しん、と静まり返った廊下は、凍るように冷たかった。
燈(あかり)の付いていない自分の部屋の前に戻ってきて、吉良はふと、隣の部屋を見やった。
そこは、市丸が使っていた私室だ。
「え……」
障子が、開け放たれている。長い影が、部屋の中から廊下まで伸びていた。

―― まさか。
ダッ、と走り寄り、障子に手をかける。
その音に振り返った立ち姿を見て、吉良はその場に立ち竦んだ。
「ま、松本さん? どうしてここに」
「ひどい慌てようね。ギンが戻ってきたとか思ったの?」
からかうような口調と同時に、碧い瞳が吉良に向けられた。
そんな訳ないじゃない、と軽い口調のまま言って、屈託なく笑う。
「あ……いや」
一瞬、乱菊の背中に濃い孤独の影が張り付いていた気がしたが……気のせいだったか。

俯いた吉良の肩を、軽快に歩み寄ってきた乱菊の手がポンと打った。
「しっかりしなさいよ。ギンがいない今、あんたが三番隊の支えなんだから」
そう。それを思えば、立ち止まっている時間など、ないはずなのだ。
雛森のように、強くならなければいけない。
そこまで考えて……吉良は思考を頭から振り払った。
「松本さんこそ、一体どうしてこんな所に?」
そう問いかけると、改めて部屋の中を見渡した。


そこは、見事なくらい何もない空間だった。
市丸が虚圏へ去った後、市丸の私物は全て処分されたから、当然のことだが。
処分される前、廊下に出された私物を見て、吉良は半ば唖然としたものだ。
あの部屋にいたのは決して短い時間ではないのに、私物は驚くほど少なかった。
「なーんもない部屋よね。前も今も」
吉良の思っていたことを読んだのか、乱菊は部屋をぐるりと見渡した。
「立つ鳥、跡を濁さず、か。狐もそうだとは思わなかったわ」
うーん、と背伸びをしてみせる。

問いかけるような吉良の瞳に、さきほど問われた内容を思い出したようだった。
「いや、大したことじゃないんだけど。お香立てと、お香を貸してたのよ」
「お……お香立て?」
市丸にそんな趣味があったとは、吉良の耳にも初耳だった。
「えぇ。あたしが使ってた香りを、ギンが気に入ってね。貸してくれって言われたの」
吉良の知らない市丸の姿だった。
何かに執着する、どころか、気に入るという感情すら滅多に見せないと思っていたのに。
まるで知らない人間の話を聞くように、違和感があった。

「もしかしたら残ってるかと思ったけど、ここまでスッカラカンとはね。
いなくなるんだったら、その前に返して欲しいわよ! 気に入ってたのに」
まるで、市丸がいなくなったことよりも大事だ、とでも言うように、乱菊が嘆息する。
思わず、といった素振りで、吉良が噴出した。
「なーによ」
「いや、強いですね。あなたも」

あれほどのことがあったのに。
なぜ、この人たちは、暗い影を引きずらないのだろう。
転んでも、さっさと立ち上がり、またスタスタと歩き出せるタイプだと思う。
転んだら、転んだ原因を鬱々と考えて立ち上がれない、自分とは正反対だと思った。

「ギンがいなくなって、そんなにショック? はっきり言って、あんた苦労ばっかりしてたじゃない」
率直な言い方に、吉良の表情が苦笑に変わる。
「確かに、模範的な隊長じゃありませんでしたけどね。大体、副官の僕の名前を覚えるのさえ、随分かかりましたし」
―― イヅル。
初めて名前で呼ばれるまで、どれくらいの時間を要しただろう。
思い出せない。
記憶を掘り起こそうとすると、その記憶は錐のようにイヅルの心を突くからだ。


吉良の顔に、乱菊の視線がぶつかる。
しっかりしなさいよ。そう軽く言い放たれるのではないかと思っていた。
しかし、見返した吉良の前には、思いがけなく優しい乱菊のまなざしがあった。
「忘れろなんて、言わないわよ。あんた、そんな器用なタイプじゃないでしょ?
吹っ切れるまで悩んでもいいのよ。時がきっと、解決してくれるから」
後になって、吉良は思うことになる。
なぜ、あの時の乱菊は、自分の思いを掬い取ったかのように、的確に言い当てたのだろうと。
「じゃぁね。お休み」
そう吉良の脇をすれ違った乱菊からは、市丸と同じ香りがした。

 


***
 
 

