初めて「東京」に来た時の記憶は鮮烈だった。 人間より動物の数のほうが遥かに多い田舎に生まれ育った、当時七歳のわたしは、東京タワーの展望台からの景色から目が離せなかった。見渡す限りの建物・建物・建物。晴れていたのに、地平線は見たことのない灰色によどんでいた。 東京というイキモノの全容を目の前にして、憧れはなかった。ただただ、圧倒された。 自分のふるさとと地続きにこんな場所があるのだという実感がまるでなく、ここで暮らす人々の生活が想像もつかなかった。 夢のない「不思議の国のアリス」の世界に迷い込んだような、非現実的な気分だった。 まさか20年近く経った後、この東京で暮らすことになるなんて、夢にも思っていなかった。 七歳の時に、とことんまで非現実的と思った街で始めた生活は、やはり現実味がなかった。 自分自身が灰色の膜に覆われてしまったようで、全てに色がなく、誰の声も心の深いところには届かなかった。 でもわたしは、それが逆に心地よかったのだ。明確すぎる刺激は、あの頃のわたしには強すぎた。 それは―― アンティークきもの屋「なつめ堂」で、わたしが暮らし始めた頃の話。 *** 冬の早朝。 私は暖簾を手に、なつめ堂の引き戸を開けた。途端に冷たい風が吹き付けてきて、首をすくめる。 東京の冬は空気が乾燥していて、上着を着ていても襟や袖の隙間から冷たい風が入り込んでくる。 しんしんと冷えるけれど湿度はあった故郷の冬とはまったく違っていた。 慣れない手つきで暖簾をかけ、人通りのない通りを見回した。その時ちょうど建物の隙間から、朝日が差し込んできた。 その日差しは意外なほど暖かく、頬にぬくもりを感じる。通りには、長く建物の影が差し込んでいた。 見上げると、建設中のスカイツリーが目に入った。まだまだ高くなるそうだが、見上げるとその高さに目がくらんだ。 少し離れて、東京タワーの姿も見える。かつて東京で最も高い建物として人気を集めていたけれど、今はもう、スカイツリーの影になっている。 そのうち取り壊されるのでは、という噂をきいていた。この東京ではそんなことは当たり前にちがいない。新しいものさえ、さらに新しいものに次々と取って代わられる街だ。 「あれ? ここの店長さん、こんな若かったっけな?」 突然後ろから声をかけられ、ぎくりとして振り返った。すると、自転車に乗った人がよさそうな中年の男の人と目が合った。彼は自転車を止めて、着物姿の私を上から下まで眺めた。着物の着方がおかしいのかしら? 私は居心地悪く、心持ち後ろに下がった。 「……前の店長さんは、隠居されました」 「そうなのかい」 大げさなくらい、その男の人は大きくうなずいて続けた。 「あんた、まだ早いのに精がでるねぇ。若くて綺麗な人がいると活気があっていい。がんばってくれよ」 「ありがとうございます」 まるでずっと昔から知り合いのような笑顔を向けられ、戸惑い気味に頭を下げた。すると、悪意のない笑みを向けられた。 「固い固い。あんた、商売の経験ないのかい。そんなんじゃ、お客はつかねぇよ」 走り去る自転車を、私はほっとして見送った。この場所は、江戸時代からの下町ということもあって、意外なくらい人々は人懐っこい。淡白な人間関係を想像していた私には、当時の空気は厄介にすら感じられるものだった。 太陽が高く上るころになると、この裏通りも人が多くなってくる。私は着物に前掛け姿で、たった一人で店頭に立つ。誰かを雇う余裕はなかったし、この小さな着物屋の運営は一人で十分だった。 私は、お客さんに乱された着物を、ひとつひとつ機械的に畳みなおした。着物を畳むのは洋服より手間がかかるが、黙って没頭しているのは嫌いではなかった。誰が縫ったのか、縫い目が細かく美しく揃った黄八丈がある。これらの着物は全て、前の店主が買い入れたものだ。由来も知らない私にも、この着物がとても上質で、大切に扱われてきたものだということは分かった。 ひととおり畳みなおすと、私はレジの奥に引っ込んで、店内をざっと見回した。20畳ほどの店内に、お客さんは常に2〜3人ほど、女性のグループ客がほとんどだった。着物よりも、おしゃべりに夢中になっている人々ばかりだ。 たった一人でお店を切り盛りするのは、気づかれがするだろうとよく回りからは言われるが、そんなことは全然なかった。 積極的にお客さんに話しかけない私は、下手をすると一日中、ろくに誰とも会話しないことも多かったのだ。 夜、布団に入りながら、そういえば今日は誰ともまともに話していない、と思ったりする。たまに交わす会話も仕事のやり取りばかりで、たとえば「おはよう」とか、「今日何食べる?」とか、そういう当たり前の会話を誰ともしていない。 でも、さびしいとは思わなかった。誰かと近く関わることに、嫌気が差していたからだ。 全てが、映画館のワンシーンのように他人事に見えていて、それが逆に心地よかった。 その日も、いつもと同じ一日が終わろうとしていた。既に通りの店は暖簾を下ろし始めている。 お客さんが切れたタイミングで、前掛けを外す。