それから……何年もの時間が流れた。
その日、閉店時間をすぎた店内には、お客さんの姿はなかった。

がらり、とぞんざいに引き戸が開き、レジの奥にいたわたしは身を起こした。どうやらお客さんではなさそうだ。
「はーい」
店に出ると、
「おー寒い寒い」
肩をすくめて入ってきた、近所の饅頭屋の主人と鉢合わせした。

「棗ちゃん、遅くまで精が出るねぇ。これ、あまりものだけど良かったらどうだい」
手にした布巾の下から出てきたのは、皿に乗った豆大福がみっつ。
「これ、好きだっただろう。珍しく売れ残ったんでね。俺らはもう食べ飽きてるから」
「ありがとうございます!」
残ったのを見て、わたしの顔を思い出してくれた気持ちがうれしかった。それに確かに、豆大福の素朴な味は大好きだった。
「まだ店、閉めないのかい」
「ええ、あと少しだけ」
「風邪が流行ってるようだから、気をつけなよ」
「はい。ご主人も」
再び一人になり、レジの横に置いたお皿を見下ろしてみる。みっつ、好きではあるけれど一人で食べるにはちょっと多い。なんとなくだけれど、今日は久しぶりのお客さまがある気がしてならなかった。いつも閉店間際にくる彼を、今だって待っていたのだ。もうちょっととっておこう、と元通りふきんをかぶせた。

引き戸の向こうで話し声が聞こえたのは、ほどなくのことだった。
「この店だ」
聞こえた声は、それだけ。わたしは、反射的に立ち上がった。声は、待ち人――冬獅郎くんに違いなかった。でも、声の質がいつもと違っている。いつもより丁寧で、誰かに気を使っているような声音。一緒にいるのは、乱菊さんや夏梨ちゃんではない。

「いらっしゃいませ」
わたしは入ってきた二人に頭を下げた。
「どうしたんだ? 今日はやけに丁寧だな」
冬獅郎くんは、いつもと違うわたしの態度にきょとんとしている。前にこのお店で買っていった、若草色のきものを着ていた。春を先取りしたような明るい色彩だ。最初薦めたときは、普段こんな色着ねぇし、と渋られたが、絶対に似合うからと言ったものだ。今改めてみると、こんな色合いも自分のものにできるのは流石だと思う。

でも、わたしの視線は、冬獅郎くんの後から入ってきた男性に、すぐに釘付けになった。
「なんだ? 知り合いか?」
気づいた冬獅郎くんが、その男の人とわたしを見比べる。
「ええ。……前に一度、来ていただいたことが」
驚きのあまり、それきり言葉が出てこなかった。濡羽色の髪に白皙の肌、数年前と全く変わりない姿で、あの男の人が立っていた。当時のことが一気に記憶によみがえる。

あれきり来てくれなかったこの人が、いつかこの店に来てくれることは想像したことがあったけれど。冬獅郎くんが連れてくる、というのは予想外だった。でも考えてみると、二人が持つ強烈な存在感、そしてわずかな「違和感」は共通していた。当時は気づかなかったけれど、冬獅郎くんを知った今ならはっきりと分かる。
―― この人も、死神だ・・・

「こっちは朽木白哉。同僚だ。俺が今着てるきものをどこで手に入れたのかと聞かれたから、連れてきた」
「……どうぞ」
朽木白哉、と紹介された彼は無表情のまま、店内に入ってきた。この店のことを覚えているのかは全く読み取れない。ただ、数年前に数分くらい滞在した程度の店のことを、覚えているほうが珍しい。

冬獅郎くんは、店に連れてきた時点で役割は終わったといわんばかりにレジの横に座ったけれど、すぐに豆大福に気づいた。そのまま奥の部屋へとすたすたと入っていったから、お茶を淹れてくれるつもりなのだろう。近くを横切ったとき、わずかにお酒の匂いがした。
たぶん、とわたしは想像する。けっこうな頻度であるらしい、隊長同士の懇親会の日だったのではないだろうか。冬獅郎くんはお酒はあまり飲みつけないし、この朽木さんもお酒や宴会が好きそうには見えない。きものを口実に、そうそうに宴会を辞して来たのかもしれない。甘いものが出てくる前に出てきたから、口直しが欲しいとか。本人に聞く気はなかったが、そう想像するのは楽しかった。

