あたたかいとはいえ、冬の気候である。上空を飛べばどれほど寒いかと思えば、案外そうでもなかった。よく見ると、グリフォンの周囲を、半透明の球体が覆っている。冷たい風が来ないように、バリアのようなものを張っているのだろう。魔法、というともっぱら攻撃魔法のイメージしかなかった海には、クレフが創りだす多彩な魔法は新鮮だった。おそらく頭で想像できるようなことなら、すべて「魔法」として実現可能なのではないかと思うくらいだ。
「……ねぇ、クレフ」
海は、隣で胡坐を掻いて座っているクレフを見やった。いつの間に持ち出したのか、いつもの杖を体の横に置いている。グリフォンが、少しずつ降下し始める。海が見下ろしてみると、真下にはこんもりとした森が広がっていた。それが「精霊の森」らしい。
「綺麗」
海は思わずつぶやいていた。生き生きとした緑の葉が土地を覆い、巨大な木々を縫うように流れる川は翡翠色をしている。あちこちに色とりどりの花畑が広がり、呼びかわす鳥の鳴き声が聞こえる。生命が満ち溢れている、という印象が強くした。
「そう思うか」クレフは微笑んだ。「ここは、代々の導師が守ってきた森なのだ。セフィーロが再生した時、この森だけはほとんど元通り生き返った。この場所でしか住めん精霊は多くいる。精霊たちは生気をこの森に生きわたらせ、多様な動植物が集まってくる。悪しき力はこの森には入り込めん」
「そう……なんだ」
海たちが初めてセフィーロに来た時に、下ろされたのはこの森だった。見覚えがあるだろうかと思ったが、よく分からなかった。といっても、当然のことではある。到着した時はそれどころではなく、このグリフォンの背中に乗って脱出した時は、アルシオーネに追われていたから尚更景色を見る余裕などなかったからだ。ただ、見覚えがないところなのに、ほっとした。この森全体が、クレフの懐の中にあるようなものなのだろう。
グリフォンがその翼を畳み、森がぐんぐん近づく。そして広場のような場所に滑らかな動きで着地した。
「こ、ここなの?」
杖の中にグリフォンをおさめているクレフを横目で見ながら、海はきょろきょろと辺りを見まわした。絵のように美しい景色ではあるが、驚くような要素は何もなさそうだ。
「いや、ここからすぐの場所だ」
クレフはそう言い置くと、さっさと先に立って歩き出した。小柄なのに、歩く速度はやたらと速い。海は慌てて後を追った。
―― 光が驚いたのは、この場面よね……?
忘れかけていたが、驚いたらその場で退場なのだった。海は気を引き締め、おそるおそるクレフの後をついて行った。そんな海の気持ちなど全く気づかないようにクレフはすたすたと茂みを抜けて歩き続け、ひょいと指差した。
「あれが、私の家だ」
「え?」
言われてもすぐには分からなかった。クレフが指差していたところは、大木の幹がいくつも入り組んでいて、家があるようには見えなかったからだ。
「見えないんだけど……」
呟きながら、クレフの傍まで歩み寄った時だった。
「えーーー?」
海は思わず大声を上げた。
地上20メートルほどの位置に見えるそれは、一見「家」ではなかった。というよりも、「鳥」だった。ニュージーランド原産にキウイという鳥がいるが、色も形もそれによく似ていた。ずんぐりむっくりの深い緑色の体に、長めの嘴がついていて、目はぱちくりと開いている。可愛らしいと言ってもいい。間抜けとも言えそうな気がした。キウイと違うのは、どうやら翼はあるようで、体の横にちんまりと折りたたまれている。それだけ見れば完全にただの「鳥」だが、「家」だと海が思った理由は、鳥が全く動かず、かつ異常に大きく、そして鳥の足の下から小さな通路が取りつけられていたからだ。しかしそれは「道」というにはあまりに無理のある代物だった。螺旋階段というよりも、綺麗に包丁で剥いた林檎の皮のようにぐるぐると回りながら、先端が地上についている。「道」の幅は、太いところで1メートル、細いところで20センチといったところか。
「『え』?」
クレフが海の言葉を繰り返し、海は我に返った。驚いたら退場なのだった。
