「ごめんね、日番谷くん。迷惑かけちゃって」
雛森は消え入りそうな声で、そう呟いた。
その口元の空気が、ほぅ、と白く染まった。
もう、冬だな。
それを見て、日番谷はそんなことを思った。

「迷惑じゃねーよ」
木盥(きだらい)に入れた水に、白い手ぬぐいを浸した。
ぎゅっと絞ると、雛森の前髪を手で避けて、その額に置く。
「つめた!」
「我慢しろ」
布団を首元まで押し上げてやる。
眉間の皴がほどけてゆく。ホッとした表情になるのを見て、日番谷も胸をなでおろした。

パチッ、と音を立てて、囲炉裏の炎が弾けた。
部屋の隅に置かれた行灯が、ジジ……と音を立てる以外は、辺りは静まり返っている。
炎が揺れる影が、障子に幻燈のように映し出されている。
ささやかな燈。ささやかな音。
冴え冴えとした空気の中で、雛森の頬は赤い。
かすかに、荒い息遣いも聞こえてくる。
熱が高いのだ。

「ひとりで隊をまとめるなんて、ムリに決まってんだろ。もっと仲間を頼れよ」
日番谷の声に、雛森は力なく笑った。
「うぅん。藍染隊長が戻ってきたときに、怒られちゃうもの」
パチッ、と音を立て、炭火が爆ぜた。
「……そうだな」
それは、これまで何十回と繰り返された、儀式のような会話だった。
藍染隊長が戻ってきたら。
そんなことが、あるはずがないことを、日番谷は判っている。
それでも、それを雛森に告げることはない。

藍染に心も体もボロボロにされて尚、雛森の中心には藍染がいる。
藍染に取って代わることもできない自分が、藍染を否定することは……
雛森の生そのものを、否定することになるからだ。

俺も、まだまだガキだってことか。
日番谷はそう思う。
他人にそれを言われたら、絶対にそいつに言い返すだろうけど。
日番谷には、結局分からないのだ。
雛森の心の中心に、藍染の名を名乗り、居座っているものの正体が。


気づけば、ぼぅっとしていたらしい。
雛森が、スッと手を伸ばして来たのに、気づかなかった。
斬魂刀を握れるとは思えない、白く華奢な指が、日番谷の頬に触れた。
「ごめんね、心配かけて」
大きな黒い瞳の中に、日番谷の姿が映っている。
その瞳は、姉のように優しい。
まるで、看病している日番谷が、見守られているような気分になるほどに。

「溜まってる書類、それか?」
日番谷はスッと視線を逸らすと、体をひねって後ろを向いた。
きちんと整えられた机の上には、右側には硯と筆が、左側には書類の束が置かれていた。
日番谷は束を手に取ると、パラパラと何枚かめくった。
「やっとくぞ」
「え、でも……」
「どうせここにいる間、やることねーんだよ」

やることがない、なんてありえない。
雛森は、早くも書類に没頭しだした、日番谷の横顔を見る。
数ヶ月前……旅禍の一件まで、日番谷の姿を瀞霊廷で見ることは、滅多になかった。
瀞霊廷のお高くとまった空気の中にいると、ウンザリすんだよ。
前に理由を聞いたとき、生意気な口調で、そんなことを言っていたから、たしなめたものだ。
副官の松本乱菊でさえ連絡に困るほど、ソウル・ソサエティの担当エリアを飛び回っていたのだ。

でも、旅禍の一件を境に、日番谷の行動はがらりと変わった。
瀞霊廷内のあらゆる仕事を引き受け、瀞霊廷から一歩も出なくなったのだ。
ソウル・ソサエティを護る。死神になった時点での誓いだけではなく。
隊長として、反乱の傷跡に苦しむ仲間の支えになると決意したかのように。

「……日番谷くん」
「あ?」
「日番谷くん」
「なんだよ」
ぶっきらぼうながらも、必ず返事を返してくれる距離に、日番谷がいる。
「日番谷くんが、いてくれてよかったよ」
ひょい、と日番谷が振り返った。
「……」
しかし、日番谷の視線の主は、穏やかな寝息と共に、瞳を閉じていた。
「……ンだよ」
雛森の前では決して見せない、拗ねた一言とため息を、一緒くたに吐き出す。


日番谷に見られているとは夢にも思っていない無心な表情で、雛森は眠り続けた。
時計の針の音をひとつひとつ数えるような、切ない時間が流れてゆく。
硯に置いた筆は、とっくに乾いていた。
「あ……」
雛森の口元から、吐息のような声が漏れた。
片膝を立て、後ろに手を付いて雛森を見下ろしていた日番谷が、ハッ、と我に返る。
スッ、と雛森の頬に弧を描くように、一筋の涙が流れ落ちた。
「藍染……隊長」
日番谷の睫が、かすかに震えた。
無意識に雛森の頬に伸ばした指先が、寸前で握り締められる。
ため息とともに、ゆっくりと、瞼を閉じた。
視界が、闇に落ちてゆく。

 
***


すぅ、と吉良は瞳を開けた。
雛森は眠ってしまったのだろう、部屋の中からは、全く何の音もしてこなかった。
障子の向こうからは、燈の揺れる様がぼんやりと、うかがえる。
その指は、さっきからずっと、障子にかけられている。
でも吉良にはどうしても、それを引き開けることができないのだった。

吉良は、自分の掌を見つめる。
激情に駆られ雛森と刃を交わした時、刀を握り締めた、掌を。
あれから吉良は、雛森とどう目を合わせ、何を話したらいいのか、分からないのだ。

