時は、室町。
家から数分も歩けば、自分の掌さえ見えぬほどの闇が、どこにでもあった時代。
闇の中で躓いて見下ろせば、どこの誰とも知れぬ死体が横たわっていてもおかしくはないほど、死が身近だった時代でもある。
黄昏が、夏の山村を覆っていく。
朱色の油絵の具を刷いたように濃厚な赤が、空を染めていく。たなびく雲は金色に輝いていた。
山々の谷間に息を潜めるように、小さな村があった。というよりも、村が造られようとしていた、というべきか。点在する家々のうち、完成しているものはほとんどなかった。建ちかけている家を見やれば、真っ白な若木でできた柱と、黒く煤けた柱が組み合わされている。どこともなく、焦げ臭い匂いが漂っていた。
一度は戦乱に巻き込まれ焼き払われた村を、新しくやってきた人々が復興させようと骨を折る。その時代では、どこにでも何度でも見られた風景だった。
「はやく仕舞え! 暗くなるぞ」
「もう少しでこの柱が組み上がるのに……」
「明日でいいだろう。早くしないと『あれ』が来るぞ!」
粗末な着物に身を包み、汗だくになった人々が呼びかわす。最後の一人の「あれ」という言葉に、他の者が顔色を変えた。言葉をこれ以上交わすのも惜しい様子で、数少ない完成した家に駆けこんでゆく。その時、村の入口に佇んでいる一団を見て、はっとしたように足を止めた。
「あれは……誰だ? また新しい祈祷師か? それとも坊主か。また村長が呼んだのか?」
「見たことがある。あれは陰陽師の装束だぞ」
「陰陽師……『あれ』を諌めることができることを祈るが」
「さっきから村人たちが口にしている『あれ』とは何なのだ?」
恐々と自分たちを見やりながら家の中へ逃げるように消えた人々を目で追い、一人の陰陽師が言った。鋭い視線は村長に向けられている。黒い髪を肩まで伸ばし、頬に傷のある初老の男だった。陰陽師は、彼を入れて三人。全員が、陰陽師の装束をぴしりと纏っていた。夕闇の中で、その姿は白く浮き上がって見えた。
もう70歳を越えていると思われる老いた村長は、周囲を伺うような視線を向けた。その表情は、疲労と恐怖に疲れきって見えた。
「この村に巣食う、正体不明の妖(あやかし)を、皆『あれ』と呼んで恐れています。誰にも姿は見えませんが、夜な夜な歩き回っている気配がします。足音と……獣の啼き声のような忌まわしい声を発しながら。『あれ』の声を間近に聞いた者は例外なく、翌朝に原因不明の病に伏せってしまうんです。未だ死んだ者はいませんが、いつ息が絶えてもおかしくなく……もうやられた数は住人を下りません」
ふむ、と話を聞いていた一人が唸った。年の頃は10代後半程度で、筋骨たくましい巨躯の若者だった。
「しかし、こんな薄気味悪い場所に住むなんて酔狂をしなくてもいいだろうに。あんた等、言葉がここの土地のもんじゃねぇな。よそから移って来たのなら、この地に愛着もねぇだろ」
「おっしゃる通り、我らはこの村の生まれではないんです。そもそも、元々、どんな村がここにあったのかも知りません。野武士の焼き討ちに遭って全滅した村のなれの果てと聞いております。愛着はないですが、ここより先は原生林、戻れば戦場です。ここを捨てても行く場所がありません」
「今まで、我ら以外に誰かに解決を依頼したのか?」
年長の陰陽師が尋ねた。
「はい、祈祷師やお坊様、占い師にも頼みましたが、調伏できぬ、というばかりで」
なるほど、と頷いて、若者は周囲を見渡した。
「その妖とやらの仕業かどうかはとにかく、ここは瘴気の溜まり場だ。……どう見るよ、興隆(こうりゅう)」
そう言うと、初めに言葉を発した初老の男を見下ろした。
「むやみに踏み込むな、信貴羅(しぎら)。確かにこんな場所では、病にもなるだろう。人が住めるような環境ではない」
「陰陽師様。なにとぞ、この村を御救いくださいませんか」
村長は深々と頭を下げ、そしてもう何度目か、最後の一人の陰陽師に視線をやった。さっきから、気になって仕方がない様子でちらちらと見やっていたのだ。
他の二人の陰陽師と比べると、最後の一人は頭一つ分背が低かった。性別や年齢が、一見して分かりづらい。優しげな少年にも、凛とした娘にも見えた。黒い髪は耳にわずかにかかる程度に短く、肌は他の二人の浅黒く焼けた肌とは真逆で、陶器のように白かった。汚れのない陰陽師の衣装よりも更に、白く見える。大きなつぶらな瞳は黒目がちで、夕闇に消えようとする村に視線が注がれている。
身体に白い粉を刷いたように、その者の輪郭は浮き上がって見えた。その姿は、村人たちとは全く別の生き物に見えた。他の二人の陰陽師たちとも違う。端麗なその容姿がまるでこの世のものでないように見え、村長はぶるりと身を震わせた。
信貴羅、と呼ばれた若者が、その者を見下ろした。
「す……当主。瘴気が一番強いのは、あの廃屋ですね」
「ええ」
その者は表情を変えずに頷いた。当主、という言葉に、村長が顔色を変える。
「当主? まさかあなたが、第七代目の……」
「当主」と呼ばれた者は、涼しげな視線を村長に向けた。言葉にはしないが、その視線で肯定したに等しかった。そのまま足音を立てず、すいっと前へ出る。興隆と信貴羅がその後につき従った。
「あ、あの……」
後を追うべきか視線を泳がせた村長を、興隆が振り返った。
「そなたは残られよ。危険だ」
明らかにほっとした彼を見返し、興隆はわずかに目を細めて続けた。
「その妖とやらの正体が何か、想像はついているか?」
「い、いいえ。妖などとは今まで縁がありませんでしたし……」
「人だよ」
「え?」
「だから、『妖』とやらの正体だ」
村長は、皺に埋もれたような顔を弛緩させた。
「まさか、夜な夜な村を歩きまわり、人々を病に倒れさせている『あれ』が、人間だというのですか。そんな訳が……」
「一番恐ろしいのは獣ではなく、妖などでもない。人の『心』なのだよ」
興隆は事もなげに言うと、もう随分先へ行っている当主と信貴羅の後を大股で追った。後には村長が取り残されたが、突然背に火をつけられたように前のめりによろめき、三人に続いた。
* last update:2013/8/26