乱菊が十番隊隊舎に戻ったころ、時刻はもう9時を回っていた。
門をくぐりざまに、隊首室のほうをチラリと見やる。
「……燈がついてる」
各隊の就業時間は、基本は9時5時。仕事を始めて12時間も執務室にいるなんて……
乱菊には信じられないが、この隊長には別段そうでもないらしい。
―― 放っておくわけにはいかないか。

いつもなら、そのまま通り過ぎて、私室に帰ってしまうのがほとんどだった。
―― 突っ立ってるなら手伝え。手伝わねーなら帰れ。
可愛げというものが、残念なほど一切ない口調で、言い放たれるのが関の山だからだ。
いつもと変わらない日常。

でも……最近の日番谷は、少しだけ、どこか「ずれて」来ている。
具体的にどこがどうおかしい、とは断じられない。
特に不健康そうでも不機嫌そうでもないし、言動にもおかしなところはない。
でも何か、本来の日番谷とは、違う気がするのだ。


その時、冷たい風がヒュウッと廊下に吹き込み、乱菊は慌てて、十番隊舎に駆け込んだ。
―― お前寒がりなんやから、そんな胸元開けて死覇装着たらアカンって。アホやな。
風が吹き抜けると同時に、ギンの残していった言葉が、通り過ぎてゆく。
「……。なーに、よ」
文句を言ってみても、それに返す言葉はもちろんない。
―― さいなら。乱菊。
市丸が残した言葉は、まるでこの風のように冷たく、乱菊の心を一瞬で吹き抜けていく。
乱菊はつかの間瞳を閉じ……とりとめもない、諦めに似た感情を振り払った。

脳裏には、今にも倒れそうなくらいに青白い、イヅルの姿が浮かんでいた。
気丈に振舞いながらも、体調をついに崩したという雛森の姿も。
そういう、判りやすい辛さを出せる人は、幸せかもしれないと不意に思う。
中には、辛さを外に見せないどころか、自分でも気づかない者もいるのだ。
自分自身すら騙している心理を、外の人間が気づくのは、きわめて難しい。


「隊長、入りますよ?」
ノックしてみたが、返事が無い。中で寝入っているのかもしれない。
なるべく音を立てないように、スッ、と戸を開ける。
途端に、覚えのある香りが、鼻腔へと届いた。

「……ギン……?」
あたしは、何を言っているんだ。つぶやきながらも、そう思っていた。
市丸がこんなところにいるはずがない。
でも……この濃厚に漂う香りは間違いなく、自分が市丸に貸したものだ。
隊首机の前の椅子は、背もたれが乱菊のほうを向いていた。
ソファーにも、人の気配は無い。
「誰もいないの?」
乱菊が部屋を見渡しながら、足を踏み入れた、その時だった。


「ひとーり……ふたり。『やっぱり多い』」


唐突に聞こえてきた声に、乱菊はビクリと肩を震わせた。
「誰!」
乱菊の声に鋭さが増す。
考えられないことだった。
副隊長の自分が、これほど近くにいる気配を全く感じ取れないなんて。

「お客さんひとり、見つけた」
くるり、と隊首席の椅子が回った。

 

***
 

 

「アンタ……誰よ」
乱菊は、その場にたたずんだまま、もう一度、聞き返すのがやっとだった。
―― 何?
なんともいえない奇妙な感覚が、胸を満たしてゆく。
―― 何なの?
そもそも、なぜただの「子供」の気配に、今の今まで気づかなかった?

隊首席に座っていたのは、年のころ6歳から7歳くらいに見える、幼い少女だった。
日本人形のように、漆黒でまっすぐな長い髪、陶器のような白い肌。
そして、ハッとするほど蒼い、大きな瞳をしていた。
漆黒と翡翠。普通は見当たらない色合いが、少女の整った容貌を、美しいというより不思議に見せていた。

「空子(カラコ)」
少女の小さな唇が、言葉を形作る。
その不思議な発音が名前だと気づくのに、少し時間がかかった。
体重が無いかのように、ふわり、と空子と名乗った少女が立ち上がる。
瞳の色と同じ、深い青色のドレスの裾が揺れた。
足元に引きずるような長いドレスなのに、裾は埃ひとつ付いていない。

「ここは隊首室よ。どうしてこんなところにいるの?」
なるべく当たり前の言葉を選んで発する。
そうでもしないと、「巻き込まれる」。そう思ったからだ。
空子が発する、平衡感覚を奪ってゆくような……夢の中に落ち込むような空気に。

