死覇装を纏った姿が、巨大な烏のように日番谷の前に降り立った。
「なんでてめぇがここにいる!」
「そりゃ、こっちの台詞やわ。ここにおるんは、ボクと乱菊だけの契約やのに……渡(ワタリ)が、妙な茶目っ気出しおったか」
乱菊、の名前に、日番谷は一瞬だけ反応したが、すぐに冷静さを取り戻す。
「……やっぱり分かってたん? あの一瞬で」
流魂街の甘味処で出会った時のことを言っているのは、明らかだった。
「アイツが幸せそうやったから、何も言わんかったんか? ……相変わらず、甘いお人や」
―― どうする?
市丸が少しずつ、間合いを詰めてくる。それでも日番谷は動かなかった。
市丸の武器は、伸縮自在な鎗。間合いなどないに等しい。
その上、今の日番谷では、避けることもかなわないだろう。背中に、イヤな汗が伝った。
「……なんで、俺のことに気づいた?」
「イヅルや。あの子、確実に現実のことを知ってた。乱菊と話した後、すぐに出て行ったさかい、気になって後追ったら……ビンゴや」
ちっ、と日番谷は舌打ちした。
吉良はとにかく、同じ隊長格同士で気配にも気づかないとは……
本当に、自分はただの子供に成り下がっているらしい。
「でも、アンタも『良かった』やろ? ここに来て」
市丸の笑みが、残忍さを少しずつ、剥き出しにしてゆく。
「ここに居たい、て思ったやろ。現実なんかどうだってええって、思ったんちゃうんか」
無造作に、市丸は斬魂刀を腰から引き抜いた。神鎗の白い刀身が露になり、日番谷の全身がハッと緊張する。
「ボクやって、心が痛むんやで。今の日番谷はんみたいな、ただの子供をいたぶるんは」
「ぬかせ、変態狐。一等好きなシチュエーションだろ? 違うか」
日番谷が、そういい終わった瞬間。
市丸の懐が、キラッと一瞬閃光が走ったように見えた。
「っ?」
それに気づいた時には、すでにその切っ先が日番谷の頬を抉っていた。
「口の利き方を知らん子やな。ちーと、お仕置きが必要やな」
「……」
頬を流れ、唇を伝った血を、日番谷はペッ、と地面に吐き捨てた。
逃げても無駄。抵抗しようが、この男の前には何も通用しないだろう。
ならば尚更、この男の前で無様な真似は見せたくなかった。
市丸は、そんな日番谷を、上から下まで嘗め回すように見た。
「なぁ。どうしたら壊れるんや? どうしたら狂う? その両手両足斬りおとしたらいいんか? それとも……」
愉しそうに続けた。
「同じこと、雛森ちゃんにしたら、いいんかな?」
「てめ……」
どくん、と胸が高鳴った。
均衡が、崩れる。その瞬間が自分でも分かった。
勝てるはずなんてないと知りながら、気づけば体が勝手に、市丸に向かって突っ込んでいた。
「『一本目』」
市丸の口角が上がる。
その神鎗の一撃が、まっすぐに日番谷の右腕を狙った。
闇の中に、衝撃音が響き渡る。
「……?」
日番谷の頬に、熱い液体が飛ぶ。
そっと目を開けると、襲ってくるはずだった痛みは、どこにもなかった。
頬を拳でぬぐうと、自分のものでない血がべっとりとこびりついている。
カラン。
理解が及ばないまま、音を立て地面に転がったものに視線を走らせる。
これは……刀の鞘だ。
「やってくれんなァ」
市丸の声が至近距離で聞こえ、我に返った日番谷はその場から飛び下がった。
―― なに?
