日番谷が夏梨の肩を抱いたまま近づく。その整った唇が、ゆっくりと夏梨に寄せられる。2人の唇が近づいた、正にその時。
「ちが……う」
至近距離でなければ聞き漏らすほどに、かすかな囁きが夏梨から漏れた。少し日番谷が身を離し、二人は間近に見つめあう。その切れ長の瞳をいっぱいに見開いて、夏梨は日番谷をにらみつけた。
「『お前は誰だ』?」
「は? いきなり何を……」
怪訝そうな表情で日番谷が返したが、夏梨はひるまなかった。
「姿は同じでも、お前は冬獅郎じゃない。アイツはあたしにそんなことしないし、言わない。それに……」
夏梨。自分を呼ぶ、あたたかな音色を思い出す。
「アイツは、そんな風にあたしを呼んだりしない!」
この目の前の少年はさっき、見下すように夏梨の名前を口にした。何だかその名前が、つまらないものに思えるみたいに。同じ声質をしていても、紡がれる音は全くの別物だ。
一瞬言葉に詰まった日番谷の表情が、見る見る間に憤怒に彩られていく。右手で夏梨の肩を掴み、ぐっと幹に押し付けた。
「さすが、食いたくなるほど霊圧が高いだけはある。いい勘してるじゃねえか、ガキ」
押し返そうとした夏梨が、小さく口元で悲鳴を飲み込んだ。おろされていた日番谷の左手の部分が、硬質な何かにかたちを変えていた。先が尖ったそれは、刃物のような鋭さを持ち、夏梨の腹にまさに突き立とうとしていた。
「いい気分のまま、死なせてやろうと思ったのによ」
「てめーは誰だ! 虚(ホロウ)か!」
「虚なんかと一緒にしてもらっちゃ、困るな。俺は破面(アランカル)だよ……といっても、分からないだろうがな」
「はなせ!!」
夏梨がその左腕を握るが、とてもではないが押し止められる力ではなかった。ぐっ、と切っ先が夏梨に迫り、その頬から汗が噴出した。
―― あたしは、助けを呼んだりなんかしない……!
脳裏に浮かんだ日番谷の顔を、振り払った。この場面を見たら、自分を助けようとしてくれることは想像に難くない。こんなときでさえ意地を張るのか、といわれるのかもしれない。でも、自分のせいで、誰かに迷惑をかけたりしない。それが、母親に誓った約束、なのだから。
「じゃあな」
破面が腕を夏梨の腹にもぐりこませようとした時……一陣の風が吹きぬけた。
疾風のような速さで自分の懐に飛び込んできたものに、夏梨は思わず悲鳴を上げる。身をすくめた夏梨の背後の幹に、ダン! と音を立てて掌が叩きつけられた。
「てめえは……!」
日番谷の姿をした破面が叫んだ、その刹那。2人の間に割り込んできた銀色の影が、思い切り足を振り上げると、その腹を蹴り飛ばした。
「ぐっ!!」
くぐもった声を上げて破面は吹っ飛ばされ、背後の壁にぶつかった。壁がぐらりと揺れるほどの衝撃に、そのままその体が地面にくず折れる。
「と……冬獅郎」
「無事か、夏梨」
ほっ、と息をついた、その声。夏梨は、聞いた途端に涙が出そうになる。日番谷は右手を幹について体を支え、左足で思い切り蹴りを放っていた。右手を幹から離すと、よほどの衝撃だったのか、パラパラと木の皮が剥がれて地面に落ちた。
「本当、どこにいても面倒ごとに巻き込まれるヤツだな」
「ご、ごめん……」
結局、また手を煩わせてしまった。俯いた夏梨を庇うように、日番谷がその前に立つ。そして、身を起こした破面を見やって……思わず声を上げた。
「なんだ、てめぇ? なんで俺の姿してんだ」
「貴様、街で見かけた時まさかと思ったが……死神、だな」
さすがにぎょっとした表情で見やった日番谷を、獰猛な目で見返した破面が、ニヤリ、と唇を上げて笑った。日番谷がそんな表情をすることはまずありえないだけに、ますます異様に見える。
「別に、俺が意図した訳じゃねぇさ。俺の能力は、化けること。化ける対象は……」
「やめろ!!」
夏梨が、必死の表情で叫ぶのを、日番谷は不審げに振り返って見た。それをあざ笑うように破面が続けた。
「相手が望んだ者。愛しい会いたいと思う奴の姿に、俺は勝手に変われるんだよ」
「……!!」
夏梨はその瞬間、両拳を自分の顔に当てて、かがみこんだ。合わせる顔が無い。できることならこのまま日番谷の目が届かないところに駆け去ってしまいたい。そんな気持ちだった。
一生伝える気がなかった気持ちを、こんなところでこんな風に暴露されるなんて。
「……そうか」
対する、日番谷の言葉は静かだった。顔を上げた夏梨には、日番谷の背中だけが見えた。
「お前だな。空座町に出没し、姿を変えては人の命を食らう新手の虚ってのは」
「ひとつ訂正してやる。俺は虚じゃねえ、破面だ」