手には、雛森が気に入っている甘味処の、葛切が入った紙袋がある。
真央霊術院の同級だった頃、なけなしの小遣いを持って、よく買いに行ったものだ。
流魂街出身の雛森と恋次の前では、貴族である自分が金がないなど、思われたくなくて。
いつも、半ば無理やりにおごっていたことを思い出す。
今思えば、それは無意味な……雛森には全く届かない、意地にすぎない。
でもそれだけでも、吉良は満足だったのだ。
あの頃は、こんな未来が待っているとは、夢にも思いはしなかった。
吉良は、そっと葛切の入った袋を障子の脇に置き、そのままその場を後にした。


「吉良副隊長!雛森副隊長のご様子は……?」
五番隊舎に足を踏み入れた途端、吉良は多くの隊士に取り囲まれた。
本当に雛森は皆から愛されている、と思う。
自分とは大違いだ。
「心配いらないよ。日番谷隊長がいてくれるから」
吉良がどんな思いでその名を口にしたにしろ、皆はいたく安心したようだった。
「そうか。日番谷隊長がいてくださるなら、安心だな」
「雛森副隊長も、ゆっくりできるだろう」
そんな言葉をあいまいに聞き流し、吉良は隊舎を後にした。


―― 僕だって、毎日雛森君を見てた。
表立ってじっと見るのは躊躇われたけど、ずっと気にかけていた。
同じように隊長を失った隊の副隊長同士だったから?
学友だったから?
それは事実だ。でも、真実を語ってはいない。

今日だって、吉良は五番隊の垣根の向こうから、ちらり、と雛森の姿を見た。
いつも通り、てきぱきと隊を指揮していた。
隊長不在の隊を、あそこまで見事に切り盛りするなど、雛森だからこそだろう。
吉良の目にも雛森は、立ち直ったように見えた。

五番隊舎に背を向けた、その時。
「あれ? 日番谷くん? どうしたの」
素っ頓狂な雛森の声に、吉良は振り返った。
視界に、日番谷がひょいと垣根を飛び越え、五番隊の修練場に入るのが見えた。
「お、お疲れ様です、日番谷隊長!」
いきなり登場した他隊の隊長に、五番隊士たちが慌てて頭を下げる。
「ちょっと来い、雛森!」
挨拶もそこそこに、日番谷は乱暴に雛森の袖を掴み、どんどん歩いてゆく。
隊士からは見えない、修練場からは陰になった場所だ。
自分のほうに向かってくる、そう思った吉良はとっさに気配を消した。

「ちょっと、どうしたのよ、シロちゃん」
「シロちゃんって言うな」
「いいじゃない、二人きりなんだから」
あぁもぅ、と日番谷が面倒くさそうに頭を掻くのが、垣根の隙間から見えた。
そして有無を言わさず、雛森の額に掌を乗せる。
「すごい冷たい手よ?」
「阿呆。お前が熱いんだ」
「そう?」

ぎくり、とした。
垣根に遮られた中途半端な視界で、ふたりの顔が触れるほどに近づいたように見えたからだ。
「ほんと。全然熱さがちがうね」
コツン、と無造作に額を合わせた雛森が、大儀そうに身を起こす。
「ホント、じゃねーって。お前は昔っから、疲れるとすぐ熱出すんだ。そろそろじゃねーかと思ってたんだよ」

腕を組んだ日番谷が、雛森に説教している。
吉良は、雛森から目を逸らせずにいた。
これほど無防備に、雛森が笑う表情を、初めて見たからだ。
何十年も、一緒にいて。一度も見せてくれなかった表情で、雛森が微笑む。
「日番谷くんが言うなら、ちょっと休もうかなぁ」
熱のせいで、上気した表情で照れたように笑う雛森の瞳が、一瞬垣根に注がれた気がして。
吉良は、まるで二人の情事を盗み見たかのように、赤面した。

 


冴え冴えとした月光が、冬の道を照らしている。
どれほど明るくても、決して温度を持たないその光が、今はありがたかった。
自分の心を冷やして欲しい。
そんな気持ちだった。
「日番谷隊長。……貴方は、強すぎますよ」

藍染に陥れられた雛森が日番谷に刀を向けた時、吉良もその場にいた。
最も大切な人間に裏切られて尚、日番谷は我を忘れたりはせず、雛森を説得しようとしていた。
雛森だけは傷つけないという市丸の甘言に乗り、結果的に瀕死の重傷を負わせる原因を作った、自分とは大違いだ。

―― 「責める気はない」
反乱直後、謝罪のために訪れた吉良に対して、日番谷が言った言葉は、それだった。
日番谷・雛森ともに瀕死の重傷を負った一因を、吉良が担っていたにも関わらず、だ。
吉良は正直、斬られてもしかたないと覚悟を決めていた。
―― 「なぜです。貴方はどうして、そんなに・・・赦せるんですか」
吉良の潤んだ瞳に返したのは、あくまで静謐な色を湛えた瞳。
吉良は日番谷に会って初めて、翡翠とは決して揺らがない、強い色なのだと知った。

―― 「もう誰にも、どうすることもできないからだ」
外見に似合わぬ大人びた口調で、日番谷はそう返した。
そう。
一度起こった事実が覆らない以上、もう、どうにもならないのだ。
そんなことは分かっている。
分かった上で、それでもあがいてしまうから苦しいのだ。
未だに、誰のことも心から赦せないし、赦してもらえるとも思えないのだ。


―― シロちゃん。
刃を交わした過去があって尚、無邪気に日番谷に笑いかけた、雛森の表情を思い出す。
「日番谷隊長」
吉良は、雲ひとつない夜空を見上げた。
一分の隙もない銀白色の氷輪は、日番谷の気配を彷彿とさせる。
「どうか……その役を、僕にください」
兄のように、弟のように、見守り続けるその役を。
無防備な笑みを与えられる、その役を。
市丸が去って後、自分の中に真実を探し続けた吉良の、それだけが確かな願いに思えた。