「ぃっ、おぃっ!!」
誰かが、吉良の肩をゆすっている。
痛いほどの力だ。

―― 誰だ……
意識が急浮上する。
吉良は、ゆっくりと薄目を開け、自分が雪の中に倒れていることに気づいた。
―― そうか。僕は、二人の不思議な女の子に会って……

「吉良!」

ハッ、と吉良は目を見開いた。
ガバッ、とその場から身を起こす。
慌てて周りを見回すが、さきほどと変わらない袋小路が見て取れ、吉良はため息をついた。
―― 日番谷隊長や松本さんがいる世界には、行けなかったか……

 

「おい!」
いきなり背後から頭を叩かれ、吉良は前につんのめった。
「あ、阿散井くん」
そこには、長い赤髪を後ろで束ねゴーグルを額にかけた男、阿散井恋次がいた。
「阿散井くんじゃねーよ。急にこんなトコで倒れて寝てたり、急に起き上がったり、ため息ついたりしてよ。一体おめ……」
一気にそこまで言った恋次が、吉良の顔を覗き込むなり、言葉を途切らせる。

「お、おい、おめー大丈夫かよ? すげーなんか顔色悪いぞ?」
「だい……じょうぶだ」
なんだか眩暈がする。それをこらえ、吉良は立ち上がった。
しかしその後に聞こえてきた声に、心臓が跳ね上がる。


「おーい阿散井クン、イヅルおったやろ?」
この声。
この独特なイントネーション。
聞き間違える、はずがない。

―― そんな、馬鹿な……

袋小路の向こうから現れた銀髪の男は、吉良を見て肩をすくめた。
「君、三番隊副隊長の吉良イヅル君やろ? 変なトコで霊圧感じたから、阿散井クンに頼んで探してもろたんや」

「い……市丸隊長っ!! なんでこんな所に!?」

「は……はぃ?」
吉良の剣幕に、市丸がたじろぐ。慌てた恋次が、吉良の肩を掴んで引き戻した。
「それはコッチのセリフだぜ。お前こそこんなトコに何の用だ! 大体お前、市丸隊長と話してるの見たことねーのに。仲良かったっけ」
「ぜーんぜん。口聞いたことも初めてやで」


……なんだ、この齟齬(そご)は。
市丸の言葉に、初めて吉良は我に返る。
当たり前のように、不自然なストーリーが進行してゆく。
これは……
夢、だ。
吉良はそのことに思い至り、改めて辺りを見回した。
―― 二人に会ってみる?
少女のうち、白髪の一人が言葉を思い出す。
と、すると。彼女たちは約束を守ったのか。

 

「大丈夫かよ、本当におめーはよ」
恋次が、吉良の死覇装をぽんぽんと叩き、雪を払い落とした。
夢でも変わらぬ、そのぶっきらぼうだが友人思いな恋次が、なんだか懐かしかった。
「熱燗でも飲むか? 冷え切った体しやがって。京楽隊長や乱菊さんと、今から飲みに行くんだ。お前も来いよ」
「ま……松本さん?」
「ん? あぁ。乱菊さんがいるのはいっつものことだろ。どーかしたか?」
「い……いや。僕も行くよ」
吉良は動揺を押し隠し、頷いた。


ここが日番谷と乱菊が暮らしている「ユメ」だというなら。
乱菊が「現実」の世界のように、眠りについていないのは当然だろう。
―― 会って話せる……のか。
少女達の言葉によると、今の二人は「ユメから目覚めることを望んでいない」のかもしれない。
しかし、吉良は日番谷と乱菊を信じていた。
あの二人が、現実を見限り、夢に留まるなどありえないと。

「それじゃ、決まりやな。行くか」
市丸がくるりと背を向けた時、吉良は再び眩暈を感じた。
その背中に刻まれた数字は、見慣れた「三」ではなかった。
「十」。それなら、日番谷はどうなっているのだ?
「あの……日番谷、隊長は?」
「ヒツガヤ? 誰だ、それ?」
「……。いや……なんでも、ない」
「……本当に大丈夫かよ、お前?」
恋次が、今度こそ心配そうに覗き込んでくるのを見て、慌てて吉良は首を振った。


「心配性やなぁ、阿散井クンは。ちょーっと寝ぼけて、お頭(つむ)がイッてしもとるだけやろ」
「そりゃ、言いすぎですよ市丸隊長!」
ハハハ、と市丸が暢気に笑う声が聞こえた。恋次が市丸に何かを返し、自分も同じように笑い出す。

