日番谷と乱菊が目覚めなくなってから、はや一ヶ月が経過していた。
雪の朝だった。
地面には膝くらいまでの雪が積もり、行き交う死神たちの足取りも、自然とゆっくりになる。

「吉良副隊長! おはようございます」
四番隊舎の軒先で雪を払い落としていた人影を見て、女性隊士が声をかける。
「……あぁ。雛森君は、今日も?」
病室のほうを指差すと、雛森と年もそう変わらないと思われるその隊士は、暗い表情で頷いた。
「せめて気晴らしができると、良いのですけど……」


階段を上がる吉良の足取りは、重い。
病室をノックしたが、返事がなかった。
「雛森君……入るよ」
そっ、と声をかけ、なるべく音がしないように、引き戸を開けた。

吉良の視界に飛び込んできたのは、こちらに背を向けた雛森の背中だった。
吉良が入ってきたのに気づいているのかいないのか、足音にも微動だにしない。
窓際のベッドに横たわる日番谷を、じっ……と見下ろしていた。

「雛森君」
雛森の直ぐ後ろまで近づいても、雛森は反応しなかった。
いたたまれなくなり、吉良はその肩に手を置く。骨の感触を直に感じ、慄然とする。

「吉良……くん?」
振り向いた雛森の視線は、吉良を通り抜けた。
その瞳は、冥(くら)い穴のように空(うつ)ろだ。
「今朝、山本総隊長のご決断で、決まったことがあるんだ」
吉良は、なるべく平静に聞こえるような声で言うと、懐に入れてきた紙を、雛森の前に置いた。

「五番隊、十番隊の二隊を廃し、他の隊に均等に隊士を割り振ることになったよ。
護廷十三隊じゃなくて、これからは護廷十一隊と呼ばれるようになるはずだ」
「……え?」
雛森の目が、わずかに見開かれた。
「もう、いいんだ。君も、日番谷隊長も、松本さんも。皆、解放されたんだよ」


眠りについて、一ヶ月。
日番谷と乱菊は、どれほど四番隊が手を尽くしても、全く目覚める兆しはない。
つながれた点滴だけで命をつないでいる、植物状態が続いていた。

―― 仕方ないのじゃ。
苦渋の選択を下した山本総隊長は、居並ぶ隊長・副隊長の前で、頭を垂れた。
―― 今は戦時中じゃ。いつ目覚めるかも知れぬ者達を、これ以上幹部に据えることは……状況が赦さぬ。

破面が、今この瞬間に攻めてきてもおかしくない状況なのだ。
そう述べた山本総隊長の表情が、他の誰よりも沈痛なものだったから……
誰も、それに反対することはできなかった。
そして、同時に出された五番隊の解体にも、異論は一切出なかったのだ。
その理由は、今の雛森を見れば一目瞭然だった。


吉良が雛森の肩を掴んだ手に、力を込めた時だった。
バシッ!!
音を立てて、雛森が吉良の手を、振り払った。

「何……言ってるのよ」
雛森は反射的に立ち上がり、吉良と対峙した。
そして、眠り続ける日番谷を見下ろす。
「ちょっとずつ良くなってるのよ? 体だって温かいし、いつかはきっと――」
「雛森君……!」
吉良は、卯ノ花から聞いて知っている。
「良くなっている」兆しなど、どこにもないと。
吉良が無言で首を振ると、雛森の目が泣きそうに歪む。

「……てよ……」
かすれた声が、雛森の口から漏れた。
「え?」
吉良が聞き返そうとしたとき、雛森は発作的に日番谷のベッドの上に覆いかぶさった。
「起きて! 起きてよ!! ねぇ、本当はもう起きてるんでしょ!? 日番谷くんっ!!」
「やめるんだ!!」
日番谷の肩を両手で掴み、乱暴に揺り動かした雛森を、吉良は必死になって止めた。

「ダメだ、点滴が抜ける!!」
上半身が浮き上がるほどに強く揺さぶられても、日番谷の表情は変わらない。
心なしか細くなったように見える腕が、完全に力をなくして揺れる。本物の……死体のように。


