その夜は、叩きつけるような雨が降り注いでいた。
時折、雷光に照らされ、雨に打ち叩かれる大地が目の当たりになる。
それがなければ、闇の中にたゆたっているような……
そんな気持ちにすらなる、濃度の濃い闇が辺りには広がっていた。
乱菊は、雷光の中に照らされる死覇装の背中を頼りに、必死に歩む。

「……松本」
振り返ったのは、十番隊の上官。
十番隊に入隊したばかりの自分の面倒を見てくれている、第九席、陣内だ。
「ここで待ってろ。それか先に瀞霊廷に戻っててもいいんだぞ」
ぶん、と乱菊は一度、首を振って返した。
「まだ席もない新米だって、護廷十三隊の死神です。それにあたし、こんな闇には慣れてるんです。一緒に行かせてください」
「確かに。この場では、お前が一番平気そうだな。さすが流魂街の出身だけある」
その言い方に、皮肉の色はない。
闇に戻った視界では見えないが、陣内が苦笑したのがわかった。

貴族出身の死神は、どうしてもこういう劣悪な環境には抵抗力がない。
しかし流魂街の中でも治安の悪い地域に育った乱菊にとっては、この程度は日常だった。
轟く雷鳴。鳴動する大地。
ビリビリと体に響くそれが、自然現象によるものか……
この先に潜む、強大な気配によるものかは、もう分からない。


「……たく。見回りに出ておいて、こんな霊圧ほっとくわけにもいかないな」
「ただし深入りは禁物だ。気づかれぬように、霊圧は確実に消しておけ」
先輩の死神たちが、言葉を交わすのが途切れ途切れに聞こえてきた。
十番隊第九班、総勢十名あまり。並みの敵なら、この人数がいれば相手にはならない。
しかし、今感じている霊圧は……底冷えがするような得体の知れなさを醸し出していた。

―― 一体、何なの?
こんな霊圧を、乱菊は知らない。
この気配の元を確かめて、一刻も早く瀞霊廷に戻り、副隊長に報告すること。
それができなければ、温かい布団も遠そうだ。

「ッぎゃあぁ!!」
唐突に、闇夜を男の悲鳴が貫いた。
なりふり構わぬ、恐怖と苦痛に支配された断末魔に、その場の全員が同時に伏せる。
「待ってくれ、俺達で一体何をしようと……」
―― 誰?
乱菊は、その場に伏せたまま、前方をうかがう。
しかし、闇に加えて、茂みの向こうになっていて全く様子は見て取れない。
それにしても……今の悲鳴。
どこかで聞き覚えがある。そう思った瞬間、怖気が背中からこみ上げてきた。
「今の声、五番隊の隊士じゃないか?」
是。乱菊は、誰かの声に心中頷いた。
その時、ひときわ高い雷鳴が轟いた。そしてそれと同時に、聞き間違えようのない声が響き渡った。

「やめてくださいっ、藍染副隊長!」

雷光が断続的に、天を渡った。
その間断なき光は、出来損ないのフィルムのように、その場の風景を映し出す。
死覇装姿の死神の体がよじれ、異常なダンスを踊るところを。
その口から何かが大量に吹き出し……顔を、全身を覆ってゆくところを。

「助け……」
その現実味がない風景が、確かに起こっているという証明のように。無様なまでの悲鳴が木霊する。
乱菊はその声に、思わず手を伸ばす……が、その手の先で、死神の姿はフッと消えた。
音もなく、体を失った空の死覇装が空気にふくらみ……布だけが地面に落ちた。

「あぁ、また実験は失敗だよ。やはり死神を虚化するのは生半な手段じゃできないな」
この声!
それが藍染に違いないと確信すると同時に、乱菊の脳裏によぎったのは、銀髪の幼馴染。
藍染の直ぐ下、第三席の場に付いた市丸ギンのことだった。

「松本! 直ぐ瀞霊廷に戻れ!」
ガッ、と陣内に肩を掴まれた。
「死神の虚化など……何をたくらんでいるかは知らんが、絶対の禁忌だ! お前は直ぐ……」
「それに、残念なことだな。観客は僕らだけじゃなかったようだよ」
「……!」
その藍染の声に、その場の全員が斬魂刀に手をやった。

「そうみたいやなァ。どうします?」
続けて響いた声に、乱菊は思わず、斬魂刀の柄から手を離した。
「仕方ないね。この場を見られて、瀞霊廷に戻られては困るんだ」
そんな……嫌だ。
こんなのは、嫌だ。
ゆっくりと、こちらに歩み寄ってくる足音。
その、少し引きずるような足音だけで、その主が誰か、乱菊にはわかってしまうのだ。
「じゃ、殺しとくわ」
全く邪気のない、サラリとした声。

