「夏梨」
涙をぬぐった夏梨に、日番谷が向き直る。大股でこっちに歩み寄ったと思った瞬間、軽い衝撃が右頬を打った。
え?
瞠目した先に、日番谷の掌が見えた。その掌で頬を打たれたのだ、と気づくには、しばらく時間がかかった。痛みよりも驚きが先に立った表情で、怒りを露にした日番谷を見返した。
「何で助けを呼ばなかったんだ? 死ぬところだったんだぞ!」
「あ……たしは」
怒りの理由が分かった途端、心に広がったのは喜びでも哀しみでもなく、衝動としか言いようのない気持ちだった。
「あたしは! 母さんに約束したんだ。絶対に強くなるって。誰にも迷惑かけないくらい……」
「だからって一人で戦って虚に殺されるつもりだったのか? お前の母親と同じように?」
「な……んで、それを」
夏梨は、頬の痺れも忘れて固まった。それが、事実だったからだ。実際に死に立ち会った一護に確認した訳ではないが、霊圧が高まった今なら分かる。母親の死んだ状態や状況を考えて、死の原因は……虚でしかありえないと。
「黒崎に聞いた。こないだお前たちの願いを持ってきたときに」
そう返した日番谷の瞳に、もう怒りの色はない。落ち着いた翡翠色に戻っていた。着ていたジャケットを無造作に脱ぐと、夏梨の頭からかぶせた。
「っ……なにすん……」
「心配したんだぞ」
ジャケットの向こうで、日番谷の声が聞こえた。
「心配」。その言葉は、さっきの偽者が口にした言葉と奇しくも一緒だったが、夏梨には全く別の響きを持って聞こえた。
「……ゴメン」
ジャケットから顔を覗かせた時には、もう日番谷は背中を向けて公園の出口に向かって歩いていた。
「……お前よ」
ジャケットを羽織った夏梨が追いついた時、日番谷はひょい、と肩越しに振り返った。
「なんで、願いを『白紙』で出したんだ?」
「……へ」
夏梨はとっさに、間の抜けた返事しか返せなかった。
「そういえば、さっき『お前たち』って言ったよな? 一兄が見せたの、遊子のだけじゃなかったのか?」
それは、事実だった。夏梨は結局、あの遊子の爆弾的な願いを見た後どうしても書けず、えいっと白紙のまま靴下に入れたのだ。「何も願いはない」と取られるならそれでも構わない、と思って。
「それのせいで、俺らがどれだけ混乱したと思ってんだ」
まだ怒っているのか、と夏梨は日番谷を見上げたが、その表情はどこか、楽しそうにさえ見えた。
―― 「は? フザけんなよ。何だよそれ」
そう言った日番谷の目の前に一護が突き出したのは、一枚の白紙だった。
―― 「夏梨の願い、コレなんだよ」
―― 「俺の目には何も見えないんだが!?」
―― 「頼む読み取ってくれ!」
―― 「読み取れるかぁ!」
この言い争いにおいては圧倒的に自分が不利だ、といち早く察した一護が、ズイと紙を日番谷に押し付けて寄越した。
―― 「どうせ叶えるなら2人分引き受けてくれ!!」
―― 「勝手に話を進めるんじゃねえ!」
負けじと日番谷は怒鳴り返す。一体どういう因果で、コイツは妹2人分の願いを自分に押し付けようと言うのか。全く持って理解できない。なのでそのまま口に出した。
―― 「なんでだよ! なんで俺がンなことすんだよ、意味わからねえ!」
―― 「分からなくていいんだよ、頼む!!」
―― 「本当に鈍いですね、隊長って」
―― 「はぁ?」
―― 「イヤ本当、本気で頼む! お前にしかできねーんだよ! お願いっ!」
瀞霊廷での会話が思い出される。結局何が何だか分からないうちに拝み倒され、只の紙を押し付けられてしまった。
―― 「分からねぇよ、現世で女が好きそうなもんなんて」
そういった日番谷に、一護は笑って見せた。
―― 「お前が選ぶなら、アイツは喜ぶと思うぜ」
そういった一護の気持ちなんて、日番谷には分からないのだけれど。
「分からねぇよ、現世で女が好きそうなもんなんて」
憮然として、日番谷が同じセリフを呟く。
「ゴ、ゴメン……」
夏梨はその隣で、ただ小さくなることしかできなかった。一護が、日番谷に夏梨の分もプレゼントを頼んだ理由。それはきっと、自分の「願い事」を的確に、一護が見抜いてくれたからだ。
「わからねえから、適当に買ってきた」
ジーンズのポケットに手を突っ込み、日番谷がひょい、と何かを夏梨に投げた。キラキラと光るそれが、弧を描いて夏梨の掌の中に納まる。
「こ! これ……」
夏梨は思わず、声を上げていた。それは、携帯のストラップだった。銀色の輪がいくつか連なり、輪は深い青色のガラス玉で飾られている。そしてそれに巻きつくように、花のオブジェがいくつも絡まっていた。夏梨より少し年上の女性に似合いそうな、繊細で可愛らしいデザインだった。
「あたしが、ショーウィンドウから見てたやつだ。……なんで?」
「別に」
「別にってお前! 超能力でもあるのかよ!」
「無え」
「ちょっと待てって」
「断る」
「何で二文字しかしゃべらねえんだよ!!」
「黙れ」
日番谷は、馬鹿にしているのかといいたくなるほどの返答しか返さず、どんどん先へ進んでいってしまう。その背中を見た夏梨の、結論。日番谷は、見ていてくれたのだ。自分がこのアクセサリーのようなストラップに見とれていたほんの数秒を。
「次から具体的に書けよ。何が欲しいか」
やっとまともに返事を返してくれたその背中を、立ち止まって見つめる。
振り向け! 念を込める。
思ったとおり、日番谷は足を止めると、振り返った。
「具体的だよ」
夏梨はまっすぐに日番谷を見た。……意外と、声は震えなかった。
「あたしの願いは、遊子と一緒だったから。だから書かなかったんだ」
「……夏梨。オマエ」
「あの虚が言ったこと、聞いただろ?」
「……聞こえてねぇよ」
「嘘つくんじゃねえ」
「……」
日番谷は、少し困った表情をしていた。こんな顔をさせるのは自分だ、と夏梨は分かっていても、とめることができなかった。
「あたしは、お前のことが……」
「夏梨!」
日番谷は、思いがけず強い声で、夏梨を遮った。2人の間に、ぴんと張り詰めた沈黙が落ちた。日番谷は、バツが悪そうな顔で頭を掻くと、くるりと背を向けてしまった。
「おい! 逃げんのかよ!」
「例えば、だ」
日番谷は、背を向けたまま、夏梨に呼びかけた。
「俺のことを隊長と呼べと、お前に一度でも言ったことあるか?」
「はっ? 何、急に……」
「いいから、考えろ」
「……ない、けど」
「お前だけなんだぞ」
聞き返そうとして、思いとどまる。ゆっくりと、日番谷の言ったことをもう一度胸の中で租借してみる。どくん、と胸が高鳴った。
「……『冬獅郎』」
そう呼んでも、日番谷は何も言わない。穏やかな瞳で、夏梨を見つめただけだった。
「さっさと帰るぞ」
「……うん」
ジワジワと、胸の奥の方からこみ上げてくる気持ちが、何なのかまだ、分からないんだ。ただ、なんだかとても嬉しい。通りに戻ると同時に目一杯に広がったクリスマス・イルミネーションが、その時の気持ちを代弁しているようで……
夏梨は、顔一杯で微笑むと、日番谷の背中を弾むような足取りで追った。