「さ、散歩?」
こくりとクレフが頷いた。
「いいけど。また降りるの?」
正直言うと、気が進まなかった。この部屋は暖かかったし、まだ部屋をちゃんと見せてもらっていない。クレフは気軽に頷いた。
「では、行くぞ。しっかり座っていろ」
「え?」
散歩に行くのに、どうして座れと言われるのか。よく分からないが、嫌な予感がした。ちょこん、とソファーに座りなおしたとたん、大きく家が動いた。地震というレベルではなく、家が大きく横滑りする。
―― 落ちる?
確か、この家は20メートルほどの高さにあるのだ。地上に落ちたら家も人も粉々だろう。

海はバランスを崩し、前に跳ね飛ばされた。ちょうどそこにいたクレフに、正面からぶつかった。
「きゃああっ!!」
落ちつけウミ、と何度か声が聞こえたような気がしたが、耳に入らなかった。

ぽんぽん、と肩を叩かれて、海はようやく辺りを見まわした。
「落ちて……ない」
「驚きすぎだぞ」
クレフは片方の耳を押さえている。どうやら、今の海の絶叫が耳を直撃したらしい。
「驚いてない……わよ。今のは悲鳴よ」
唖然としながらも海が反射的に言い訳すると、クレフは笑いだした。
「まだ言うか。ごまかそうとする努力は認めるが、もうかまわんぞ」
「ていうか、本当に怖かったのよ!」
一体どういう状態なのかわからないが、今はゆっくりと傾いている程度で、十分立てる。身を起こそうとして海はようやく、クレフにしがみついていることに気づいた。
「そこまで怖がるとは思わなかった。ちゃんと言っておけばよかったな、すまない」
こういう時に優しい言葉をかけるのは反則だと思う。クレフに支えられ、海は立ちあがった。こうやって立つとクレフの身長は海の胸くらいまでしかない。それなのに、海の全体重をあの状況で支えられるなんて、やはり小柄でも男の人なのだと思う。
「あ……ありがと」
どんな顔をしたらいいか分からず、海はそそくさとクレフから離れた。

「……もう、驚いてもいいの? 出て行け、とか言わない?」
「勇敢だな、ウミ」クレフは窓際に立ち、窓の外を見下ろした。「ここから出て行ったら、死ぬぞ」
「はい?」
クレフに倣って窓から下を見下ろしたとたん、海は今度こそ驚きの声を上げた。
「飛んでる……!? 家だと思ったら、やっぱり鳥だったの?」
窓の外には、緑の森が広がっていた。すでに、50メートルほど上空にいるだろうか、景色がさっきと比べてずっと高い。
「いや、鳥ではなく家だ」
「家は空を飛ばないわよ!」
「これは……」
「魔法だっていうんでしょ。もう! 分かったわよ!」
「何を怒っているのだ」
驚きすぎて、驚きを通り越して腹が立ってくる。なんなのよ、この理不尽な状況は。

「家」が、大きくその翼をひろげ、悠々と「精霊の森」の上空を舞っている。
「『精霊の森』は広い。精獣にも体力の限界があるからな。普段はこの『家』で見回りを行っているのだ」
「……って言っても、クレフにも体力の限界はあるでしょ? この『家』、クレフの力で飛ばしているんでしょ?」
「……まあ、そうだが」
クレフは目を瞬いた。
「そんな、意外そうな顔しなくてもいいじゃない」
「……いや。私の力の心配をする者はあまりセフィーロにはいないものでな」
「倒れておいて、よく言うわよ」
「あれは非常事態だったからだ。そうそう倒れはせん」
「説得力がないわよ! ……無茶しないでって、言ってるの」
他人のことには気を使うのに、自分のことにはあまりに無頓着だ、と改めて思う。海の言葉に、耳慣れない言葉を聞いたような反応を示すクレフの顔は、まるで外見通り少年のように見える。強いひとなのに、自分のこととなると抜けていて。海よりずっと精神的に大人なのに、時折少年のような貌を見せるなんて、やっぱり反則だと思う。