「どうしました!」
騒動に気づいた看護婦が、部屋に駆け込むと……二人を見て、短い悲鳴を上げる。
「ち……鎮静剤を! 早く!!」
気が違ったように振り解こうともがく雛森を押さえ、吉良は必死で叫んだ。
「嫌! 嫌なの! 助けて……誰か助けて! 日番谷君……!!」
注射を打たれる間も、雛森の叫びが鼓膜を打つ。
ぐっ、と吉良が拳を握り締めた。

「日番谷隊長は、もうここには居ないんだッ!」

気づけば、叫んでいた。
しーん、とその場が静まり返る。
見下ろすと、瘧(おこり)にかかったかのように、震える雛森の体があった。


「あたしが……悪かったの」
「雛森君! しっかりしてくれ……」
祈るような気持ちで、吉良は雛森の肩を掴んだ。
「あたしが悪いの。日番谷君に刀を向けたから……あたしが傷つけたの!
ねぇ、あたしはどうやったら償えるの? どうしたらいいの? 教えてよ……」

吉良の両腕を握った雛森の手から、力が抜けてゆく。
「お願い。せめてあたしに……謝らせて」
やがて、その体からぐったりと、力が抜けた。


「……吉良副隊長」
看護婦が、雛森を抱き上げた吉良を見て、声を上げる。
吉良は無言で、日番谷の隣に雛森を横たえると、乱れた布団をふたりの上にかけてやった。
「どうか……夢でくらい、日番谷隊長に会えるように」
やつれた二人の顔を見下ろし、吉良はつぶやいた。


―― 雛森君。君は……
助けてくれと、日番谷の名を呼んだ声が、生々しく鼓膜によみがえった。
藍染ではなく、吉良でもなく、日番谷を呼ぶのか。
何のことはない。それが「全て」ではないか。
吉良は空(うつ)ろに、わらった。

藍染を失っても、まだ正気を保てた雛森。五番隊を率いることができた雛森。
しかし……日番谷を失って、彼女の土台は崩れ落ちた。
副隊長としての業務はもちろんのこと、自分自身のすべてを、彼女は放棄したのだ。
一日中、この病室で日番谷の隣に座り続ける雛森を、誰もどうすることもできなかった。


看護婦が出て行っても、吉良はその場から動けずに居た。
目の前には、眠り続ける日番谷と雛森。
振り返っても、瞼を閉ざしたままの乱菊がいる。

すぅ、すぅ。

眠り続ける三人分の寝息が、引きあう。すぅすぅ。
それ以外の音は、何も聞こえない。すぅすぅすぅ。
「あ……」

すぅすぅすぅすぅ。

「止めてくれ……」
吉良は両手を耳元にやると、かきむしった。
―― 狂ってしまう。狂ってしまうよ……
「あぁぁぁ!!」
寝息が聞こえないよう声をあげ、血走った目を外に向けた、その時だった。
吉良は、見るはずのない景色を見た。


窓から見える、白一色の景色。
その中に、一人の少女が立っていた。
雪降りしきる中だというのに、薄く蒼いドレスを身にまとっている。
ネグリジェにも似たそのドレスの胸下には、同じく蒼い幅広のリボンを巻きつけている。
それを見た瞬間、吉良は一瞬、自分が本当に狂ってしまったのかと思った。

それほど……少女の姿は、どこか「異質」だった。
風が吹いているのに、その黒髪はそよとも揺れない。
少女の頭に舞い降りた、雪が。その少女の体を「すり抜け」、地面に落ちた。

「!! 君は……!」
蒼く大きな瞳が、まっすぐに吉良のほうを見つめている。
吉良と目が合うと、少女はふっと身を翻した。


「待ってくれ!!」
吉良は、気がつけば必死で叫んでいた。
そのまま窓枠を蹴り、外へと飛び出す。

「き……吉良副隊長?」
いきなり3階の窓から飛び降りてきた吉良に、周りの死神がぎょっとして声を上げた。
「今! 子供を見なかったか! 黒髪で、蒼い服を着た……」
焦りを露にした吉良に、死神たちの顔色を見ている余裕はない。

