さあああ、とかすかな音を立て、雨が降り続いていた。海は出窓の傍の椅子に腰かけ、頬杖をついて窓の外の景色を見ていた。硝子に、雨粒がいくつも当たって線をつくる。窓の外では、森でも見た紫陽花に似た花がいくつも咲いていた。紫、青、ピンク、白。小さな花々の固まりが、いくつも曇った硝子の向こうに映っている。空は薄いグレーで、芝生はみずみずしい若葉の緑。水彩絵の具で塗ったような淡い色合いを、いつもは綺麗だと思うはずなのに、今の海にはその余裕がなかった。

いつでも使っていい、と海たち三人に宛がわれた部屋は、海以外誰もいない。魔物退治から戻っていないのだ。灯りをまだ入れていない部屋は、まだ午後だというのに薄暗かった。あれから、ちょっと体調が悪い、と言って魔物退治を切り上げてきてしまった。大丈夫かと何度も聞いてくれたアスコットは、本当にいい子だと思う。魔法を使えなくなったなどと打ち明けたら、どれほど心配されるかは想像に難くなかった。

どうして、いつから。
海は、自分の掌を見下ろしたが、答えなど分かるはずがなかった。セフィーロが再生して以来、魔法を使ったことは数えるほどしかない。でもその時は、何の違和感もなく使えていたはずだった。魔法が使えないことに気づいてから何度も何度も、唱えてみた。でも、どれほど集中しても、全く反応しないのだ。

自分の胸に手を当てて、初めて魔法を使った時のことを思い出そうとしてみる。あの時は、アルシオーネの魔法で海はひどく傷ついていて、痛みにかすむ視界の先に、苦しむ光の姿があって。それでも何度でも立ちあがり、一生懸命戦っている光がいじらしくて心配で、彼女を助けるための「力」が欲しいと強く願ったのだ。戦い続ける中で、守りたいのは光や風だけでなく、クレフやプレセア達に広がり、最後にはこの「セフィーロ」を守りたいと思っていた。

今でもその気持ちに、なんの曇りもないのに。一体私の中で、何が変わってしまったのだろう。
海は、ため息をついた。誰に相談すればいい? 答えは出ているはずなのに、何度も何度も同じ事をぐるぐる考えてしまっている。私らしくない、と思った。

**

そのまま、まどろんでしまったらしい。窓枠のところに突っ伏すように眠っていた海の目を覚ましたのは、廊下を通りかかった何人かの話し声だった。
「創師プレセア、お疲れでしょう。我々の魔物退治に力を貸していただき、ありがとうございました」
「いいえ、大事なくてよかったわ。何かあったら、声をかけてくださいね。私にできることでしたら、いつでも力になりますわ」
「ありがとうございます!」
話の内容からして、プレセアと一緒にいるのは、魔物退治にでかけている「力ある人々」なのだろう。本来戦闘員ではないだろうプレセアまで退治に加わっていることに、改めて驚いた。プレセアの声は、いつも海をほっとさせる。うまく年上に甘えられない海だが、光のように胸に飛び込みたいくらい、プレセアのことは好きだった。しばらくして、海はそっと立ちあがり、部屋を後にした。

**

「ウミ! こっちに来てたのね」
ドアを開けたプレセアは、廊下に海の姿を見つけると同時に明るい笑みを顔じゅうに広げた。そして、海の後ろをきょろきょろと見た。
「あら? ひとり? 珍しいわね」
「まだ、魔物退治から戻ってないの」
プレセアの視線が海に戻る。同時に、彼女はもう、海が心配ごとを抱えていることに気づいてしまったらしかった。
「……どうしたの? 何かあった」
いたわるようなまなざしが優しすぎて、笑みを取りつくろうことができなかった。黙ってうつむくと、ぽん、と頭に掌が置かれた。顔を上げると、にっこりと笑みを浮かべたプレセアのまなざしが海を見ていた。
「あったかいお茶を淹れるわ。入りなさい」

**

「魔法が……使えない、ですって!?」
海が思った以上に、プレセアの驚きは大きかった。海はこくり、と頷く。二人はプレセアの自室で、ティーカップを手に、向き合って座っていた。
「それを、導師クレフにお伝えした?」
「……いいえ」
「どうして!? あなたに魔法を与えたのは導師クレフなのに」
プレセアは最初と同じくらいの驚きを見せた。
「……お願いプレセア、クレフには言わないで」
「え? ……だから、どうして」
なぜなのか、海にはうまく言葉にできない。でも、クレフにだけは知られたくないと、使えなくなった瞬間に思ったのだ。迷惑をかけたくないからなのか、呆れられてしまうのが怖いのか。それぞれ答えではあるが、全てではない、という気がした。

