吉良は、目指す家の前に立ち、ひとつ息をついた。
家というより、半ば小屋のような粗末な造りである。
真央霊術院時代、雛森に連れられて何度も来た家と、全く変わりない佇まいがそこにはあった。

引き戸の隙間からは、煌々と明るい光が漏れてきている。
窓からは、煮炊きをしているのか、水蒸気が白く立ち上り闇へと解けてゆく。
幼い頃の憧憬を見るように、吉良はしばらくそれを見つめたままでいた。
そして、祈るような気持ちで、小さな引き戸をノックした。


「はいはーい!」
吉良の気持ちとは裏腹に、屈託のない明るい声が、家の中から響く。
たたた、と小さな足音が家の中に響き……ビクリ、と吉良は肩を動かした。

「どちら様ですか?」
白い小さな手が引き戸を掴んで、ガタガタと引き開ける。
明るい小屋の中から、あどけない少女の顔が覗き……吉良を見て、にっこりと笑った。
「こんばんは」
「ひな……もり、君」
それこそ夢にまで見た、以前の健康そのものの雛森の姿がそこにはあった。

「……あたしを知ってるんですか? 死神さん、ですよね?」
その大きな瞳に見つめられ、吉良の心臓が大きく跳ね上がる。
幻だと己に言い聞かせても、心の動揺は全く収まってくれなかった。
雛森は、不思議そうな顔をしながらも、笑顔を消さずに吉良を見返している。
「あ! あの……」
何かしゃべらなければ。
自分でも滑稽なほど上ずった声を出してみたものの、次の言葉が浮かんでこない。


そのとき。
「あれ? シロちゃん。遅かったね」
不意に雛森が、視線を動かした。
「シ……」
シロちゃん? 吉良が考えるよりも早く。
吉良の背後で、聞き間違えようのない声が響いた。
「ちょっと散歩してたんだよ」

慌てて振り返った吉良の背後に居たのは、銀髪の少年。
いつも逆立てていた髪は、すんなりと額にかかっている。
表情も、「日番谷隊長」と比べれば、格段に幼く見える。
しかし、それは紛れもなく……「日番谷冬獅郎」だった。

「ねぇ、ちょっとシロちゃん!」
「寒いから中入ってろ。……俺は、吉良と話がある」
それだけ言うと、日番谷はさっさと吉良に背を向け、歩き出した。

 


吉良は、足早に日番谷の後を追った。
―― 吉良。
さっき、日番谷ははっきりと、吉良の名を呼んだ。
吉良が誰なのか。何をしに来たのか分かっている。そんな断固とした声音だった。
「何を泣きそうな顔してる。副隊長のくせに、情けねえな」
ひょい、と振り返った日番谷が言い放った何気ない言葉。
その言葉の強さが、張り詰めていた吉良の何かを解きほぐした。

誰もが迷い、揺らいでいた「現実」の瀞霊廷の中で。
吉良が待っていたのはこんな風に、強く迷いのない誰かの言葉だった。


闇に沈んだ通りは、人通りは全くない。
粗末な家々から漏れる光は、薄ぼんやりとしか二人の姿を、互いの視界に映し出さない。
「……日番谷隊長」
「何だ」
現世では瞼に閉ざされていた翡翠の瞳が、まっすぐに吉良を射た。
「……夢はもう、おしまいですよ」
そうだな、と。
彼が期待した言葉は、返ってこなかった。


「ここに居る松本は、『夢』じゃねえんだな」
柵に背中をもたせ掛け、日番谷は吉良を見上げた。
「えぇ。……気づかれていたんですか」
「まぁ、な」
乱菊も日番谷のことを聞いたとき、驚いた顔はしていたが、動揺を収めるのも早かった。
やはり、直感というにもあまりにも鋭い感覚が、二人の間にはあるのかもしれない。
「貴方と乱菊さんは、ずっと四番隊舎で眠り続けています。雛森君は……目覚めない貴方の傍で、一日中泣いていますよ」

ふっ、と。
その深い蒼の瞳が、曇る。
「でも。アイツが求めてるのは、俺じゃないから」
「な、にを……」
吉良は、思わず拳を握り締め、日番谷のほうに大きく一歩、踏み出した。