 
 
―― 平和だ……
通りを歩きながら、吉良は思わずにはいられなかった。
同じように雪が積もった精霊廷でも、現実と夢の世界では、全く人々の活気が違うのだ。
貴族の子供達が雪合戦をしているのか、歓声があちこちから響いてくる。
行き交う死神たちの声も大きく、笑い声が至る所で聞こえる。
現実の世界がどれほど沈鬱な空気に沈んでいるか、ここに来て吉良にはよくわかった。


「ちーす!遅くなりましたー!!」
飲み屋の暖簾をくぐり、恋次が大声を出した。
その後ろから市丸が、一番最後に吉良が続く。

「おーう。悪いねー、もう出来上がっちゃってるよ!」
返したのは、京楽。その向こうに、浮竹や檜佐木の姿も見える。
そして、一番奥にいた人物は……吉良たちのほうを見るが早いか、満面の笑みを浮かべた。
「来たわね!!」
酒に頬を赤らめ、酔っ払っているのが一目で分かる千鳥足で現れたのは……

「乱菊さん!」
「ギン!」
乱菊はあっさり吉良を無視すると、その前に居た市丸の胸に、どん、とぶつかった。
「おーおー、できあがっとんなぁ。ボクの胸で酔うたらえぇ」
「ひゅー、相変わらず熱いねぇ、お二人さん」
京楽が冷やかす。
「当たり前や! ボクら、いっつもラブラブや」
唖然として状況を見つめる吉良に気づくことなく、乱菊は市丸の腕を取ると、ぐいぐいと奥へ引っ張った。

「まぁ、あの二人はしょーがねぇよ。隊長副隊長の仲でそれはねーだろっていう輩もいるけどよ」
恋次が、吉良の隣で肩をすくめた。
「ソウル・ソサエティも、ここ百年以上ずっと平和なんだ。別に目くじら立てなくてもいいだろ」


ずっと、平和、か。
吉良は、改めて、宴席を見渡す。
皆……幸せそうに、笑っている。戦争の影に怯える、現実の世界とは大違いだ。
この世界にいられるならずっといたいと、僕でも思うくらいだ……
注がれた杯を、一気に飲み干す。
夢の中だと判っているのに、ほんのりと酔ってくるから不思議だ。
夢か現(うつつ)か。その境目が、酔った目に滲んで見えた。

 
*** 
 

日番谷、雛森の二人の名前は、死神の中には存在しない。
十番隊の隊長は市丸、副隊長は乱菊である。
そして、吉良は三番隊副隊長で、市丸とはほぼ面識がない。
今の状況について、それとなく話を聞いてみて分かったのは、それだけだった。

「こないだ、占いに行ってきたのよ! ギンと私で」
向かいでは、乱菊が大きな身振り手振りを交えて、大声で話しているのが聞こえる。
吉良が見る限り、夢の世界にすっかり溶け込んでいるように見える。
二人で話せればいいが、この調子だとそれは望めなさそうだった。

―― イチか、バチか……
「あ、あの!」
急に大声を出した吉良に、皆の視線が集中し、吉良はたじろいだ。
だが……現実の世界でやつれ果てている雛森のことを考えれば、退いている場合じゃない。

「占いって言えば、夢でも占いはできるみたいですね。僕、この間松本さんの夢見ましたよ」
一瞬きょとんとした乱菊だったが、興が乗ったのか、吉良のほうへ身を乗り出してきた。
「いいじゃない、あたしそういうの好きよ! 言ってみて、吉良!」
「ええ」
吉良は頷いた。
「松本さんの上官が、市丸隊長じゃないんです。同じように銀髪なんですが、蒼い目をした少年なんです。そして」
その少年の名は。
そう続けようとした時、カシャン、と音が響いた。

「おーおー乱菊、何してるんや!」
「きゃー! こぼしちゃった!」
乱菊の手から零れ落ちた杯が、彼女の死覇装に黒い染みを作ってゆく。
「手ぬぐい! 手ぬぐい!」
市丸が慣れた手つきで、乱菊の膝をぬぐった。

「酒臭なってしもて……嬉しいやろ。服からも大好きな酒の匂いするで」
「いらないわよ!」
乱菊はウンザリ、とした声音で返した。しかし、吉良ははっきりと見たのだ。
「碧い目をした少年」のところで、乱菊の表情が強張ったのを。