「……光と風は、問題なく使えるみたいなの。だから、私だけに原因があると思うの」
だからといって、クレフに相談しない理由にはならない。プレセアも当然そう思っただろうが、ふぅ、とやがてため息をついた。
「何か、心当たりはあるの?」
「……分からないわ。今までどうやって魔法を使ってたかさえ、もう分からなくて」
しばらく黙って、紅茶の表面に視線を落としていたプレセアは、不意に顔を上げた。

「いい? ウミ。『セフィーロ』は、意志の強さが全てを決める世界。自分の『願い』が何か分かっていて、それを追い求めようとする者には、その手段として『魔法』が与えられる。あなたたちの場合は、『セフィーロを守りたい』という『願い』が、あなたたち自身の魔法となって表れていたのよ。……今のあなたは、何を一番望んでいるの?」
「……私」
「セフィーロを守ること以上に、大事なことができたのね?」
言葉に詰った。可能性として考えてもいなかったことが、不意に頭の中に閃いたのだ。でもそれを、口にすることができなかった。望んでも、どうしようもない「願い」だと分かっていたからだ。

「……分かったわ」
黙ってしまった海に、プレセアはいたわるようなまなざしを向けた。
「あなたが魔法をつかえない、理由。あなたは今、自分の『心』を殺してしまっている。自分の本当の気持ちに、『願い』に背を向けてしまっている。自分の願いを否定する者に、魔法は反応しないわ」
「でも」
気づいた時には、押し込めていた言葉が口をついて出ていた。
「確かに、このセフィーロでは『願い』の強さが全てを決めるわ。でも、その『願い』が誰かに対するものだったら? 『誰か』が、自分の望みの通りにこうなればいいのに、って思ってしまったら? いくらセフィーロでも、他人の心を変えることはできないし、すべきじゃない。違う?」
「……ウミ」
「そんなの、かなわないし、かなうべきでもない。分かっていてもどうにもならないの。そんな願いを持ってしまったら、どうしたらいいの?」

海は、両方の掌で顔を覆った。そう、私は分かっている。自分の気持ちを伝えても、彼は応えてくれないだろうということを。この世界には、たくさんの『願い』がある。誰にも届かないまま消えてしまう『願い』は、どれほど多いのだろう。何のためらいもなく、一筋に一つの願いのために戦った昔の自分を、うらやましいと思った。

ぎし、とソファが動いた。すぐ隣に、プレセアが腰掛けたのが分かった。細い指の感触を、肩に感じた。
「……ねぇ、ウミ。エメロード姫が望んでかなわなかったことが、ただひとつだけある。それが何か分かる?」
「……え?」
海は思いがけない問いかけに、顔を上げた。エメロード姫の名前は、いまだに海の心をズキリと疼かせる。プレセアは、まっすぐな目をして海を見返していた。
「あのエメロード姫でさえ、誰かを愛する気持ちを止められなかった。でも今は、あの時とは違うわ。あなたは誰かを自由に愛していいし、気持ちを伝えてもいいし、望んだっていいのよ。誰も、あなたを止めることはできない。それこそが、エメロード姫が本当に望んだ世界だったんだから」
「……プレセア」
「好きな人がいるのね」
その目でわかった。プレセアは、海が想っている人が誰なのかも分かっている。今までの会話を考えれば、想像がつくことかもしれなかったが、プレセアの鋭さに海は驚いた。

「……ありがとう、プレセア。私、もういちど考えてみるわ。どうすれば一番いいのか」
かたん、と音を立て、海は立ちあがった。状況がよくなったわけではないにせよ、プレセアに話して気持ちが落ち着いていた。なにより、魔法が使えないのがなぜなのか、納得できた。
「……無茶しちゃだめよ、ウミ。魔法が使えないことを忘れないで」
扉のところまで送って出たプレセアは、心配そうな目をしていた。プレセアも、恋をしたことがあるのだろうかと、ふと思った。こんな風に、くるしい思いを抱えたこともあったのだろうか。もし自分がそれを知ることがあれば、出来る限りの力になりたいと思う。こくんと頷き、海はプレセアの部屋を後にした。








* last update:2013/8/26