理もない、それはここ半年で、殺害された死神の名前ばかりだったから。
名前、殺害された日にち、殺害方法、状況。それが事細かに記してある。
「これを見てもねぇ、参考になるかしら」
「参考になる点を見つけ出さなきゃいけません。そうしないと……」
そこで言葉を切った七緒を、乱菊は微笑みを浮かべて、見上げた。

厳しいことばかりいっているが、七緒は心配しているのだ。
乱菊の木札が抜き取られた、ということは、暗殺のターゲットに数えられていると考えて間違いない。
これまで一度も失敗したことがないといわれる、暗殺者。
副隊長レベルが狙われたこともないが、だからといって大丈夫だという保証はどこにもないのだ。


「一連の殺人が起こったのは、約半年前からです。殺害の方法は、首近くの刃物による裂傷」
「首刎ねられたって、分かりやすく言えばいいじゃない」
「やめてください! そんなことは判りやすくなくていいんです。……私が思うに、途中で犯人が『入れ替わっている』のではないかと」
「……なんでよ」
そんな仮説初耳だ。乱菊は七緒の生真面目な顔を見やる。
七緒は決して、確信に近いレベルでないと、仮説を口にするタイプではないからだ。
はい、と七緒は頷いた。


「殺害が起きた当初は、傷口は正面から真っ直ぐに斬られた者がほとんどでした。
被害者の身長が170〜180センチなので、160センチ〜190センチほどの身長かと推測されます。
ところが、ある期を境に、傷口は下から斬り上げられたものに代わっているんです。
しかも、角度もかなり急です。加害者の身長は、おそらく150センチに満たないでしょう」
「えっ、150センチって……子供じゃない」
「身長の低い女性かもしれませんけどね。断定はできません」
そして七緒は、声を低めて続けた。
「そして、見てください、この紙。唯一首への斬撃でなく、胸を貫かれた女性のものです。しかも、ちょうど殺害方法が変わる境目に殺されている」
七緒が指差した紙を、乱菊は眉を顰めて見やる。
「知ってる、この人……嵯峨野(さがの)夜舟。元六番隊の第五席よね。ほら。一年ほど前に、死神を抜けたって噂になってた」
死罪に値する、現役の死神の脱走。
しかし、隊長である白哉の判断で、行方を追われることがなかったという女死神の名だった。
その理由も、乱菊はうっすらと聞いて知っている。


「もしかして。夜舟さんが、初めの三ヶ月間暗殺をしていたっていうの?」
「夜舟さんの得意技は剣術。剣の腕だけなら副隊長クラスです。そして……彼女には、犯行に至るだけの理由が」
七緒は、それだけ言うと言葉を切った。
見上げた乱菊の視線を感じたのか、早口で続ける。
「私は、いかなる理由であろうが殺人を擁護しない主義です。でも、そうでなければ……」
珍しいことだ、と乱菊は思う。
規律を重んじ、自分にも周囲にも厳しい七緒の、精一杯の擁護なのだろう。
乱菊は、うつむいたままの七緒を見上げ、ふっと微笑んだ。
「ありがとうね、七緒」
乱菊はそれだけ言うと、立ち上がった。
「今日ももう暗いし。七緒も、早く帰ったほうがいいわよ」
「私の身を心配してる場合じゃありません! 乱菊さんこそ」
「分かってるわよ」
乱菊は、手をひらひらと振った。
「今日は隊舎から一歩も出ないから。この中なら安全でしょ?」

 
 
今日は一晩傍にいます、と何度も言う七緒の背中を押して帰らせた時には、八時を回っていた。
七緒が去っていった闇を乱菊は、沈んだ瞳で見つめていた。
「犯行に至る理由がある、か」
乱菊は、さっきの七緒の言葉を繰り返した。
もしも七緒の言葉通りだとして、今の第二席が誰なのかは分からない。
しかし。夜舟になら殺されても良かった。なんとなく、そんな気がした。

夜舟のことなら、何度か町で見かけて知っていた。
いつも彼女の隣には、娘だという子供が笑っていた。
乱菊にはない、穏やかな凪を呼ぶような美しさが、夜舟の周囲には漂っていた。
傍にいる者を自然と笑わせ、癒すことの出来る独特の空気の持ち主。
あんな風になりたいと、憧れもしたものだった。
あんなことが、あるまでは。

「あなたなら、許さないでしょうね、あたしを」
乱菊の口元が、微笑みのような形をつくった。
しかし、それは少しも笑っているようには見えなかった。
スッ、と闇の中に足を踏み出す。
降りしきる雨にずぶぬれになっても、乱菊は足を止めなかった。
その背後で、フッ、と黒い気配が消えたが、一瞬のことで乱菊の意識には上らなかった。

 
***


日番谷はずっと、縁側に佇み待っていた。その時が訪れるのを。
暗殺者として経験を積んだこの数ヶ月間で、暗殺のタイミングがなんとなく、分かるようになっていたのだ。
だから、雨が降りしきる暗い庭に、いつの間にか刑軍の男が現れた時も、動揺はしなかった。
「……機が熟したか」
「はい」
闇の中から、男が返す。
「松本乱菊が動きました。瀞霊廷の外れの御(みさき)川のほうへと」
「何でそんなトコに」
「まるで誘っているようにも見えます」
なぜだ、とは思ったが、深く考える気にはなれなかった。
自分の命が狙われていることに気づかないはずはないが、むしろ早く決着をつけたいと望んでいるのかもしれない。

「向かってみるさ」
十月にしては暖かい夜だったから、寒さは感じない。この雨なら、血はすぐに流れてしまうだろう。
―― 暗殺には絶好の夜だ。
そんなことを思った自分に、感じないはずの寒気がした。


「おい」
去っていこうとした隠密機動の背中に、日番谷は声をかけた。
「松本乱菊ってのは、やっぱり女なんだよな」
「はい。それが何か?」
「……いや」
男も女も、殺すべき対象には違いない。
―― 夜舟を思い出すんだ。
そんなこと、言えるはずがない。
「なんでもない、行ってくれ」
日番谷はそれだけ言うと、歩き出した。
―― 何なんだ、今日は……
隠密起動が去った後、日番谷はそっと額を押さえた。
なぜだか、今日はやたらと、昔のことを思い出すのだ。
まるで「それでいいのか」と問いかけるように、暗殺者となるのを決意した日のことを。