「松本さん……!」
しかし、身を乗り出した吉良の前で、乱菊は手を振った。
「ちょっと、外で着物拭ってくるわ」
そう言って背を向けた乱菊の背中を、吉良は追った。

 
***


乱菊は、壁に目を向け、拒絶するように吉良から背を向けていた。
「……松本さん」
吉良が、静かに問いかける。
その後姿を一目見た瞬間に、もう分かっていた。
間違いない。この「乱菊」は、幻なんかじゃない。

「皆が、待っています。……日番谷隊長は、どこにおられますか」
その問いに、乱菊はパッと首を返して振り向いた。
「隊長も……この世界にいるの?」
「貴女をこの世界に導いた、少女達の言葉を信じるなら」
「……そう」
驚愕の色に染められた乱菊の瞳が、見る見る間に苦悩の色に塗り変わってゆくのを見て、吉良は言葉を失った。

「あの少女達は僕に言いました。現実の世界に戻る方法は一つ。『元の世界に戻りたい』と、心から願うことだと」
振り返った乱菊の表情は、悲壮なほどに青ざめていた。
まるで……「現実」という踏み絵を前にして、立ちすくむ信者のように。

「できないわ。そう……思えない」

吉良は、乱菊の唇が動くのを、見守ることしかできなかった。
「な……にを」
言いたい言葉がこみ上げてくる。しかし、何一つうまく言葉にならなかった。
「正気ですか?」
口を突いて出たのは、我ながら滑稽な一言だった。


「……」
乱菊は、つかの間感情を削がれた瞳を、吉良に返した。
「……ぷっ……あはははは!!」
すぐに、弾かれたように笑い出した。
しかし、それは心から楽しそうに笑っていたさっきまでとは、明らかに別物だった。
「正気か、ですって? 正気なわけないじゃない!」
「松本……さん」

「分かる? いつもいつも、行き先も告げずに勝手にいなくなってるのに気づく気持ちが!
分かる? どれほど本気でぶつかっても、スルリと逃げられる気持ちが! 分かる!?」
「松本さん……。貴女は、誰のことを」
嘘だ。
もう、その時には吉良はわかっていた。
でも、乱菊の目尻に浮かんだ涙を見ると、もう何も言葉を継げなかった。


「アンタに分かるの? そんな男に、面と向かってサヨナラを言われたあたしの気持ちが!」
笑っているのか、泣いているのか。
乱菊は自分でも、その時には分からなくなっていた。
滑稽な一人芝居、のはずだった。
でも、ただ一人の観客を得て……その芝居はあっけなく幕を閉じてしまった。

 

「……ッ」
気づけば、笑いは尽き果てていた。
乱菊は息を整え、頬を流れる冷たい涙をぬぐった。
どれほどの時が流れただろう。
三十秒ほどに思えるが、五分も経ったようにも思える。

乱菊は、ふっ、と顔を上げた。
「……吉良?」
そこには、闇が広がるばかり。
吉良の姿は、もうどこにもなかった。

 

「おい、吉良!今度はどこ行くんだよ!」
「便所だよ……」
酔いを醒ますためか、玄関口で座り込んでいた恋次におざなりに返すと、吉良は駆け出した。

―― 日番谷隊長に会わなければ……
死神になっていないとすれば、思い当たる日番谷の居場所はひとつしかない。
流魂街第一番区、「潤林安」。
日番谷が幼少期を過ごした場所である。

学生時代、雛森に誘われて、何度か家を訪れたことがあったから、場所の見当はついていた。
もっとも、現実の知識が、どこまで通用するのかは全く心もとなかったけれど。
しかし、乱菊の助力が仰げないなら仕方がない。

 

―― 「さよなら」とはっきり言われた、か……
吉良は、乱菊が涙を流すところを、初めて見た。
現実の乱菊に比べて、明らかに繊細で、剥き出しだった彼女。
自分の願望が露にされる世界におかれた、より源に近い存在といえるのかもしれない。
しかし、その魂は、きっと同じだ。

―― 忘れろなんて、言わないわよ。あんた、そんな器用なタイプじゃないでしょ?
吹っ切れるまで悩んでもいいのよ。時がきっと、解決してくれるから。

あの時の乱菊の言葉が、あれほど吉良を癒したのは。
きっとそれが彼女自身から出た、本当の言葉だったからだ。
「忘れられないのも、不器用なのも……貴女じゃないですか」
吉良はぽつん、とつぶやいた。
しかし、そんな乱菊の弱さを、責める気にはなれなかった。