一瞬の間に、海はいろいろなことを考えた。いったいなぜ、クレフが『惚れ薬』のようなものを持っているのか。わずかな間に考えられることはたかが知れているが、ぱっと思い浮かぶのは――

1. 「レイラ」という魔導師が創った。クレフは「人の心を薬で変えるなどとはけしからん!」と怒り、レイラから薬を没収した。それで薬がここにある。
2. クレフが創った。当時の若かりし頃のクレフは「レイラ」という魔導師に恋をし、若気の至りで『惚れ薬』を創り彼女に飲ませようと企んだ。それでこの薬がここにある。いや待つのよ海、もしかしたらすでに無理やり飲ませちゃってて、今あるのは残りだとか――

海はふらり、とよろめいて、改めてクレフをまじまじと見た。
「……クレフって……」
「まてウミ、今いったい何を考えていた? なんだその軽蔑したような目は!」
「……」
「……何か話したらどうなのだ?」
一拍置いて、海は爆笑した。

「冗談よ、冗談! クレフがそんな薬創るなんて、本気で思ってないわよ! だってクレフ、見た目はともかく、心はお爺ちゃんじゃない」
「私は『まだ』746歳だ!」
一体何歳まで生きるつもりなんだろうと思うような言葉を吐いて、クレフは心なしかぜいぜいと息をついた。そして、笑いやまない海を見て、こほんとわざとらしい咳払いをした。
「そう思った根拠は気に入らんが確かに、この薬を創ったのは私ではなく『彼女』だ。取り上げたものの、処分方法が分からんのだ」
どうやら、初めに海が想像したような事態が起こっていたらしい。それにしても、名前を口にしないところといい、「レイラ」という魔導師は、よほど強烈な印象……というよりトラウマをクレフに与えているらしい。

ようやく笑いやんだ海は、改めてその薬の瓶を見下ろした。
「ねえ、『惚れ薬』っていうことは知ってるのね。じゃあ、効用っていうか、使用方法は分かってるの?」
「この瓶の中の液体に触れた者は、一番最初に顔を見た人間を愛してしまうということだ。人間なら誰でもだ」
「だ、誰でも?」
「ああ。男だろうが女だろうが、老人だろうが赤子だろうが、親だろうが子だろうが誰でもだ」
「そ、それはちょっと……」
確かに、迷惑な薬かもしれない。こんな薬を遺しては、普通の神経の人だったら心残りで死ぬに死ねなくなりそうなものだが……。
「一体なんのために創ったのよ?」
「私に聞くな」
クレフは即座にそう言った。
「処分方法は?」
「わからん」
二人揃ってため息をついた。そして、クレフは親指と人差し指の間に瓶を挟むと、顔の前に持ち上げて、まじまじと液体に見入った。
「まあ、この瓶に入っている限りは、何も悪さはしない。そう思えば恐れるほどのことも――」
クレフがそう言った、まさにその時だった。指にはさまれた瓶の表面に、白い線が入ったのを海は目の端に捉えた。
「なに? 何か瓶についてるわよ」
海が瓶に手を伸ばすと、その「線」は大きくなった。それが、瓶に入った「ヒビ」だと知った時には、パシャン、と音を立てて瓶が割れた。中の液体は勢いよくこぼれ、思い切り二人の顔に飛び散った。

「ちょ……ちょっとクレフ! 言った矢先に、何で割ってるのよ!」
「私が悪いのか!? 何も力は入れていない。割れるはずが――」
「現に、割れてるでしょ!!」
「大丈夫だ、とりあえず顔を見なければ――」
「そうよね、お互いの顔を見なかったら――」
その時になって二人は、しっかりと顔を見つめながら会話していたことに気がついた。

海はとっさに、もう手遅れだと思いながらも、くるりとクレフに背を向けた。
―― う、うそよね……この、漫画みたいな状況……
確かにあの時クレフは、指に力を入れているようには全く見えなかった。あの薬瓶はそれなりに分厚そうだったし、指でちょっとつまんだくらいで割れるはずはない。例えば、二人の人間が近づいたタイミングで壊れるよう、魔法がかかっていたのかもしれない。が、今になっていくら考えても、すでに後の祭りだった。

私はもう二度と、クレフの顔を見られないのだろうか。クレフの存在を感じたとたんに赤面したり、ドキドキしすぎてひっくり返ったりするのだろうか。というより、クレフも私を見てた。ということは、クレフも私を好きになったということだろうか? だとしたら……
「……あら?」
海は思わず、呟いていた。クレフのことを考えてもドキドキしない。ひっくり返る様子もない。
「……ん?」
背後で、クレフの声が聞こえた。二人同時に、そっと背後を振り返る。そして、互いに視線を合わせた。
「……なぜ、何も起きないのだ?」
「やっぱり!?」
海は思わず叫んだ。おそるおそる顔を合わせて見たものの、クレフがいきなり超美形に見えることもなく、身長が急に高くなって見えたりもしない。いたって普通だった。

「び……びっくりしたぁ」
海は背後のソファーにへたりこむように座った。緊張して損した、という気分の中に、何だかちょっとがっかりしていたのは否めない。
「使用期限が切れてたとか?」
「魔法で創られる薬にそんなものはないが……失敗作だったのかもしれんな」
クレフも、どこか釈然としない表情ながらも、明らかにほっとしていた。それが少し不満でもある。

なぁんだ、と互いに顔を見合わせて笑うには、動揺が消えていない。はっきり言って気まずい。床に視線を落とした時、海は薬がこぼれた床に、赤い文字のようなものが浮かび上がっているのに気づいた。
「ねえ、クレフ。これ、セフィーロの文字じゃない?」
「なに?」
クレフは何気なく視線を落して、そして……短く叫び声を上げた。思わず海は、両肩をびくっとはね上げる。クレフがそんな声を出すのを、海は初めて耳にした。クレフはとっさに、両手で空中をさっと払った。それと同時に、文字が掻き消える。
「読んだか?」
海を見上げたクレフの声は、明らかに焦っていた。
「え? よ、読んだかって、読めないわよ。セフィーロの文字だもの」
「そ、そうか……」
クレフは、背後にあったテーブルにがっくりと背中を預けた。明らかに、さっき瓶が割れた時よりも動揺している。
「な……何って書いてあったの?」
「おまえは知らなくていい……」
レイラ、と彼が呟くのを、海はもう一度耳にした。その場にその人がいたなら後ろから蹴っ飛ばしたい、とでも言いたそうな声音だった。

それから何を聞いても、何度話しかけても、クレフはどこか上の空だった。こうして海は、「クレフの別邸を見る」という今や忘れかけていた目的は果たした。果たしたものの、どこか釈然としないまま、帰宅の路についたのだった。




* last update:2013/8/26