「おい、聞いたか? 十番隊の話」
「あぁ。十番隊だけは、何があっても安泰だと思ってたのに」
「一体どうしたんだ? 最近、次々と隊長や、副隊長が……」
「シッ!」
金髪の死神が、足早に傍を通り過ぎるのを見て、噂話がぴた、と止んだ。

吉良は自分の周りで漣のように繰り返される不吉な会話を無視し、四番隊隊舎に足を踏み入れた。
「吉良副隊長、こちらです!」
虎徹勇音が、入り口で彼を見て頭を下げた。
その暗い表情を見て、吉良は改めて思い知らされる。
これが、紛れも無い「現実」なのだと。


―― どうしてなんだ?
虎徹に案内されながら、目が痛くなるほど白い、階段を上ってゆく。
脳裏には、つい三日前の、雛森を看病する日番谷の言葉が残っている。
乱菊にかけられた励ましの言葉も、容易によみがえってくるというのに。

「吉良くん!」
吉良が足を踏み入れた途端、雛森が泣きそうな顔で振り返った。
いつもの吉良なら、まともに雛森を見返すことなどできなかっただろう。
だが皮肉なことに、今はそれどころではなかった。
「雛森君! 日番谷隊長と、松本副隊長のご容態は……」
「……眠り続けていますよ。相変わらず、目覚める兆しはありません」
吉良に返したのは、病室の奥に控えていた卯ノ花だった。


改めて、吉良は広い病室の中を見渡す。
卯ノ花、浮竹、京楽、白哉、涅。そして、雛森、檜佐木、恋次。
この8名が、病室の窓際に置かれた二つのベッドの周りに、集まっていた。
そして、真っ白い布団の下で昏々と眠り続けているのは、日番谷と乱菊の二人。

「なに、やってるんですか。お二人とも……」
吉良が歩み寄ると、傍にいた者たちが、暗い影を表情に貼り付けたまま、下がった。
「起きてくださいよ! 三日も目覚めないなんて、何の冗談ですか!」
吉良がどれほど大声で叫んでも、同じだった。
軽く閉じられたふたりの瞳が、開かれることはなかった。


「やめろよ吉良。誰がどんなに声かけても、ゆすってもダメなんだ」
後ろから歩み寄ってきた恋次が、吉良の肩をグッと掴んで引き戻した。
「卯ノ花隊長! ……これはどういう病気なのですか? どうしたら二人は目覚めるんですか?」
吉良の問いに、卯ノ花はしばらく黙考したまま、微動だにしなかった。
吉良がじれったくなった頃、卯ノ花はゆっくりと雛森を見やる。

「……雛森さん。あなたにお伺いしたいことがあります」
「は、はい!」
雛森は涙を拭き、緊張した面持ちで卯ノ花を見返した。
「日番谷隊長は、昏倒される直前、誰かと話していたといいましたね? でも、あなたには何も見えなかった」
「ええ。危険な相手と話している風じゃなくて、どこか困ったみたいな……
『夢?』とか、『ワタリ』とか、『適当なことを言うな』とか。相手の言うことを聞き返してるみたいでした」

「ワタリ……渡、のことかい。興味深いネ」
意外にも、雛森に返したのは涅だった。
「何のことか、ご存知なんですか? 涅隊長!」
いつもなら涅とはできる限り目もあわせない雛森だが、必死の表情で涅に歩み寄る。
「ご存知に決まっているサ、私に知らないことなどない」
涅は、その目をぎょろりと周囲に走らせてから、落ち着き払って言葉を続けた。

「望む者に、望む夢を見せるのを生業とする者達の総称だヨ。
渡は自由に夢を渡り、『客』となりうる人物以外にはその姿を見ることはできないという。今の話と合致するネ」
「夢を見せる? 一体何のために」
「奴らの考えることなど、想像もつかんネ。そもそも興味がない」
涅は再び、肩をすくめて京楽の問いに答えた。

「我々死神とは何の接点も無い。『渡(ワタリ)』が何者なのかも誰も知らない。
ただ、そう言った輪廻から外れたものは、確実に存在するのだヨ。非科学的……現世で例えれば、妖怪や精霊のようなものだネ」
死神たちは、言葉を失ったかのように、しばし押し黙ることしかできなかった。

「どうして、日番谷くんと乱菊さんだけが、こんなことに……」
しばらくして沈黙を破ったのは、雛森の涙声だった。
「一体、どうしたら目を覚ますんですか?」
その悲痛な声音に、その場にいたほとんど全員が、視線を伏せた。

「夢から戻ってくる者もいるし、そのまま眠り続けた者もいる。ただ、目覚めた者は、その夢のことは全く覚えていない。
そのため、何が目覚める『鍵』なのかは、この私でも分からんネ」
「……そんな」
雛森は、くず折れるように、日番谷のベッド脇に膝をついた。


―― 日番谷隊長……
ポツリ、ポツリ、と枕元が涙で濡れるのを見て、吉良は心中、日番谷に呼びかけた。
―― 貴方の大切な人が泣いていますよ。なにも、しないんですか……
軽く閉じられた瞼の奥の強い翡翠が、見えない。
とてつもなく厚い壁に隔てられているように、日番谷は睫すら動かさなかった。

「私も、『渡』の話は、耳にしたことがあります」
卯ノ花が、雛森の肩に、スッと手を置いて言った。
いつも穏やかな口調の彼女だが、今はその声音にも暗い影が見える。
「『渡』の夢には、現実に満足している者は取り込まれない、と。
現実に苦しみ、できることなら逃れたいと強く願う者だけが、『渡』の紡ぐ夢に堕ちるのだと」
「そ、そんな」
とっさにつぶやいた吉良に、皆の視線が集中した。

―― そんな……
あの二人が、心の底で逃げたいと思っていたなんて。
「あの二人に限って、それはない」と思っていた吉良には、それは信じられないことだった。
卯ノ花がそっと指を伸ばし、日番谷の前髪を梳いた。
「お辛かったんですね」
もちろん、日番谷は無言である。
しかしその沈黙が、これ以上ない「肯定」を意味しているような気がして。
「日番谷くん……」
雛森の瞳から、どっと涙がこぼれ落ちた。


「……信じましょう、ふたりを」
嗚咽が響く中、卯ノ花はどこか寂しげな笑みを浮かべた。
「二人なら、例えどれほど辛くても。きっと現実を……私達を、見捨てたりはしないはずです」