二週間後。乱菊は、瀞霊廷の大通りを歩いていた。
その足取りは軽い。なぜなら、今は金曜日の夕方。仕事収めをした直後だからだ。
「お疲れ様です、松本副隊長!」
「はーい、おつかれー」
すれ違った死神たちに返す言葉に、暗い影は全くない。
ピリリ……と懐から音が鳴り、乱菊は伝令神機を引っ張り出した。
「はーい、もしもし。あ、京楽隊長? え? もう呑み始めてる? いくらなんでも早くないですか?
まぁいいや、あたしももうすぐ合流します。はいはい。それじゃあ」
パシッ、と音を立てて伝令神機を閉じ、また懐にしまった。


「仕事収めの酒は、やっぱりサイコーよね!」
例え、ほとんど働いていなかったとしても。
ただ、その必要も特にない、と思う。
なにしろ平和なのだ。瀞霊廷は、ここ百年以上にわたり、太平の世を謳歌している。
適当に働いて、仕事の後は馴染の死神と酒を酌み交わす。
そんな生活を、いつからとも分からないずっと昔から、続けてきたような気がする。
そしてそんな日々は、これからも続いてゆくのだろう。

「あ、そーだ」
乱菊は、少し視線を宙に泳がせた。
彼女の上官、そして恋人でもある市丸ギンの姿が、脳裏に浮かんでいた。
これからの飲みの席に、隊首会の後に合流すると言っていた筈。
「アイツ、甘いものを肴に酒飲むの好きだからな。何か買っといてやるか」
乱菊には信じられないが、市丸は饅頭や団子と一緒に酒を飲むのが好きなのだ。
しかし、ある意味しょうがないと思うが、飲み屋にはそんな甘いものはあまり置いてない。
前にそれでブーブー文句を言っていたのを思い出していた。


うーん、と伸びをしつつ、乱菊は流魂街に足を踏み出した。
流魂街に食べ物屋の数は少なく、味は瀞霊廷の方が段違いに上なのだが一箇所だけ。
乱菊も市丸も唸るほどの、うまい甘味処があるのだ。
「おじさーん! 甘納豆ちょうだい!!」
店先に立ち、そう呼びかけたときだった。
その大声に振り返った一人の少年に、乱菊の視線は吸い寄せられる。

「あの子……」
粗末な着物に身を包み、素足に草履を履いた、典型的な流魂街の子供達が5・6人たむろしている。
その中の一人……銀髪の少年を見て、乱菊は思わず、声を上げた。
「日番谷隊長……!」
その隣にいる黒髪の少女は、雛森桃に違いない。
乱菊の視線に、日番谷も気づき、視線を合わせてきた。
「おい、シロー。これ食っちまうぞ!」
「コラ! これは俺のだ!」
しかしその視線は、駄菓子を取ろうとしてきた少年にすぐに逸らされた。

―― そっか。
乱菊に一瞬向けた視線は、道端で偶然であった他人に向けるもの、以外のなにものでもないように思えた。
明るい表情で何かしゃべっている日番谷の姿は、普通の子供にしか見えない。
―― あたしのことなんて、知るはずないか……
これは、自分が見ている、いつ終わるとも知れない「ユメ」なのだ。

確かに、これもあたしの望みかもしれない、と乱菊は思い起こす。
雛森の裏切りに傷つき、もがき苦しみながらも、独りで耐えている背中を見て思ったのだ。
この状態を招いたのは、死神にならないかと強引に誘った、自分の責任でもあると。
持って生まれた霊圧が、死神になるのを不可避とするなら、いっそ。
霊圧など持たぬ普通の子供でいてくれればよかったと、思ったこともある。
―― これでいい。
ちょっと、さびしいけれど。


―― 「ヒツガヤ、トウシロウ君っていうの?」
その時、不意に頭によみがえってきたのは、細い少女の声。
もう遠い遠い昔のことに思えるが、「現実」で不思議な少女に会った時のことだ。
その声を聞いて、自分は言い知れぬ焦燥を感じたのだった、が。
「なんだった、かしら……」
なんで自分はあの時、あんなに必死だったんだろう。なんのために?
思い出せない。
深く考えようとすると、逃げ水のように遠ざかってしまうのだ。


「ま、いっか」
乱菊は、あっさりと取り留めのない考えを振り払った。そして、日番谷たちのほうを見る。
「おーい、アンタ達!」
乱菊は、穏やかな気持ちで、日番谷たちに声をかける。
「早くおうち帰んなさいよ!」
祖母が、待っているのだろう。
日番谷は、そんな乱菊を見やる。その口が、への字にゆがめられた。
「うっせーよ、ババア!」
「!」
乱菊がその場に固まる。
口、悪いのは変化なし?

「コラ!」
乱菊が何かを言うよりも先に、雛森が日番谷の頭を小突いた。
「死神さんに、そんな口の利き方したらダメじゃない! 本当にすみません!」
後半の言葉は乱菊に向けられた。
そして、無理やり日番谷の頭に手をやり、頭を下げさせようとしている。
「いーわよ。何か声がしたような気がしたけど、姿が見えないわね。小さすぎて」
「!」
日番谷の顔がビシッ、と固まる。

 

「おーい。乱菊―? 何しとるんや?」
その時、背後から聞こえた声に、乱菊は振り返った。
「あら? ギン?」
「おー。隊首会早く終わったからな。お前の霊圧感じて追ってきたんや。何やっとん?」
長身の姿が、ゆっくりと歩み寄ってくるのを見た乱菊の表情が和らいだ。

「甘納豆買おうと思って。それだけよ」
市丸と話しながら、ちらり、と日番谷を横目で見る。
日番谷は、何人もの友人達に囲まれ、笑っていた。
これほど無邪気な笑い方ができるとは……夢にも思わなかった。
―― 良かったわね。どうか……ずっと、このままで。
乱菊は、心の中で日番谷に呼びかける。


「行くで、乱菊。みんなが待ってる」
「えぇ」
さよなら。
その場から、すっきりした気持ちで背を向ける。
並んで歩く二人の背中が、瀞霊廷に消えていったころ。
「どうしたの? シロちゃん?」
「いや、何でもねぇ」
日番谷は、二人を見送っていた視線を、雛森に戻した。
そして、誰にも聞こえないような小さな声で、つぶやいた。

「……良かったな。松本」