「え? え……らく細い道だなと思っただけよ。驚いてないから!」
苦しい取りつくろい方だったが、クレフは呆れた顔をしつつも何も言わなかった。どうやら、今のはセーフだったらしい。
すごく立派だとか、逆に質素だとか、映画に出てくるような典型的な魔法使いの家とか、いろいろと想像していたが、「鳥」という発想はなかった。海の想像力が貧困だと言うよりも、クレフの発想が変なのだと海は思った。
「どうやって建てたの? こんな家。しかもあんな高いとこに」
「魔法で創ったに決まっているだろう」
クレフは涼しげな顔で答えると、さっき見た、林檎の皮の先端のような通路の入口に歩みを進めた。やっぱり、上るのか、アレを。嫌だというよりも、無理なレベルだと思う。あんな高さから落ちたら、死ぬ。
「ちょ、ちょっとクレフ。無理だから」
「いいから来い」
クレフは強引に、海の手首を取って引っ張った。クレフが逆の手で、通路に触れる。すると、周りが光に包まれ、同時にくらりとめまいがした。
「……なに、なんなの一体?」
おそるおそる目を開けると、そこはもう、部屋の中だった。
「……。説明して」
叫ばなかったのは我ながら、よくやったと思う。というよりも、風はよくこんな非常識な出来事の連続に、驚いた顔をしなかったものだ。
「入口に私が触れると、自動的に部屋の中まで移動できるようになっているのだ」
「それも魔法?」
「ああ」
クレフは、どうしてそんな当たり前のことを聞くのだ、という顔をした。
「ちなみに、関係ない人が触れたらどうなるの?」
海は素朴な疑問を口にした。
「何も起こらん」
「アレを上って行ったら?」
「一番上まで上ったら、自動的に一番下に移動するようになっている」
「……そう」
そんなことをする人間がいるのかはとにかくとして、必死に一番上まで上ったらスタート地点に戻っていた、というのを想像するだけで気の毒になってくる。
「その辺でくつろいでいろ。棚にあるものは見てもいいが、触るな。何が起こるか分からんぞ」
クレフは物騒な言葉を言い置いて、別室に姿を消した。
「……」
一人でいれば、どんなに驚いても帰される気遣いはないわけだ。海は周囲をきょろきょろと見まわした。
それは、思ったよりも普通の家だった。雰囲気は、セフィーロ城にあるクレフの自室とそう変わりがない。形は、あの「鳥」の内部だけに、ゆったりとした楕円形を描いていて、壁は薄いクリーム色だった。木で造られた本棚が、半分の壁を埋め尽くしていた。海は歩み寄って間近に見てみたが、本がずれもなく、埃ひとつなく整然と並べられている様子からは、その本が丁寧に扱われているのが伝わってくる。逆の壁にはいくつも棚があり、そこには数々の薬品が並べられていた。壁や床には、まるで屋外のように小さな花が咲き、木が育ち、蝶がひらりと舞っている。
「……あ!」
何とはなしに壁を見詰めていた海はハッとした。壁から、一羽の黄色い鳥が飛びだして来たのだ。その鳥は、海を見つけると、その肩にちょんと止まって囀った。
「普通の鳥、よね……?」
壁から飛び出したのではなく、外を飛んでいた鳥が、壁をすり抜けて現れた、と言う方が正しいのだろう。これも、クレフの魔法なのか。驚くべきは家そのものではなく、家を創りだしているクレフの魔法にあるのだと海は改めて気づいた。
海は、本棚の傍にあるソファーに腰掛けた。部屋はぽかぽかと春のように暖かく、海はブランケットをきちんと畳んでソファーの背もたれに掛けた。初めて入る部屋なのに、とても落ちつく。驚くものが溢れているとは言っても、ここは「安全」なのだという気が強くした。そうすると、何があっても大丈夫だと肝が据わってくる。形から見て、鳥の下半身の部分だろうその部屋は、20畳ほどのスペースがあった。よく見ると、本当にいろんなものが置いてある。子供なら、何日でも飽きなさそうだった。
