「日番谷隊長!」
涼しげな翡翠色の瞳が、迷いなく市丸に向けられた。
玲瓏な霊圧が、周囲に広がってゆく。
押しも押されもせぬ、護廷十三隊の隊長がそこにはいた。


「悪かったな、吉良」
日番谷は、市丸を見据えたまま、吉良の横で立ち止まった。

「いつまでも迷い続けてたのは……俺だったみたいだ」

その表情は……こんなことを思うと無礼なのだろうが、吉良は思う。
まだ隊長へと意識が戻りきれない日番谷の横顔は、親を失った子供のようだった。

市丸は、そんな日番谷を観察するように見下ろす。
「まだ、本調子ではないみたいやね。そんな状態でボクに勝つ気なんか?」
「馬鹿だな、お前は」
市丸の言葉に、日番谷は冷静な口調で返した。
「俺たちの目的は、お前に勝つことじゃねーよ」
市丸が口を開くよりも早く、日番谷は動いた。
地面に向けた氷輪丸の切っ先で、静かに地面を突いたのだ。


「!」
パシャン。
響いたのは、水音。
氷輪丸が突いた点のような場所から、池に広がる水の綾のように、幾重もの水輪が生まれ出た。

「うわ!」
吉良が思わず悲鳴を上げて、その場から飛びのいた。
水輪が足元に届いた瞬間、吉良の体が地面に沈んだのだ。

―― いや、地面というより、これはもう……
「水になっとるね。完璧に」
ふわり、と地面から中空に舞い上がり、市丸が下を見下ろした。


市丸の言うとおりだった。
それも、鏡のように波立たず底も見えない、巨大湖のような質量の水に。
それは、水輪が広がるにつれて、加速度的にどんどん流魂街に広がってゆく。
「吉良! 松本を頼むぞ」
「はい!」
吉良は、地面にぐったりと横たわっていた乱菊を抱きかかえ、地面を蹴った。

 

―― すごい景色だ……
水輪の外輪は、まったくの無音で、瞬く間に拡大してゆく。
気づけば、潤林安と瀞霊廷をすっぽり飲み込むところまで広がっていた。
家々が、そして巨大な精霊廷が、沈没する船のように水底に飲みこまれてゆく。
それは、ゾクゾクと肌が粟立つような光景だった。


「幻が、消える……」
すぐ隣で、日番谷はぽつりとつぶやいた。
「もう、大丈夫よ」
吉良の腕の中で、乱菊が身を起こした。
そして、ふわり、と中空に降りる。

「誰かが迎えに来てくれると思ってたけど、まさかアンタとはね」
頬を赤らめて乱菊を離した吉良を、どこかまぶしそうに見上げた。
「ちょっと見ない間に、いい顔になったじゃない。吉良」

 

「あーあー、台無しにしてもうて」
飄然とした声が響き、三人は声の方向を見やる。
「……市丸。まだやんのか」
三人から少し離れた空中に、市丸が浮いていた。
「やめとくわ」
日番谷がにらみつけると、市丸はあっさりと退いた。
「こんな夢の残り滓みたいなトコで戦っても、しまらへん」


既に周囲はもう、ソウル・ソサエティの片鱗も残していなかった。
あれほど眼下に広がっていた水すら、消えうせている。
ただ、闇とも光とも言いがたい、亡羊とした空間の中に四人はいた。
―― 夢から覚めるのか……
すこしずつ、光の度数が高くなり、闇が薄れてゆく。
日番谷は辺りを見回した。


「……え」


沈黙を破ったのは、乱菊だった。
「どうして、アンタ……消えないの?」
乱菊が身を乗り出すと、市丸は、わずかに身を引いた。
乱菊が、唐突にハッ、と目を見開いた。


「アンタ……『幻』じゃ、ない……?」


その表情は、いつもと同じ真意の見えない微笑に覆い隠されている。
「ギン!!」
「いくな松本!!」
駆け寄ろうとした乱菊の袖を、日番谷が掴んだ。

「隊長!」
悲痛な声で乱菊が振り返る。日番谷は市丸と乱菊を見比べ……はっきりと一度だけ、首を振った。
そっちに行ってはダメだ。
日番谷の意思が、その翡翠を通して流れ込む。