めまぐるしく辺りを見回した吉良は、通りの向こうに走ってゆく少女の影を見た。
さっきの少女ではない。白い短い髪。しかし、翠(みどり)のドレスの形は良く似ている。
その足は……雪の上に、足跡を残していない。
「待て……!」
吉良は死神たちを突きのけ、駆け出した。


「……おい。吉良副隊長が今言った子供なんか、いたか・・?」
「いや、何も俺には……」
残された死神たちは首を振り合い、幽霊でも見たかのように、吉良の背中に目をやった。


渡(ワタリ)。
死神ですら把握できない一族。
現実からユメに逃げ込みたいと思う者しか、見ることができないという一族。

今の自分なら見る資格はある、と吉良は息を切らせ、走りながら思った。
危険だ、などとは考える余裕もなかった。
雛森を救いたいのだ。
そのためには、日番谷を夢から連れ戻さなければならない。
そして日番谷が自力で目覚められぬなら……彼を眠りへ誘った者に頼むしかない。


「待ってくれ! 頼む!」
走っても走っても、自分の半分の背丈もない少女との距離は縮まらない。
ただ、角を曲がるたび、ちらり、とどちらかの少女の着物や、髪が垣間見えた。
まるで……誘っているように。


どれくらい走ったのか、もう判らなかった。
雪まみれのまま、吉良は立ち止まる。
袋小路の先に……少女が二人、並んで立っていた。
長い黒髪、短い白髪。蒼い瞳、翠の瞳。
色彩は似ていないが、その顔かたちは、双子のようによく似ている。
そして、二人の足元は雪に沈んでおらず、わずかに差し込んだ日の光も、二人の下に影をつくってはいなかった。


「日番谷隊長と松本さんを夢に連れ込んだのは、君たちなのか!」
「そうだよ」
返したのは切羽。
食って掛からんばかりの吉良の剣幕にも全く怯えることなく、ただ立っている。
「なんてことをしたんだ、君たちは!」
「どうして? 二人とも、幸せそうなのに」
空子が、全く吉良の言っていることが判らない、という声音で、軽く首を振った。

吉良は、大股で二人に歩み寄った。
「そんな訳ない……あの二人に限って、そんなことは有り得ない! どうしたら二人は目覚めるんだ!」
「カンタンだよ」
切羽はこともなげに言った。
「ユメを見てる人が、目を覚ましたいと心から望めばいいんだよ」
「そんなことなら、あの二人はもう、とっくに思ってるはずだろう!」
吉良の問いに、切羽は首を振る。

「あたしたちは、ユメにいたくないヒトを無理やり閉じ込めるようなことはしないよ」
「それは嘘だ!」
「二人に会ってみる? ユメの中で」
「できる……のか」
「えぇ」
「できるよ」

畳み掛けるように、切羽と空子が交互に語りかける。
「行くさ」
即座に、吉良は答えた。
「無駄だと思うけど」
無機質な声で、空子がつぶやく。
そして吉良が気づいたときには、その姿は吉良の目の前にあった。
その数メートルあった距離をどうやって詰めたものか、吉良には全く見えなかった。


空子は無表情のまま、吉良の額に、トン、と軽く指を置いた。
途端。
吉良の意識がゆらり、と揺れた。
遠のく意識の中で、切羽の声が切れ切れに届いた。
「君、頼りなさそうだから、ひとつヒントをあげる。『ユメを見ていないヒト』を、探しなよ」

 
***


「吉良副隊長! どこですか!」
その通りに死神たちの声が響いたのは、それから約5分後のことだった。
「ねぇちょっと、どうしたのよ?」
「いや、吉良副隊長が、訳のわからないこと言って走っていったから。もしかして、また……」
「縁起の悪いこと言わないでよ!」
声が、近づいてくる。

「確か、こっちに……」
複数の足音が、袋小路に響き渡った。
「なんだ、行き止まりじゃ……」
「きゃぁぁぁ!!」
ため息をついた死神の後ろに、悲鳴が重なった。
降り積もる雪に、半ばうずもれるように倒れていたのは……
「吉良副隊長っ!!」
鈍色(にびいろ)の空に、叫びが吸い込まれた。