十五分後。
「お前の学校じゃ、来客をボールで迎撃しろって教えてるのか?」
「だからごめんって! もう十回は謝っただろ? 意外としつっこいな……」
「しつこいとは何だ、しつこいとは!」
「だーかーら! 申し訳ゴザイマセンデシタ」
ジーンズ素材のハーフパンツに、ブルーとホワイトのボーダーシャツ、というラフな格好をした日番谷は、一護のベッドの上に胡坐を掻いて座っている。普段はモノクロ系の服が多いためか、いつもより子供っぽく見える……というのは、思っても言わない。台所から夏梨が持って来た麦茶を、もうコップ三杯も飲み干している。
クーラーの設定温度を二十三度、更にパワフルモードに設定したところで、日番谷はやっと息をついた。しつこかったのは、どうやら暑さのせいでイライラしていたせいもあったらしい。空になったコップをテーブルの上においた日番谷は、ようやく夏梨をまともに見た。
「大体、お前俺の霊圧が分かるんじゃなかったか?」
「……なんか、いつものお前と霊圧が違ったんだよ。怨念がこもってるっていうか。恨みがましいっていうか」
夏梨がそう言うと、苦虫を噛み潰している最中に面白いことに出くわした、ような一種珍妙な表情になった。
「瀞霊廷も記録的な猛暑でな。しかもここ一週間深夜残業だったし……恨みがましくもなるぜ」
「恨みがましい霊圧っていうのもすごいな。それにしても、普段のあんたなら、ボールが飛んできたら受けるなり避けるなりするだろ」
いくら不意打ちだったとしても、日番谷がまともにボールを食らうとは予想外だった。
実際、過去に何度もサッカーの相手をしてもらったことはあるが、一度だって受け止められなかったことはないのだから。
「めんどうくさかったんだよ、どっちも」
「どんだけ!?」
直接胸で受けて吹っ飛ばされるほうが、よほど面倒なことになると思う。
「そこまでして、なんでウチに来たんだよ?」
連日三十五度を超える猛暑が、瀞霊廷よりも涼しいってことはないような気がした。
日番谷は夏梨の問いに答える代わりに、クーラーを指差した。
「もっと設定温度下げてくれ……」
「自分でやんなよ。ていうか、二十三度? これ以上下げらんないよ」
寝転がって気持ちよさそうに目を閉じている日番谷を、夏梨はやや複雑な思いで見下ろした。
日番谷が、ひょいとウチに立ち寄ってくれるのは嬉しいのだ。こんな風に、だらしな……いや、無防備な態度を誰にでも見せるわけじゃないのも知っている。
でも、だけど。
「なーんか、納得いかない」
「何が?」
「いやさ、あたしと冬獅郎が関わり続けるのは、あたしのために良くないって言ってたじゃん。暑さに負けてウチに来ちゃうって、アリなのそれ」
「……」
日番谷は一瞬、毒気を抜かれたような顔をした。言っちゃいけなかった、と夏梨が気づいた時にはもう遅い。
「帰る」
理屈上正しい、と思える指摘を受けると、意外なくらい従順なところがあるらしいのだ。そして夏梨は、理論的に考えるのが習慣づいている。あっさり起き上がった日番谷に、今度は夏梨が慌てた。
「いや、そういう意味じゃなくて!」
「じゃ、どういう意味だよ。涼んだし、帰る」
若干……というよりも、明らかに機嫌が悪そうに見えるのは気のせいだろうか?
慌てていたせいで、玄関が開き、次いでトントン……と階段を上がってくる足音が聞こえてくるのが聞こえていたが、意識に留まらなかった。
「なに慌ててんだよ?」
「あんたこそ、なんでそんな機嫌悪いんだよ?」
「悪くなんかねぇ!」
あからさまに、悪いと思う。夏梨はベッドから降りようとした日番谷の肩を、身を乗り出して掴んだ。
「あたしは! それでも、あんたが来てくれたのは嬉しいんだよ! だから……」
ぴたりと、日番谷の動きが止まった。その反応に、夏梨は自分の発言の大胆さに気づく。そして、なんだか昼ドラで見たような目下の自分達の体勢にも。
「だから……」
情けなく声が小さくなる自分に、自分で驚く。あたしはこんなに、度胸がなかっただろうか?