「お姉さんに会いに来たの。お姉さんは私の、『お客様』だから」
「客って、何よ?」
この状況で会話が成り立つのが不思議だが、乱菊は気づけばそう返していた。
空子は落ち着き払った態度のまま、コクンと頷く。
「そうよ。頼まれたの。お姉さんに、ユメを見せてあげるようにって」
「ゆ……夢? 頼まれたって、誰によ?」
二人の言葉は噛み合っているようで、どこか奇妙にすれ違った。
何しろ、乱菊には、空子が何を言っているのか全く分からないのだ。

「依頼人については、言ってはいけないの」
空子は、小首をかしげて答えた。
考えてみれば、この少女に、この年齢の子供なら当然あるはずの、子供らしい表情は全くない。
無表情というわけではないが、喜怒哀楽が読み取れないのだ。

「ただ、私達はいっぱいお金をもらいすぎちゃったの。お金の分はしっかり仕事をしないと、後の信用にも関わるし。
だから今回は特別に、とびきり傷ついてる人をもう一人連れて行ってあげる」
「連れて行くって、どこによ?」
「辛い現実に生きているヒトに、そのヒトが望むユメを見せてあげるのが、私達の仕事なの」
「もう一人連れて行くっていったわね? 一体……」
「……ヒツガヤ、トウシロウ君っていうの?」


……え?

乱菊は問いかけるのを止め、空子を凝視した。
危うい一線に立っているのだといわれれば、確かに、彼以上にそれに似つかわしい人間はいないのかもしれない。
だが……副官の自分ですら微かにしか感じ取れない兆候を、「なぜ知っているのだ」?
「隊長には、何もしないで!」
突然感情を露にした乱菊に、
「残念ね」
空子は、抑揚のない言葉を返した。
「もう行ってるわ。もうひとりが」
「えっ?」
隊首席に手をついた乱菊の体が、ぐらり、と揺れた。
―― 連れて行かれる!
とっさにぐっと机の端を握り、意識を保とうとしたが……ぐんぐんと意識は遠のいてゆく。

「……隊、長」
その言葉を最後に、乱菊の体が床にくず折れた。
意識を完全に手放した乱菊の傍に、空子がスッと立ち、見下ろした。
「よいユメを」

 


「日番谷冬獅郎くん、だよね」
「誰だ? お前」
日番谷は筆を止めると、いつしかその部屋にたたずんでいた、その少女を見やった。
奇妙な表現だが、「いつの間にか居た」という表現が正しい。
全く、その少女が部屋に現れた気配が、つかめなかったからだ。

年のころは、6歳か7歳程度。日番谷よりも少し幼い程度だ。
白い髪は短く、ふわふわと頭を覆っている。
深い翠色の瞳が、日番谷を見つめていた。
瞳の色に合わせたかのような、翠色の短いドレスを身にまとっている。

「君の分は、実は依頼に入ってないんだけど」
全く湿度というものが感じられない、サラリとした声で少女は言った。
「特別サービスだよ。とびきりのユメに連れて行ってあげる」
「は?ユメ?何言って……」
「あぁ、言い忘れてたけど。あたしの名前は切羽(キリハ)。はじめまして」
「名前はどうだっていいんだ。お前が何者かって聞いてんだよ」
「あたしは『渡(ワタリ)』」
「……渡?」

切羽、と名乗った少女は、軽い足取りで日番谷の目の前に歩み寄った。
「あたしの見立て、間違ってなかったみたいね」
トン、と小さな指が、日番谷の額を突く。
「君が一番、現実に傷ついてるみたいだから」
日番谷は答えず、その小さな手を顔の前からどかせる。
「適当なこと言ってんじゃねえ」
わずかに細められた瞳が、切香に向けられる。
日番谷の不機嫌もどこ吹く風、切香は軽やかに笑うと、ステップを踏むようにその場でくるりと回った。

「おい騒ぐな、病人が寝て……」
言いながら雛森を見やった日番谷は、雛森が半身を布団から起こしているのに気づいた。
その瞳が、怯えたように揺れている。
「気にすんな、雛森。すぐに出て行かせるから」
「出て、行かせる?」
雛森の声が、かすかに震えた。
「シロちゃん……誰としゃべってるの?」
「……え? コイツだよ」
日番谷はあっけに取られ、切香を指差した。
しかし、雛森の視線は、頼りなくその周辺を彷徨った。
「誰も……いないよ?」
「は?」
日番谷は一瞬、沈黙する。そして、切羽を見返した。

ふふっ、と口元が悪戯っぽい笑みに形作られる。
「おやすみ。いいユメを」
途端に、日番谷の意識がぐらり、と混濁する。
周りの景色がにじんで見える。
シロちゃん!
雛森の悲鳴を聞きながら、日番谷はその場に突っ伏した。