何を……何を、言っているのだ。
あれほど近くにい続けて。なぜ今雛森が泣いているかも、分からないのか。
「違う……違う! 雛森君が求めてるのは……!」
そこまで言って、吉良は言葉を詰まらせた。
そこから先を言うのは、躊躇われた。


「……こっちの世界の雛森も、泣いてる」
吉良が黙り込んだ、その空白を埋めるように、ポツリと日番谷が言った。
「俺がどこかに行ってしまう夢を見るって。行かないでくれって」
「でもそれは幻にすぎない!」
「……本当に、そう思うか?」
「……え」
「この世界は美しい。そう思わないか?」
吉良は、虚を突かれたように黙り込んだ。
平和な世界。誰もが信頼しあう世界。確かに、それは美しいだろう。
でも……それは、この世界が乱菊と日番谷の「願い」が形になったものだからだ。

「この世界は……幻です」
吉良は、唇をかみ締めて、決心したように続けた。
「この世界は確かに美しい。でも、現実じゃない。
行かないでくれと泣く雛森君も、現実に戻りたくない、という貴方の願いの裏返しに過ぎない」

うつむいた日番谷の表情は、分からない。
だが、烈しく葛藤しているらしいのは、見て取れた。
「日番谷隊長!」
思わず、吉良は日番谷に歩み寄った。
そして、その小さな両肩を力任せに掴んだ。
「行かなければならないと、貴方は分かっているはずだ!」

「やめてっ!!」

日番谷と吉良の体が、弾けるように離れた。
その声の主が、二人の間に走りこみ、引き分けたからだ。

「シロちゃんに何するのよ!!」
サッ、と日番谷の前に入り込むと、躊躇いのない目で吉良を睨み上げた。
「雛森……君」
吉良が、絶句する。
人一倍小柄で、人一倍優しげなのに。
誰かが傷つこうとすれば、烈しく敵に立ち向かう。
現実の吉良が知っているとおりの雛森が、そこにはいた。

「……どいてくれ」
「どかないわ」
これは、ただの幻。
そう思えば、無視することも、振り払うことだって出来るはずだ。
しかし、雛森を見下ろした吉良は、何も言えなくなる。
―― これが、本当に、幻なのか……?


「帰ってください」
雛森は、断固とした口調で、吉良に向かって言い放った。
「日番谷君は、あたしの大事な人です。どこへも連れて行かせない」
「……そうか……」
吉良は、ふらふらとした足取りで背後に下がった。
そして、雛森の後ろで、うなだれているように見える、日番谷を見やった。
「これが貴方の『望み』ですか」
日番谷は、痛みに耐えるように固まった。
それでも、何も言わなかった。そうだとも、違うとも。

もう、いたたまれなかった。
吉良は、庇いあう二人に背を向け、足音も立てずに静かに、その場から立ち去った。

 
***
 

暗くても、人の声や笑い声が絶えない、流魂街。
その中をただ一人、異質な空気をまといつかせた吉良が通り過ぎてゆく。
―― この世界が、すべて「幻」……

吹き抜ける風は冷たく、人々は幸せそうで、いつも通りの夜が訪れている。
吉良だって、ほんの半年前は、そんな毎日を送っていたのだ。
隊長だった市丸の裏切り。雛森の狂乱。
「現実」のほうが、よほど実感が薄いじゃないか。


―― このまま、皆に混ざってしまおうか。
気づけば、足は瀞霊廷の、あの居酒屋へと向かっていた。
何もなかったかのように皆と飲み交わし、笑いあい、悪夢のような現実を忘れてしまえれば。
自分も、日番谷や乱菊のように、幸せに暮らせるのかもしれない。

「ダメだ……!」

吉良は、その思いを頭から追い払う。
この瞬間にも、「現実」の雛森は、正気を失っているかもしれないのだ。
だが、日番谷と乱菊の二人が、目覚めるのを望まない今、吉良はたった一人だった。


―― 「ユメを見ていないヒトを、探しなよ」

そのとき、不意に頭をよぎったのが、切羽という少女の声だと気づくのに、しばらくかかった。
「夢を見ていない、だって……?」
それは、吉良、乱菊、日番谷。
確認するまでもなく、それは分かりきったことだった。
では、なぜわざわざ口にした?
「……まさか」
初めて、吉良はその可能性に突き当たった。