「どっちだっていいさ」
日番谷が、一歩破面に向かって踏み出した。
「死神の姿に戻らず、その姿でやる気かよ?」
「わざわざ死神に戻る必要すらねぇよ、てめえなんか」
踏み出した足の下で、ピキピキと音を立てて地面が凍りついてゆく。巨大な氷柱が地面から盛り上がり、地形を変えてゆくのを、夏梨は唖然として見守った。総毛立つほどの霊圧が、その場を支配して行くのが夏梨にも分かった。
「ケケケ……怒ってるな、死神」
「……あ?」
眉間の皴を深めて、日番谷が破面を見やった。破面は、対照的に笑う。
「感情を動かしたほうが負けだぞ? 戦いの最中はよ」
「何が言いたい」
日番谷は、空中に右手をさし伸ばした。その掌の部分を中心に、真っ白い光が集まってゆく。閃光のように光が炸裂した、と思った時には、それは何事もなかったように収束していた。ただ、そのときには日番谷の右手には、一振りの刀が握られていた。
「氷輪丸」。日番谷が持つ、氷雪系最強の斬魂刀だった。弧を描くそれはまだうっすらと光を帯びており、怖いほどに美しい。
その力の強さが分かったのだろう、じりじりと破面が背後に下がりながら、言葉を続ける。
「嬉しそうだったぞ? あの女は。俺に肩を抱かれて、真っ赤に頬を染めてよ」
「やめろ! あたしは……」
「違うのかよ?」
ぐっ、と夏梨が言葉に詰まった。返す言葉はすでにあるのに、発することが出来ない。「違う」。たった、三文字なのに。
「嬉しいだろ? コイツを殺ったら、続きをやってやる……」
破面は、最後まで言うことができなかった。その言葉は、中途半端に断ち切られた。唐突に伸ばされた手が、破面の口を万力のような力で掴み、締め上げていたからだ。
「黙れ。このゲス野郎が」
これほど日番谷が怒りに満ちた声を出すのを、初めて聞いた――そう思った時には、ギラリと輝いた銀色の光が、破面の腹に吸い込まれていた。
「っ!!」
夏梨が、目を背ける。おもわずぺたりと地面に座り込んだ。破面が崩おれただろう音が、地響きとなって夏梨の足にも伝わってきた。
「う……おぉ……」
「自分を斬るのは、おもしろくねーな」
日番谷は、ずっ、と刀を破面から引き抜く。地面に仰向けに倒れたその姿が灰色の光に覆われたと思った時には、もうすでに日番谷の姿ではなかった。破面といっても、ほとんどそっくり顔が仮面に覆われた異形の姿が、公園の燈に照らし出される。力なく手足をばたつかせるそれは、なんだか妙に物悲しく見えた。
「助けてくれ、助けて……」
「てめえは俺を怒らせた。助ける義理はねえ」
冷たい視線で、日番谷はすがりつこうとする破面を見下ろす。
「……とうしろう」
その時、消え入るような声が背後から響いた。振り返ると、涙をためて夏梨が日番谷を見返していた。その澄んだ瞳を見つめて、日番谷がため息をつく。
「しょうがねえ」
いつだって一徹で、まっすぐなこの少女の前で、残酷な場面を見せたくは無かった。日番谷はため息をつくと、斬魂刀を返し、その柄尻を破面の額に押し付けた。
「成仏するだけだ。大人しくソウル・ソサエティに行って、また生まれ変われ」
蛍のような淡い光が、破面の体を包んでゆく。それとともに恐怖と痛みに歪んでいた表情が、少しずつ救いを見出したような穏やかなものに変わってゆく。
「あ……」
その様子を見守っていた夏梨は、思わず声を上げた。光に包まれた破面の仮面が崩れ落ち……そこからは、一人の人間の顔が現れたからだ。まるで教会で見るキリストや、寺で見る菩薩のように、個性がそぎ落とされている。ただその表情は凪いでいて、眠っているように穏やかだ。
「こいつが、破面の正体……」
「違う。こいつに殺された魂の集合体だ。全員だし、一人ひとりでもある」
今まさにあの世に召されようとしているその姿は、光に覆われてよく見えない、でも……
「お、母さん」
え、と日番谷の言葉が紡がれる。ふらふらと、夏梨が前に進み出た。
夏梨の頭の中の「母親」は、もううろ覚えではっきりしていない。でも、いつだって微笑んでいた母親の面影と、目の前の誰でもない、誰でもある人間の微笑が重なる。
「夏梨」
日番谷が歩み寄ってくる気配を感じる。頬を、涙が伝ってゆくのを、どうすることも出来なかった。
「……送ってやってくれ。あの世に」
日番谷が刀を一振りすると同時に、その姿は何十もの光に別れ、パッと夜空に散った。光が霧散した後の夜空には、イルミネーションがきらきらと輝いている。人の群れを連想するからイヤだと思っていた其れが、なんだか急に、いとおしく思えた。まるでそれは、ひとつひとつの命の輝きのようにうつった。