「松本、行けっ!」
陣内と同時に、他の十番隊士たちも立ち上がる。
歩み寄ってきた少年の顔が、闇夜に浮かび上がる……
その表情は、全身から放たれる蛇のような殺気とは裏腹に、意外なものを見た子供のようだった。
「……乱菊?」
その細い目が見開かれ、わずかに朱の瞳が覗く。
茂みの奥で伏せた、乱菊と視線がぶつかる。

「……ギン! やめて!」
乱菊を認めたギンの瞳が、ゆっくりと弓形にゆがめられた。
笑っている……まるで、瀞霊廷内でばったり、乱菊と会ったように。
ただ違うのは、斬魂刀「神鎗」を抜き放っているということ。
「相手は藍染副隊長、市丸三席の二人だけだ、数なら我々が勝る!捕縛せよ!」
陣内の声に、乱菊は首を振りながら後ずさった。
―― 違う……違うのよ、この二人は……
「あァ、アカン」
乱菊の心を代弁するかのように、ギンが笑みを含んだ声で言い放つ。
「アカンわ。アンタらが、ここから生きて帰れるはずが、あらへん」

 
***


……それから、どれくらいの時が流れただろうか。
ふわり、と柔らかいものの上に、体が降ろされた。
ふっ、と目を開けると、白いシーツが目に映った。
―― あぁ、帰ってきたの……?
ぐったりと脱力した乱菊の上に、掛け布団がそっ、とかけられた。
そのままの体勢のまま、乱菊は顔を正面に戻す。
すると、布団の脇で胡坐をかき、こちらに身を乗り出した市丸と目が合った。
「……!」
途端に、全てを思い出す。

視界に映った市丸は、闇の中で出会った時と同じように、少し困った顔でそこにいた。
「十番隊の、みんなは……」
喉の奥から押し出した声は、驚くほどかすれていた。
聞かなくても、分かっている。
市丸の全身から発せられている、血の香りの意味くらい分かっている。

「ええか、乱菊」
振ってきた市丸の声は、優しかった。
「お前は、あの場にはおらんかった。熱出して、一日寝とったんや。ええな」
そのまま立ち上がろうとした市丸の袖を、乱菊の手が捕まえる。
決して強い力はないのに、市丸はぴたりと動きを止めた。

「……同情なら要らないわよ」
力はこもっていなくても、底冷えのする殺気を市丸に向ける。
「あたしは十番隊の死神よ。仲間を殺されて、黙ってると思うの?」
上半身を起こし、真っ向からギンをにらみつけた。
「黙っていて欲しいなら……あたしを『殺しなさい』」

 

息詰るような沈黙が、その場を支配する。
「……嫌や」
燃えるような乱菊の瞳の前に、しばらく黙っていた市丸が、ぽつりとつぶやいた。
まるで、子供のように首を振る。そして、乱菊の手を振り払おうとした。
「嫌……嫌ってなによ!」
乱菊は、その袖を衝動的に掴み、引き寄せた。
市丸は抵抗も見せずに身を退き、力が入らない乱菊の体は、ギンの胸に崩れ落ちた。

「何なのよ、アンタは……」
決して抵抗はしない、手荒く扱うわけでもない。
しかしその両手は、決して乱菊の背中に回されることもない。
「抱いてもくれないくせに! 突き放してもくれないくせに!! 中途半端なことはやめて!」
ギンのことが憎い。憎くて、憎くてたまらない。
そして、ギンを思うたび、悲しくて……胸が張り裂けそうになる。

「……出て行って」
ここから。
あたしの心から。

 


市丸は、しばらく微動だにしなかった。
その男にしては細い指が、つい、と乱菊の額に伸ばされる。
額に張りついた髪を、ゆっくりと横に寄せた。
ためらいがちに、その顔が額に寄せられ……
びくり、と乱菊が体を強張らせた時、市丸は相反する磁力に跳ね返されたかのように、身を退いた。
そのまま、乱菊を優しく自分から引き離すと、スルリと立ち上がる。


「……お休み」
振り返らない。
その長身が、滑るように障子の隙間から闇に解けてゆく。
「……」
乱菊は、冷水を浴びせられたかのように、しばらくそのまま動けずにいた。
やがて、布団の上に突っ伏し……空虚な気持ちを一人、抱きしめる。

ねぇ。どこへ行くの。どこへ行くのよ。

そんなひとことさえ言わせてくれない、非道い男。
あんな男に、あたしの本心を告げることは無い。決して無い。
でも……それを思うたび、あたしは、壊れてゆくんだ。

 

***

 