 

「おぉ、吉良おめー遅かったな!」
ハッ、と吉良は顔を上げ、玄関先に座ったままだった恋次の姿を見つけた。
いつの間にやら、門の前まで帰っていたらしい。

「どこの便所まで行ってたんだよ。そういえば、あんまり遅いから、市丸隊長がお前を追うって言ってたぜ。途中で会わなかったか?」
「え? 追うって……」
「便所だろ?」
「え? あぁ、いや……」
便所とは言ったが、本当は流魂街に向かっていたのだから、何も答えようがない。
―― 会わなかったよ。
そう答えようとした吉良は、ピタリと固まった。

「待てよ……」
夢で初めて会ったとき、市丸は吉良をなんと呼んだ?


「……変だ」
不意に、吉良は顔を上げた。それは「有り得ない」のではないか。
「おーい、吉良? 変なのはおめーだぞ」
「あ! 阿散井くん!後は任せたよ」
「ハァ? おま、ちょっと、消えんな!」
乱菊のことが気になっていたが、仕方ない。
吉良は瞬歩でその場から姿を消した。

 
***
 

月はいよいよ冴え冴えと、屋根の上で足を投げ出した日番谷の上にも光を注ぐ。
この世界は美しい。留まりたいと願うは願うほど、胸が痛いほど景色は輝きを増してくる。

「……ありがとう」

日番谷は、ぽつり、と呟いた。
何に対してかは、自分でもよく分からなかった。
深く刻まれた傷に気付かせ、そっと癒してくれた「何か」に対してかもしれなかった。


心は、もう決まっていた。
日番谷は無言で立ち上がり、屋根から地面に飛び降りた。
「……日番谷くん」
その音に気付いたのだろう、引き戸を開けて、雛森が現れた。
「……雛森、俺は……」
「分かってる」
雛森の返事は短かった。
その感情を隠すには大きすぎる瞳は、日番谷の知らない感情に満たされているように見えた。


「行くんだね」
日番谷は無言で頷く。
―― ごめんな。
謝ろうとした言葉を喉の奥に押し込んで。
なぜなら、今から涙を止めに行こうとしているのも、彼女以外の誰でもないからだ。

「日番谷くんが決めたのなら、あたしには止められない。
次こそは護ってあげてね。あなたが本当に護りたいと思うヒトを」
「……あぁ」
それはお前のことだと、言葉にしなくてもどうか伝わって欲しいと思う。
―― 日番谷くん。
そう、彼のことを呼ぶ雛森は、既にあの、あどけない笑みを湛えては居ない。
どこか影のある、「あの」雛森だ。

「……待っててくれ。今行く」
その大きな瞳がこぼれるように見開かれ……雛森はウン、と頷いて、微笑んだ。
そして、手を振ったように見えた……が、その姿がゆらり、と揺らめく。
瞬きするほどのわずかな間に、雛森の姿は、建物ごと掻き消えた。


―― 当然、か……
日番谷が幼少期に過ごした家は、もうこの場所にはないのだから。
祖母は今頃ひとりでいるだろうし、雛森は嘆き悲しんでいる。
祖母も、雛森も、護りきるにはこの掌は小さすぎた。
でも……

「それが現実だ」

日番谷は、そう呟いた。
次こそは、護ってみせる。
そして、その場で黙祷するように目を閉じると、踵を返した。

 

その時。
日番谷の頭上に、影が落ちた。

「!? 吉良……?」
ばさり、と翻った死覇装に、日番谷がそばの樹上を見上げる。
太い枝の上に長身の死神の、闇よりも深い影が見えた。
その姿を見ると同時に、言い知れぬ悪寒が、背筋に走った。
「お前は……!」
闇に慣れた目で、その男の口元が亀裂のように「微笑み」を形作るのが見えた。

「いちま……る」

「へぇ。やっぱり、判るんやね。ボクが」
凶悪な紅い瞳をのぞかせ、市丸は愉しげに言った。

「遊びましょ。『十番隊長さん』」