考えているとどんどん動揺してきそうで、海は慌てて話題を逸らした。
「このままセフィーロ城に行くの?」
「いや。この家は『精霊の森』を離れられん」
「どうして? こんなに速いのに……」
「ここには、ここでしか生きられん動植物がたくさん同居しているのでな」
「そっか」
クレフの肩で目を閉じている小鳥は、よく見ていると飛び方が少しおかしく、弱っているのが分かる。ここにある植物も同じで、枯れかけていたり、葉に斑点があったりする。導師クレフを慕って自らやってきたり、クレフに発見されて運び込まれている、弱った生き物たちなのだろう。

本当はどこにでも行ける翼をもっているのに、優しいから小さな場所にとどまっているこの家。それはどことなく、家の主にも被って見えた。
「森を一周したら戻るぞ」
クレフは、海のそんな心のうちなど気づいていないのだろう。微笑んで、また窓の外の景色に視線を移した。


海は、ずっと気になっていた薬棚の方に、手で触れないように両手を後ろで組み合わせて近寄って行った。さっきあんなに揺れたのに、棚の上から全く動いていないのは、やはりこれも魔法なのだろう。魔法使いの薬瓶、というとおどろおどろしい響きがあるが、並べられた瓶はどれも美しく、中に入った液体も色とりどりに綺麗な色をしていた。
―― ……。
不意に、かすかな声が聞こえた気がした。海はクレフを見たが、彼は窓の外を見たままだ。いつも話す時はしっかりと海の目を見るから、今の声の主はクレフではない。

耳を澄ませると、もう一度聞こえた。何を言っているかまでは分からないが、明らかに女性の声だった。同じ女ながらドキリとするような、毒々しいまでに艶やかな声。海はきょろきょろ周囲を見まわした挙句、目の前の薬瓶を見やった。赤に近い濃いピンク色の、透明感のある液体が、水晶の瓶の中に入っている。
「……ねえクレフ。これは何?」
海は、瓶を指差して尋ねた。ひょいとそちらを見たクレフの顔が一瞬で強張るのを、海ははっきりと見てしまった。
「……なぜ、それなのだ?」
そう言ったクレフの声音は、驚いているようにも、うんざりしているようにも、恐れているようにも聞こえた。少なくとも海は、クレフがこんな風に話すのを初めて聞いた。
「え……えと。何か、女の人の声がしたような気がして……」
「……レイラ」
「え?」
今、クレフは何と言ったのか。明らかに、女の人の名前ではないのか。聞き返そうとした時、クレフは大股で歩み寄ると、その瓶を掴み取った。
「これは猛毒だ。触るな」
「今、レイラって言ったわよね?」
「……気のせいだろう」
「いいえ、言ったわ。思いっきり言った。レイラって誰」
「思い切りなど言っていない!」
「そこはどうだっていいの。レイラって誰」
これから何を言われようとも、「レイラって誰」としか返さない勢いだった。クレフは海を、それは複雑な表情で睨んだが、やがてため息をつき、掌の薬瓶に視線を落とした。

「誰と言われても困る」クレフは明らかに困っていた。「あれは何だ、同僚か?」
「私に聞かれても、困るんだけど……」
「レイラは、セフィーロの魔導師の名前だ。かつて、私の仲間だった。もう、昔の話だ」
クレフが保管している薬の中には、すでに亡くなっている者が創ったものもあるとさっき聞いたが、これもそのひとつなのか、と海は思った。それにしても、「それだけ」なのかと思わずにはいられない。ただの同僚に、クレフがそこまで動揺するとは思えない。海がじっとクレフを見ると、彼はなんだか肩を落としたようだった。
「根掘り葉掘り聞くつもりではないだろうな。レイラは……」そこまで言いかけて、クレフはぞっとした表情で周囲を見まわした。「名前を口にするだけで、視線を感じる気がする」
「やややめてよ」
今、その女(ひと)の声を海は聞いたのかもしれないのだ。セフィーロにも幽霊はいるのだろうか?
「なによ。そんなに凄い魔導師だったの?」
「ああ、彼女は物凄い魔導師だった」
クレフは頷いたが、微妙に表現が違っている。「凄い」と「物凄い」の間には、かなり意味の違いがあるように思えた。

「この薬、触ってていいの? 猛毒なんでしょ?」
海がおそるおそる瓶を見下ろした。クレフは、それを自分の顔の前まで持ち上げると、重々しく言った。
「……この薬は、いわゆる『惚れ薬』なのだ」
「はっ??」
今日一番の驚きかもしれない。海は固まったまま、まじまじと薬瓶とクレフを交互に見た。




* last update:2013/8/26