壁際には、何枚かの絵が掛けられている。透明の液体が入ったコップの絵や、ペンや、紙が描かれているものもある。静物画が好きなのかもしれない。そう思っていた時に、ドアを開けてクレフが現れた。杖はその手になく、いつも羽織っている法衣もない。法衣の代わりに、服の上からシンプルな黒いマントを羽織っていた。あまり濃い色を身につけない彼が黒をまとっていると、印象が変わったような違和感をおぼえる。海の肩に止まっていた小鳥が飛び立ち、クレフの腕に留まる。クレフは微笑み、その小さな頭を撫でた。
「その絵はなに?」
「ああ、私が描いたのだ」
「趣味なの?」
「そうではないが……ああ。飲み物も出さずにすまなかったな」
クレフは思い出したようにそう言うと、絵の傍に歩み寄った。そして、飲み物の絵の中に、無造作に手を突っ込んだ。海は、唖然として声も出せなかった。クレフの手首から先が、絵の中に埋もれているように見える。そしてクレフが手を引きもどした時には、その手の中には絵とまったく同じ、透明の液体が入ったコップがあった。
「これを飲……」
「う……うそでしょ?」
「今、完全に驚いていただろう」
「お! 驚いてないわよ! これは、東京の言葉ではツッコミっていうのよ!」
「……トウキョウとやらには、意味不明な言葉が多くあるのだな」
クレフが手加減してくれているのが海にははっきりとわかった。というか、こんな高いところから外へ放り出すわけにもいかないし、さすがのクレフも一日に三度も、客を来たとたんセフィーロ城に送り届けるのは面倒くさいのかもしれない。
「この精霊の森で採れる果物の果汁を搾ったものだ。新鮮で味が良い」
そう言いながらクレフは、コップを海に手渡すと、もうひとつ「絵」の中から取り出した。そのコップの端に小鳥が留まり、中の液体を旨そうに飲み始めた。海も、おそるおそる口に運んで、
「……おいしい!」
思わず、声を上げた。今まで飲んできたフルーツジュースは何だったのかと思った。喉ごしはさわやかで、馥郁(ふくいく)とした香りがして、味は甘酸っぱくていくらでも飲めてしまいそうだ。
「よかった」
クレフは微笑んだ。考えてみれば、二人きりになることなど、片方の手で数えられるくらいしかなかった。緊張するか、落ちつかなくなるかと思っていたが、クレフのいる空間は、まるで暖かな湯に包まれているかのように心地よかった。
「……ねえ。どうして、『驚いちゃだめ』なんて、タブーがあるの?」
ずっと疑問に思っていたことを率直に尋ねると、クレフは苦笑した。
「この部屋の中には、数々の薬や毒がある。人を救う物が大部分だが、中には危険なものもある。最も危険なのは、私にも効能や解毒方法が詳しく分からぬものだ」
「クレフにも分からないって……クレフが創ったんでしょ?」
「私以外の魔導師が創ったものもある。その魔導師は、ほとんどがもう、亡くなっているのだ」
「ていうことは……」
「預かった薬の詳細を聞きそびれている場合もある。これが厄介なのだ」
クレフが「厄介だ」と口にするのを、海は初めて聞いた。彼が言うと、確かに大変そうな響きがする。
「処分できないの?」
「下手に処分したら、それこそ何が起こるかわからん」
クレフはため息をつきながらそう言って、海をさらにぞっとさせた。
「とにかく、ここにある薬は危険すぎる。この家に驚かないような魔法の心得がある者ならとにかく、素人は近づかないほうがよいのだ」
「……なるほど」
様々な魔法で創られたこの家に驚くか、驚かないかは、魔法の心得がある程度あるか否かを判断する基準になっているわけだ。しかしそれならそれで、素朴な疑問が湧いてくる。
「それなら、素人は立ち入り禁止にすればいいのに」
「一切入れぬとなると、人は様々な手を凝らして侵入したくなるものだ。それに、導師という職業上も、人々と距離をとりたくはない」
「……クレフって、そういうところがあるわね」
海は微笑んだ。思えば、初めて会ってから今まで、クレフと自分の間に距離を感じたことはない。年齢的にも、立場を見ても、二人の間の距離は歴然であるのにも関わらず、である。それはクレフの性格に拠るところが大きい。
「そんなことより」
クレフは、窓から外を見下ろして、海を見て笑った。
「少々、散歩をする気はないか?」
* last update:2013/8/26