視線の先に捉えたのは、市丸の白い肌を流れ落ちる、血。
神鎗を握る右手の皮膚が裂け、血が滲んでいた。
痛みも感じていないような、爬虫類を思わせる笑みを浮かべ、市丸が顔を上げた。
「ただ、甘いなァ。鞘やなくて刀投げつけとったら、右手くらい持ってけたかもしれんで?」
「……それこそ、甘いです」
跳び下がった日番谷の背中が、背後に立つ死神の胸に打ち当たった。
日番谷は顔を上げ、声の主を見とめる。
「お前……」
「仮に右手一本失ったところで、貴方と僕の力の差は覆りません。刀を手放す真似はできませんよ……『市丸隊長』」
「! 吉良……!」
日番谷の横を通り過ぎようとした吉良の前に、日番谷がとっさに腕を伸ばした。
副隊長の吉良は、どうあがいても市丸には勝てない。
それは、今の日番谷が市丸に勝てないのと同じくらいの、厳然たる事実。
しかし吉良は、微かに微笑むと、日番谷の腕に手をやって下に降ろさせた。
「すみません。日番谷隊長」
「……え?」
「僕はずっと、勘違いしてたんです。僕だけが弱くて、他の皆は強いのだと。
だから誰かが救ってくれるのを、僕はただ黙って待っていた」
日番谷や、乱菊の言葉を聞き、この人達は強いのだと、「勘違い」していた。
でも、今の傷ついた二人を見て、吉良は思い知ったのだ。
自分たちよりも脆かった吉良の支えとなるために、二人は自らの傷を押し隠しただけだと。
自分は何もわかっちゃいなかった。
もう一度、吉良は思う。
「なんで分かったんや? イヅル。ボクが『ユメを見ていない側の人間』やと」
「それですよ」
吉良は、刀を下げたまま、市丸のほうへゆっくりと歩み寄った。
「貴方は、僕を『イヅル』と呼んだ。この世界では、貴方と僕の接点は皆無に等しいのに、です。
他人に関心がない貴方が、この状況で僕をそう呼ぶことは、ありえないんですよ」
吉良が副官になった時も、苗字を覚えるだけで数ヶ月かかったのだ。
名前で読んでくれるまでには、更に数年の年月を要した。
吉良と同時にそのことを思い出したのか、市丸が懐かしげに笑い出す。
その笑みが……精霊廷にいたころと全く同じで、吉良は表情をゆがめた。
「この夢で暮らしたらよいのに。現実はちょっとばかり、今のイヅルにはきついやろ?」
裏切ったのは自分なのに。飄々とした口調で、市丸は吉良を見下ろす。
「夢……ですか。昔、夢なら見ていましたよ」
吉良の淡々とした口調から、感情は読み取れない。
「貴方の下で一生懸命働いて、貴方に認められ、共に戦う未来を」
強烈なほどに憧れていたのだ、目の前のこの男に。
ぐっ、と腕に力を込め、斬魂刀の切っ先を市丸に向ける。
「僕はもう、夢は見ません」
***
「夢は見ません、か」
その言葉を引き継いだのは、思いがけぬ声だった。
市丸の細い瞳が、わずかに見開かれ……後ろを振り向いた。
それは、ほんの一瞬の隙。しかし吉良は、そのコンマ数秒を見逃さなかった。
「!」
思わず、日番谷が身を乗り出す。
吉良の刀は、市丸の喉元に突きつけられ、止まっていた。
ゴクリ、と生唾を飲み込んだのは、吉良の方だった。
切っ先が白い皮膚を突き刺すほどの距離にいても、市丸はどこか余裕を感じさせる表情のままだ。
「松、本」
日番谷の、掠れた声が静かな空間に響いた。
吉良は、市丸の肩越しに、こちらへと歩いてくる人影を見やった。
ふわり、と小麦色の柔らかな髪が、闇に解けた。
猫のような碧い瞳が、市丸の肩越しに吉良を見つめていた。
「松本さん……」
市丸は、首だけ後ろにひねり、乱菊を振り返った状態で動きを止めていた。
―― どうする?
