クレフと特別に仲がよいか?
そう聞かれれば、仲が悪くはもちろんないが、「特別」ではないと答えるだろう。「特別」という名前にふさわしいのは、いつも傍にいるイメージがあるプレセアや、「仲がいい」という言い方が適切かはとにかくとしてランティスだと思う。

では、クレフのことに一番詳しいか?
その問いには、NOと答えるほかない。考えてみると、海はクレフのことを驚くほど知らないのだ。たとえば、朝何時に起きているのかとか。どんな食べ物が好きで、昼間は何をしているのか、とか。そういう日常的な、当たり前のことであるほど、何も知らない。

では、そのままでもいいと思っているか? そこまで考えて、海は心の中で首を横に振った。
―― 私は、クレフの「特別」になりたい、「一番」になりたい。
そう考えると、海は胸苦しいような、いてもたってもいられないような気持ちに駆られる。海は今まで、誰かに対して「こうしてほしい」とか、誰かを上回ってまで「こうなりたい」とかいう発想を持ったことがなかったのだ。

裕福な家庭の一人っ子として生まれ育った海は、幼いころから望むまでもなく、全てを与えられてきた。他人に「綺麗」と呼ばれる外見で生まれ、学業にもそれほど苦労した記憶がない。能動的に努力してそうなったわけではなく全て偶然の産物で、特に自慢になることでもないと思っている。とにかく、海は結果的に、意図することなく周りの人々を「上回ってしまう」ことが多かった。それなのに、今、感じたことのない気持ちに胸をざわめかせている――それは、「欠乏感」とでも言えるものだった。

その感情は海を当惑させ、まるで汚いもののようにさえ思えた。お腹がすいたから食べ物を手に入れる、ということと、心が満たされないから誰かを手に入れる、ということは決定的に違う。後者は他人を顧みない、自分勝手な行動ではないかと思ってしまうのだ。こんな風に考えるなんて、自分はこんなに繊細だっただろうか。この感情を「恋」と呼ぶなら、皆どうして、これが美しいものであるかのようにもてはやすのかわからない。みな、この感情にどういう風に折り合いをつけ、平気な顔をして生きているのだろう。

海は、クレフの自室に続く長い回廊を歩きながら、磨き上げられた床に微かな溜息を落とした。


―― それにしても、どうして風が……
風に今しがた言われたことが頭をよぎり、胸騒ぎは更に大きくなった。風に、今のこの気持ちの動きを全て悟られていたらと思うと、穴があったら入りたいくらい恥ずかしい。海は慌てて、考えを逸らした。
「どうして、二人とも駄目だったのかしら」
わざと口に出して呟くと、海の声が静かな回廊の中にぽわんと響いた。セフィーロ城での自室を見る限り、クレフの生活は「普通」に見えるからだ。部屋の内装は、海たち三人娘の部屋と大差ない。紅茶だって、茶葉こそ知らないものだが、色も味も東京で飲む紅茶とそれほど変わらず、むしろ似ているのが意外なくらいだった。

考えているうちに、クレフの自室はどんどん近づいてきていた。大きな扉の前に立ち止まって、どう切りだそうかと考えていると、ドアが勝手に開き始め、海はどきりとした。


**


クレフの別邸に行ってみたい。海がそう切り出すと、クレフはわずかに身をのけぞらせた。眉間に皺が寄っている。
「……ちょっとなによ、その沈痛な顔?」
さっきまで思い悩んでいたくせに、いざクレフの顔を見ると軽口にスイッチが切り変わってしまうのが我ながら不思議だ。というか、多弁な人間ほど実は口下手だと思うのは自分だけだろうか。それにしても、一日三度目のお願いに身も心も引きつったとしても、そこまで顔に出さないのが大人の反応だと思う。

クレフは、はぁぁ、と大っぴらにため息をついた。いつも手にしている杖はなく、代わりに本を何冊か抱えていた。本を机の上に置くと、クレフは腕を組んで、部屋に入って来た海を見返した。
「昼はヒカル、午後はフウ。夕方はウミとくればため息くらい出る。……おまえたち、何か勘違いしているのではないか?」
「勘違いって?」
「つまりだ。おまえたちは別に私の別邸に用はないだろう? 妙な噂でも耳にしたのだろうが、別邸に行くこと自体が目的になっていないか?」
「うっ」
海はいきなり言葉に詰まった。クレフの指摘は正しい……というよりも、その通りだった。
「ま……まぁね。でも、全然行くつもりも受かるつもりもないのに東大を受けるみたいな、もし合格したら棚ぼたみたいな、記念受験的なことは思ってないし」
「……ウミ、全く分からないのだが。何語をしゃべっているのだ?」
クレフは当惑顔だ。何をしゃべっても通じるように錯覚しがちだが、考えてみればセフィーロには東大はもちろん、棚ぼたも記念受験もなさそうだった。
「細かい事はいいの」海はばっさりと切った。「びっくりしたら駄目なんでしょ? それで駄目だったら、諦めるから」
「わかった」クレフは頷いた。「つまり、おまえたちは暇なのだろう? 暇だから入れ替わり立ち替わりやってくるのだろう。それなら、本を運ぶのを手伝え」
「どうして、光と風は連れて行ってくれたのに、私は駄目なのよ!?」
思わず大きな声が出た。そして、クレフが驚いたように目を見開くのを見てしまい、我に返った。思いがけないくらい違和感のある言葉を発してしまった気がする。これではまるで、二人に嫉妬しているようではないか。そんなつもりはなかったのに、自分の言葉を撤回しようとしても後の祭りだった。

「……」
「ク、クレフ、あのね。別に今のは」
海の言葉を待たず、クレフは急に吹きだした。まさか笑われるとは思っておらず、海はぽかんとクレフの顔を見た。
「なかなか、可愛いことを言う」
「……ええっ!?」
「どこの駄々っ子かと思ったぞ」
「……そう。そういう風にとらえちゃったのね」
「違うのか?」
「いいの、それで……」
クレフにしてみたら、自分は700歳以上も年下なのだ。赤子どころか、出生前の胎児くらいにしか思ってないのかもしれない。しかしなぜだか、無駄に疲れた。というよりも、今の会話ですでに何度か驚いている。普通に話していてすらそうなのだから、クレフの別邸に行こうが行くまいが、すでに色々駄目だという気がした。

クレフは前置きなしに、窓をいきなり開け放った。外から風が流れ込み、海は長い髪を慌てて抱え込んだ。
「外は冷える。これを被って行け」
分厚いブランケットが急に空中から現れ、海の頭からばさっと被さった。顔を出した時、窓から足をかけて出ようとしているクレフを見て、海はうろたえた。
「ちょっと! ここ、高いのよ! 落ちるから!」
「……よく見ろ」
言われて窓の外を覗き込むと、グリフォンが窓の外で静止していた。冬仕様なのか、赤い帽子をかぶっているのが可愛らしい。

窓から恐る恐る身を乗り出した時、先にグリフォンに乗ったクレフが、手を差し伸べてくれていた。その手を取った時に感じた胸の高鳴りを信じたい、と海は思った。
―― 私は、あなたのことがもっと知りたい。
クレフの部屋にどこまで入れるか、という発想はすでに頭から飛んでいた。グリフォンがふわりと、その大きな翼を広げて空に舞い上がった。



* last update:2013/8/26