目を開けた時、一番初めに目に入ったのは白い布地だった。
一瞬、同じ夢の中にまだいるのだと思ったが、その先に広がる景色が、乱菊を我に返らせた。
「……」
無言で、長椅子の上で上半身を起こす。
初めに見やった隊首席は、無人だった。
部屋の中に燈はないが、開け放たれた窓から差し込んでくる夕日に照らされ、明るかった。
不意に、ポツン、と死覇装の膝に何かが落ちる。それが涙だと気づいた乱菊は、無言で目をこすった。

窓の外からは、様々な声が聞こえてくる。
稽古中なのか、竹刀で打ち合う音。話し声、笑い声。
門を開ける、ぎぃ……という物音。
いつもどおりの黄昏だった。乱菊のいる場所だけが、深海のように取り残されていた。
ここは静寂、そのものだった。

隊長に会いたい。ふとした空白に、乱菊はそう思う。
乱菊がただ一人、絶対の服従を誓った、あの少年に。
もしも、乱菊が打ち明けたら、あの翡翠の瞳は、どんな彩(いろ)に変わるだろう。
藍染と市丸の裏切りの証拠を、自分が百年も昔から握っていて、その上で黙っていたと知れば。
それでも、何事もなかったかのように。
―― 松本。
あの少年にしては低い声で、自分を呼んでくれるだろうか。

……そうに違いないわ。
乱菊は、そう思う。
乱菊一人の弱さや危うさを受け止めるくらいの器は、持っている少年だから。
だから、そんなときふと思うのだ。
もしも、幼い頃の乱菊が出会ったのが、市丸でなく日番谷であったなら。
自分は、どんな人生を歩んでいたのだろうと。
少なくとも、今のような心の危うさを、抱えずにすんだはずだと思う。


たん、たん。
廊下を歩いてくる、軽い足音が聞こえる。
深海に沈んだこの部屋の扉を開けに、日番谷冬獅郎がやってくる。
「おかえりなさい、隊長」
扉が開くと同時に、乱菊は立ち上がり、扉に歩み寄ろうとして……
固まった。

 

「何で泣いてるん?」
乱菊は、その場に立ち尽くしたまま、しばらくリアクションを取れずにいた。
あらゆるシチュエーションの中でも、最もありえないと思える男が、そこにはいた。
「なんや、お前に隊長って呼ばれるなんて、どういう風の吹き回しや。じゃぁこっちも呼んだるわ。『松本副隊長』」
「はぃ!?」
力いっぱい、乱菊は聞き返した。
「市丸ギン! あんた、十番隊舎で何やってんのよ! 日番谷隊長はっ!?」
「日番谷? 誰やそれ。このボク以外に、十番隊隊長がおると思うん?」

「……へ?」
乱菊は、言葉も失ってまじまじとギンを見た。
見ると、市丸も同じように乱菊を凝視している。
乱菊は、無言で右手を、横に払った。
「は? 何やねん」
「いいから。後ろ向いて、後ろ」
不服そうに口を尖らせながら、ギンが乱菊に背中を見せた。
そして……その背中の隊首羽織に刻まれていた数字に、一瞬眩暈を起こしそうになる。
―― 十。
何度見直しても、見間違えようもない、その数字。

「あんた! 脱ぎなさい、その羽織! 汚らわしいっ!」
「け……汚らわしいって何やねん、失礼な!」
「十」は乱菊にとって、日番谷にだけ許される数字である。
それが、こんな奴に背負われるなんて我慢ならなかった。
ふてくされた顔をした市丸から隊首羽織を引き剥がそうとして、乱菊はふと動きを止める。

「……なんだ、夢か」
ぽんと手を打った。
冷静に考えれば、こいつが十番隊隊長だなんて、天地がひっくり返ってもありえない。
それ以前に、虚圏に去ったこいつが精霊廷にいるわけがないではないか。

「オイ! そんなことより、日番谷って誰や! ボクを差し置いて!」
夢の分際で、態度がでかいわね。
「分かった、分かった。アンタは十番隊の隊長っていう設定なのね。そしてあたしは副隊長」
「設定って何やねん。それ以外にあるか!?脳ミソに何か湧いてもたんか?」
ふーん、あたしが副隊長って設定は有効なのね。
夢に悪口言われても、言い返す気にもならない。

「ンなことより、日番谷って誰や!」
しつこい!
「日番谷隊長はねー……」
あたしは、隊首机の上に、煉瓦のような分厚さで積みあがった書類を、うんざりして眺めた。
「アンタの十倍は頭が良くて、百倍は仕事が早くて、千倍はまともな隊長よ!」
夢は見る人の願望を表すというが、絶対に嘘だ。
市丸ギン・十番隊隊長。松本乱菊・十番隊副隊長。
仕事が回るはずがないではないか。