「……帰ることないじゃん」
日番谷は、ベッドの上に尻餅をついて、止まった。夏梨の手が、日番谷の肩から離れる。見上げると、なぜか困ったような顔をしていた。
「……変な奴だな、お前」
後頭部を掻いて、そっぽを向く。どうやら、もう怒ってはいないらしい。
夏梨が口を開こうとした時、ぎぃ、と音を立てて部屋のドアが開いた。弾けるようにふたりともドアのほうを見る。
そこには、唖然とした表情の一護がいた。
「……お、お前ら」
ドアを開けたら、ふたりがなにやら親密そうにしている。それは、一護の思考を一瞬ブツッと切るには十分な光景だったらしい。
ぴたり、と三者三様に動きを止めた……次の瞬間、一護の背後から、白くて大きな塊が飛び出してきた。
「ちょ……!」
それが愛犬「シロ」だと気づいた時には既に遅し。
とある事件がきっかけで、黒崎家の一員になったホワイトシェパードは、思い切り一護のベッドに……というか、日番谷に向かってダイブした。
「お、重い! 離れろって!」
尻尾をぶんぶんと振りながら日番谷に頭を押し付けたシロは、日番谷と同じくらい……というよりも大きく見える。
一瞬ぽかんとした夏梨が我に返って引き離そうとしたが、片時も静止していないシロの首輪を捕まえることも難しかった。
「おー、懐かれてんな」
のんびりとした声に夏梨が振り返れば、兄の一護がのっそりと部屋に入ってくるところだった。
「次から次へと……! お前ん家の躾は一体どうなってんだ!」
シロと押しつ押されつしながら日番谷が怒鳴ったが、一護はおもしろそうにそんな一人と一匹を見下ろしている。
「ざまみろ」的な色合いがわずかにあるのは、否めない。
「ちょっと一兄! 見てないで手伝ってよ!」
シロの胴体を押し返しつつ夏梨が叫ぶと、ようやくシロに手を伸ばす。そして、ぐい、と首輪を捕まえると日番谷から引き離した。
「おー悪い悪い。あんまり暑いから、家の中に入れてやろうと思ってよ。アイス食うか? 夏梨、遊子……じゃねぇ、冬獅郎」
シロにもみくちゃにされた挙句、妹と間違えられて喜ぶはずがない。むっつりとシロの下から出てきた日番谷に、一護が手に提げたスーパーの袋からアイスを取り出して手渡した。
今品薄と言われているガリガリ君、しかも一番人気のソーダ味である。
「つーか、もう一人の妹はどうした? 遊子、か」
音を立ててアイスクリームを噛み砕きながら、日番谷が一護を見上げる。一護は頷いた。
「今日から二日間、いねぇんだよ。友達ん家に泊まりだってよ」
「大丈夫かよ」
思わず、という風に日番谷は口にしたが、その理由は夏梨もよく分かっている。亡き母親と、いい加減な父親に代わって家事全般を取り仕切っている遊子は、一家の影の大黒柱だ。
いや「影」というより、おおっぴらに一家の中心だと日番谷は知っているのだ。
彼女以外の三人が、家事を円滑にまわしていく、という意味で無能だ、ということも。
「二日くらい、どうにでもなるでしょ」
夏梨は肩をすくめた。
―― 「桜ちゃんのおばあちゃん家でお泊りパーティーがあるんだけど、行ってもいい?」
三日前の夜、おずおずと切り出した遊子に、夏梨たち三人は目を丸くしたものだった。
遊子はいつも家事を最優先にしてきた。どれほどの約束を断ってきたか知れないのに、今回それを口に出した、ということは本当に行きたかったに違いないのだ。
普段、遊子に対して申し訳ないと思っている三人が、めったにない遊子の希望に首を横に振れるはずもなかったのだった。
一護はひょい、と夏梨の前にスーパーの袋を見せた。
「今晩の食事当番は俺。お好み焼きでいいか?」
「おー、いいねぇ」
スーパーの袋の中に視線を落とし、中に入っているものをチェックする。
お好み焼き粉……ある。餅、チーズ、明太子、山芋、家族が好きな具もちゃんとある。しかし夏梨はすぐに眉をひそめた。
「……一兄。肉ないよ」
「あ? 1パック残ってただろ?」
「昨日遊子が野菜炒めに使ってたぞ!」
「マジか! ……ま、肉なくても」
「あのなぁ! 最近腹が出てきた親父ならとにかく、あたし達は若いんだぞ! 肉抜きのお好み焼きなんてありえねぇだろ!」
夏梨の剣幕に、日番谷が若干引いたような気がしたが、それどころじゃない。肉をおなかいっぱい食べるのは、全ての成長期の若者の権利だと思う。
「分かった、分かったって。けど俺、今から用事あんだよ。夏梨、行ってきてくれるか? 適当に菓子買って来ていいから」
夏梨の反撃は分かっていたか、それとも自分も肉が食べたかったのか、一護がポケットから一心の財布を取り出してぽんと投げた。
それを受け取った夏梨は、何とはなしに隣にいた日番谷を見る。日番谷がシロを見ると、ウォン、と吠えた。