そして暖簾をかけたままの入り口に歩み寄った。 全く無警戒だったその時、引き戸が急に外側から開いた。誰かいたなら足音や話し声がするのに、全くの無音だった。 驚いたのは、冷たい風が店内に強く吹き込んだからではない。入ってきた一人の男性に、目が釘付けになっていた。 肩まで伸ばした髪はハッとするほど黒く、肌は透き通るように白い、20代半ばの和服の男性だった。 歌舞伎界の人か、それとも茶道の名家にでも生まれたのか、なんとも言えず風情のある、姿のいい人だ。 一目見て、その存在感に圧倒された。漆黒の瞳が、私を捉える。なぜだか分からない、でもその瞬間、延々と流れていた映画は終わり、私は突然現実の世界の中に放り込まれたのだ。 「い……いらっしゃいませ」 かすれた声が、生々しく頭の中に響く。どくん、と鼓動が高まった。手に握った前掛けの感触、店内に吹き込んだ風の冷たさ、並べられた着物の色鮮やかさが突然頭の中に飛びこんでくる。 男の人は軽くうなずき、迷いなく店内に入ってきた。そして、着物を並べている棚の前でざっと視線を走らせた。いつもだったらどうしていただろう、と思うが思い出せない。所在無く、その人の後ろに立った。思いがけず広い背中を見せたその人は、ちらりと私を振り返った。 「この着物は、以前は誰のものだった?」 彼が指差していたのは、堂々とした黄八丈。そう尋ねられて、口ごもった。知らない――綺麗で、丁寧に扱われていた着物だと想像していただけで、実際のところ私はこの着物について何も知らなかった。いつ作られ、誰が着て、どんな経緯でこの店に来たのか。 途端に、カッと恥ずかしくなった。この店は古着を置いているのだから、背景が気になるのは当然ではないか。私は、お客さんが何を気にして着物を買うかと言うことさえも、想像してみたことがなかった。 「……申し訳ありません。存じておりません」 嫌な汗が背中に浮かぶのを感じた。見つめてくる、その人の視線が痛かった。お前は、自分でもなんだか分からないものを売っているのか、と言われてもおかしくない場面だった。 「……この店の店長か?」 「は、はい」 叱責を覚悟したとき、ふわりと空気が動いた。顔を上げると、その男の人は私の前を通り過ぎ、入り口の前に立っていた。全く足音が聞こえなかった。 「そうか」 彼は淡白にそれだけを言うと、そのまま店を後にした。 閉まった引き戸を見て、私は思わずその場に、しゃがみこんでしまった。彼が残していった強烈な存在感が、まだ店のあちこちに残っている。ふう、と大きくため息をついて、赤みが差した頬を、自分で軽く叩いた。 どれほどの時が経ったか、辺りは静まり返っている。私は暖簾を下ろし、丁寧にレジの奥に片付けた。そして冷たい井戸水をバケツにくみ上げ、雑巾を指先が赤くなるまで固く絞った。水仕事を教えてくれたのは、祖母だった。水がひたひたになるくらいの絞り方では駄目だ、固く固く絞りなさいといわれたことが耳によみがえる。 着物をひとつひとつ棚から下ろし、棚を磨き上げた。掃除は怠っていないつもりだったが、それでも細かい埃が溜まっているのをぬぐう。全ての棚や戸を拭き終わり、棚が乾いたのを確認してから、着物を戻した。全部終わった時には、辺りはとっくに真っ暗になっていた。 「――もしもし」 静かな店内に、私の声だけが響いている。しばらく聞いていないだけなのに懐かしい声に、耳を澄ませた。 「ええ。この店にある着物について、教えて欲しいんです。ここに来るまでの物語が知りたくて」 「ようやく聞いてきたね。明日の夜、お店に行って教えてあげるから」 まだ元気なのに、縁もゆかりもない私にぽんと店を譲ったその人は、笑っていた。私の思い違いでなければ、少しうれしそうにも思えた。彼女に私は、今日最後に遭ったお客さんの話をした。 「なるほど。いいお客さんに遭ったね。いいかい棗ちゃん、あんたがきものをどうでもいいものとして扱ったら、着物をどうでもいいと思うお客さんばかりが来るようになる。目が利く人は、そんなことは分かるものさ。もうそのひとは、店には来ないかもしれない。でももしも来てくれたら、今度は常連さんになってもらえるよう、がんばりなさい」 「……はい」 彼女の言葉は、まるで全て見ていたかのように的確で。その分、私の心を深く抉った。こんな風に、誰かの言葉に傷つくのも久しぶりだ。 「あんたは、辛い思いをしたからね」 彼女の声は優しくなった。 「まだ全てが、非現実的に思えるのかもしれないけど。丈夫な身体があるんだ。この『東京』で暮らすって決めたんだろ? じゃあ、しっかり働かなきゃ。働いて、愛されて、地に足をつけて生きていくんだよ」 「はい……ありがとうございます」 流れてきた涙が着物に落ちないうちに、あわててぬぐった。私は自分ひとり生きていくのに精一杯なのに、彼女は人の心を思いやるだけの懐の深さを持っている。彼女に会いたい、と思った。そしてようやく私はその時、自分がずっと、さびしかったことに気づいたのだ。
2014/1/26