「……乱菊」
沈黙の中、口を開いたのは市丸だった。
「十番隊長さんと一緒におりな」
乱菊の表情が、見る見る間に苦悩に歪んでゆく。

「ギン……」

名を呼ぶことしかできない乱菊を見て、市丸は束の間、困ったような笑みを浮かべた。
そして、くるりと背を向ける。
その姿が、ふっ、と掻き消えた。

 

「き……消えた?」
日番谷が市丸の消えた方向に手を伸ばして、ぎょっとして手の甲を凝視した。
その手が、見る見る間に薄くなり、空間に透けてゆく。
「な……日番谷隊長っ!」
吉良が叫ぶその目の前で、日番谷の姿がふっ、と消えた。
「松本さ……」
叫んだ時には、すでに乱菊の姿はない。
意識が、闇に落ち込んでいった。

 
***
 

―― どこだ、ここ……
ぼんやりとした光と闇の狭間に、日番谷はたたずんでいた。

「んー。結局4人もか。もしかして、ウチの赤字かな?」

聞き覚えのある声が、不意に聞こえた。
振り返ると、そこには、少し前に見かけた少女がいた。
白く短い、犬のようにふわふわとした髪をなびかせ、翠の目は穏やかに凪いでいる。
手にした、5センチ四方くらいの紙を見下ろしている。
数字と文字が書かれているらしい其れは、領収書のように見て取れなくもなかった。

少女は、日番谷の視線を感じると、ドキリとするほど真っ直ぐに見返してきた。
「ま、いいか」
その手から紙が離れ……闇にふうっ、と溶けた。

「あの子に愛されたい。それが、君の願いだったんだね」

今更、もう隠す気も起きなかった。
「分からねーよ。分かりたくもねぇ」
それだけ答えると、顔を背ける。

「これだけは、忘れないで」
切羽の声が、姿が、どんどんと遠くなってゆく。
「ヒトは、かなわないユメは見ないものよ」

 

「えっ?」
日番谷は、ハッと目を見開いた。
「日番谷くんっ!!」
朦朧とした意識の中で、聞きなれた声が鼓膜を叩く。
何か温かいものが、頬にぽたりと落ちた。
一番初めに目に入ったのは、くしゃくしゃに顔をゆがめた、雛森の表情だった。

涙が一筋頬を流れ、床に零れ落ちるまで、わずか数秒の間に。
絶望に沈んでいた表情が、歓喜へと移り変わってゆく。
「日番谷く……あぁ……ああああ!」
幼子を掻き抱く母親のように、なりふり構わず。
雛森は日番谷をぎゅっと抱きしめた。

「ちょ……待てよ!」
雛森の後ろに、立ち並ぶ大勢の死神を見とめた日番谷は焦った。
でも。
ガタガタと震える雛森の腕を感じ、日番谷は絶句した。
これほどまでにあけすけに、誰かに求められたのは初めてだったから。


日番谷はぎこちなく手を伸ばし、痩せてしまった雛森の背中を、ぽんと軽く叩いた。
歓喜が、震える雛森の体を通して、日番谷に流れ込んでくる。
―― なんだ。
胸に大きな穴を開けていたのは、雛森じゃなくて俺だったのか。
ふさがって初めて、日番谷はそれに気付いた。


「おー、吉良! おめー心配したんだぞ!!」
恋次の声に、日番谷はくらくらする体を起こし、そちらを見やる。
うなりながら上半身を起こした吉良と、目が合った。
泣きじゃくる雛森に目を走らせ……ゆっくりと、微笑んだ。
「松本は?」
日番谷がハッとして見回した先。隣のベッドで、乱菊が眠っていた。
「う……ん」
小さく声を漏らすのを、心配そうに周りの死神が見下ろす。

「乱菊さん!」
涙を浮かべ、揺すろうとした伊勢を、日番谷が制した。
「少しだけ……もう少しだけ、待ってやってくれ」