夢になんか興味はない。
乱菊はギンを無視して、隊首室を出ようと立ち上がった。
外の空気を吸いでもしたら、夢から覚めるかもしれない。
「夢とはいえ、あんた。ちゃんと働きなさいよ」
すれ違いざまにそういい残し、廊下に出ようとした。
その時。
市丸の手が、さっと動いた。
乱菊の視線が追いつく前に、乱菊が肩にかけていた桃色のショールが、するっと抜き取られる。
空中に投げ出されたそれが、風に膨らみ、ゆるやかに床に落ちた。

ズキン、と胸が確信じみた予感に痛む。
顔を上げたとき、市丸の真紅の瞳と至近距離でぶつかった。
その瞳が、弓形に細められる。
乱菊は、本能的に背後に下がろうとした。
しかし、その背中に、温かく大きなものが添えられ、乱菊の動きを止める。
それが市丸の掌だ、と気づくより前に、迷いのない力で思い切り引き寄せられた。

「……ンッ!」
市丸の二の腕を、乱菊の指が掴む。
弓なりにしなった背中を、市丸の大きな掌が撫で上げた。
こんな感覚、知らない。
ただ、ゾクリと全身が粟立った。
柔らかいものが唇に押し当てられ……乱菊は、やっと事態を理解した。

「なに……すんのよ!」
顔を背け、唇を市丸から引き離す。
そして、力の限り市丸の体を突き飛ばした。
自由になった乱菊が、背後に下がろうとしたとき、ヒラリと舞った腰帯の端を市丸が掴んだ。

「……」
乱菊がぴたりと動きを止め、市丸を睨み付けた。
抱き寄せられ、唇を奪われたからといって、それだけで動揺するほど初心(うぶ)じゃない。
―― これは……夢? 
乱菊はつかの間、目の前の市丸を凝視したまま、逡巡した。
それ以外にありえない。
でも……そう思う心とは裏腹に、胸は烈しく高鳴っていた。
乱菊に触れた瞬間、かすかに震えていた市丸を、感じ取ってしまったからかもしれない。

睨み返した乱菊が目にした市丸の表情は、見慣れないものだった。
「なんやの? ボクのこと、もう飽きてもた……?」
乱菊の帯を掴んで引き止めたものの、中途半端に止まった手。
途方にくれた表情。

―― なに? この倦怠期の夫婦みたいな会話……
乱菊は、ゆっくりと市丸の傍に歩み寄った。
「あたたた、あいた! なんでいきなり頬っぺた抓るねん!」
「……いや、やっぱり夢だろと思って」
「アホか、自分を抓れ! ていうか、お前まだ寝ぼけてるんか?」

乱菊は、傷んできたこめかみを押さえた。
―― アッタマ痛いわ、もぅ……
軽はずみで、ニヤニヤしていて、掴みどころがない。
人のことなんてどうでもいいような顔をするくせに、スルッと人の心の隙間に侵入してくる。
どこから見ても、この世でただ一人、乱菊に頭痛を起こさせる男「市丸ギン」に違いなかった。
今だって真面目なのかふざけているのか、さっぱり分からない。

一瞬の空白の間に、市丸が歩み寄った。
その表情に、さっきまで浮かんでいた笑みはない。
乱菊を圧倒する長身に、たじろぐ。
ズキン、とまた胸の奥が痛んだ。

「そこにおって」

乱菊が思わず下がろうとしたとき、市丸の声が降ってきた。
―― 違う。
こんなのは、市丸の言葉じゃない。
それはいつも、乱菊が市丸に伝えたかった言葉だ。
スッ、と伸ばされた市丸の指が、乱菊の小麦色の髪を撫でる。

「ギン」
ギンの姿が、もう見えない。
あまりに、近すぎるから。
二人の耳が触れ合い、柔らかな銀髪が頬をくすぐる。
「乱菊。愛しとるよ」
「……」
乱菊は、目を見開いた。切ない気持ちが、胸の奥からせりあがってくる。

こんな風に、こんな形で。
心の奥底にひた隠しにしていた願望を、剥き出しにされるなんて。
―― 夢でまで残酷な男ね、アンタ。
押し返そうとしても、次から次からこみ上げてくる思いの波に、乱菊はひとつ、喘いだ。
自分の願望が生みだす幻の中での、一人芝居だということは分かっている。
それでも。

「どこにも行けや、しないわよ……」

波に、飲み込まれてゆく。その流れに抗えない。
どうせ、観客は乱菊だけなのだから。心のままに振舞っても、誰も見ちゃいない。
もう躊躇わず、乱菊はその背中に腕を回した。
かすかに、香の薫りがした。