吉良の迷いが、日番谷には手に取るように判った。
乱菊の実力は、吉良に勝るとも劣らない。
既に一度戦い、乱菊が勝利していたことからも、それは明らかだ。
乱菊が市丸につけば、吉良にはどう考えても勝ち目がなくなる。
「乱菊」
市丸の背中に触れるくらいまで近く、乱菊が歩み寄る。
日本舞踊を学んでいるその歩法は、月光を浴びて見とれるほど美しい。
市丸を間近で見つめ、乱菊はゆっくりと顔に微笑みを広げた。
「夢は、覚めるものよ」
シャッ、と涼やかな鞘走りが響いたと思った瞬間、乱菊の刀が市丸の背に突きつけられた。
両側から刀を突きつけられ、市丸は一瞬表情を消したが、すぐに肩をすくめた。
「ヒドイなぁ。よってたかって苛めんでもええやん」
「油断するな!」
すかさず、日番谷が言葉を挟む。
普通なら絶対有利なはずのこの戦況も、相手が市丸なら……
あっさりひっくり返される余地は、まだ十分に有る。
乱菊はそんな日番谷を、どこか懐かしそうに見た。
「相変わらず心配性ですね、隊長」
「……! てめーが呑気すぎるんだよ」
日番谷が額に手をやって、吐き捨てるように言った。
「吉良に叱られて、思い出しちゃったじゃないですか」
乱菊は、湿り気のない声で吉良を見やった。
「あたしが従い、護ると決めた人は貴方だけです。日番谷隊長」
日番谷は返事の代わりに、苦しげに眉根を寄せた。
―― こいつらを、こんなところで殺させちゃダメだ。
乱菊と吉良が本気で戦った所で、市丸は強いのだ。
そして、同等であるはずの日番谷自身が、今はほとんど無力だ。
現実ではありえないこの状況が、もどかしかった。
「ボクを斬るんか? 乱菊」
鍵を握る男は、どこか愉しげに、背後の乱菊に声をかけた。
「アンタがホンモノなら、無理でしょうね」
乱菊の瞳が、細められる。
その無表情は、怒っているようにも、寂しそうにも見えた。
「でも、ギンはただの一度だってこんな風に、あたしを愛してはくれなかった。
アンタは『ギン』じゃない。幻なら遠慮なく斬れるわ」
「……待って、まつも……」
それは。それは、違う。
とっさに吉良が言葉を挟もうとした時。
「やっぱり甘いわ、イヅル」
至近距離で、市丸の声が鼓膜を打った。
―― しまった!!
そう思ったときには、もう遅かった。
「鏡門」
市丸の口から発されたのは、力ある言葉。
その鬼道の意味を考えるよりも早く、吉良と乱菊の体は、木の葉のようにその場から吹っ飛ばされた。
「ぐっ!!」
背後の木の幹に思い切り背中を打ちつけ、乱菊の体がくず折れる。
「まつ……もとさん!」
地面に叩きつけられたイヅルは起き上がろうとして、その場で咳き込んだ。
―― たかだか結界の一種で、こんな……
結界の壁を張った勢いで、副隊長二人を吹っ飛ばしたというのか。
瀞霊廷にいた頃よりも、更に力を上げているのではないか。
戦慄が、背中から駆け上ってくる。
「夢は、解けへんよ」
自由になった市丸が、悠々とした足取りで吉良のほうへと歩み寄った。
「迷ってる人間がいる限りな」
「迷っている……人間?」
吉良は聞き返したが、市丸は笑みを深めただけだった。
―― どうする?
日番谷は霊圧を失っている。
乱菊は意識がないのか、ぐったりと木の根元に横たわったままだ。
「やるんか、イヅル」
市丸は、片眉をわずかに上げた。
それは、彼には珍しく、怪訝そうな表情に見えた。
吉良は、斬魂刀を構え、市丸を見据えた。
「もう、貴方と僕は敵同士ですから」
市丸の細い目から、紅い瞳がのぞく。
自分で言った言葉に傷つきながらも、市丸を見返す吉良を見やった。
「……そやな」
無表情の市丸が、どのようなことをその瞬間に思ったかは分からない。
しかし、次の瞬間、市丸が斬魂刀を吉良に向けたことが、答えなのだろうと吉良は思った。
もう、戻れないのだ。
そしてこれはもう、「夢」なんかじゃない。
「!」
市丸と吉良が、弾けるように一点を見やった。
背後の暗がりから、足音が聞こえた。
それは、頼りないほどに小さく、ゆっくりとした足取りだった。
漆黒の沼から上がってきたかのように、黒い単、黒袴……死覇装。
月光下の銀髪は、闇の中で昼間よりも明るく、けぶるように輝いている。
右手に握り締められた抜き身の長刀に、鋭い光が渡った。