朽木さんは、わたしに背中を向け、棚のきものを見下ろしている。初めて会った時をほうふつとさせる光景だった。わたしは彼の斜め後ろに立った。
「……何をお探しでしょうか?」
「普段着を」
「それでは、こちらのきものはいかがでしょう」
 わたしは、敢えて一番高い価格帯のきものの棚に案内した。この人が今何気なく着こなしているきものは、一般的に言って最高級品にあたる。どうやら、相当に身分があるひとに違いない。
「これは?」
 彼がすぐに手に取ったきものからも、わたしの判断が間違っていないことが分かった。
「上段はすべて、大正時代……今から100年ほど前のきものです。貴族御用達の呉服屋で、貴族におさめる着物の見本として作られたものですので、実際に着られることはありませんでした。呉服屋の家でずっと眠っていたものですが、ご主人が亡くなったタイミングで息子さんが手放されたんです」
 着心地と見た目がどちらも優れた、店の中でも一番の自信作だった。今作られる着物は、豪華で見た目がよいが、着心地は考慮されていないものが多い。実際晴れ着として用いられることが多いからしかたないのかもしれない。でも普段着においては、日常的にきものが着られていた時代につくられたものが一番だと思っている。

「……では、これをくれ」
「ありがとうございます。こちらのきものですね」
「いや、この上段の着物全てだ」
「は……」
「はぁ?」
 思わず漏れた声が、奥から出てきた冬獅郎くんの声に隠れたのは都合が良かった。
「あんた、ちゃんと見たのか? 女物もあるだろうが」
「女物はルキアが着ればよい。これほどの品はなかなか手に入らぬのでな」
「さすがだな、棗。朽木がそこまで言うのは珍しいと思うぜ」
 そう言いながらも、盆に載せた急須と湯呑を持っているのはご愛嬌だ。

 買っていただいたきものは、全部で30着以上だった。これだけ一気にもらわれていくのは、初めてのことだ。ひとつひとつ丁寧に梱包しながら、いい家で使われるのだ、と思うと心が軽かった。

「……あの。ひとつ、お伺いしていいでしょうか」
 きものを包みながら、遠慮がちに切り出してみた。
「なんだ」
 彼は相変わらず無表情ながらも、その目に宿る光は冷たくはない。
「この店に、前に来られた時のことを覚えていらっしゃいますか?」
「ああ」
「……どう、思われましたか?」
 しばらくの沈黙があった。少なくとも、よい印象ではなかったに違いないのだ。質問したのを後悔しかけたとき、彼は思いがけないことを口にした。
「この店に来るのは、あの時が最初ではない。前の店主のとき、常連だった」
「この店、棗が始めた店じゃねぇのか?」
 驚く冬獅郎くんに、わたしは頷いた。
「わたしは二代目なの。一代目の店主は、夏目さんという女性よ。だからお店の名前も、なつめ堂」
 だから、以前わたしに「この店の店長か」と聞いたのか。思いがけない展開に、わたしも動揺していた。前に電話で相談したとき、外見も伝えたから、おそらく誰が来たか彼女は分かったはずなのに。なぜ、常連だということを告げなかったのかと思ったが、それはわたしに対する気遣いだったのかもしれなかった。

「彼女は息災か?」
 不意に尋ねられ、わたしは静かに首を横に振った。
「亡くなりました。わたしに店を引き継いで、一年後のことでした」
 店をわたしに譲ってくださったときは、隠居するのがもったいないほどお元気だったのに。わたしが自立できるようになったのを見届けるように、病気が発覚したのを境に急速に悪くなった。別人のようにやせ衰えながらも、性格は最後まで変わらなかった。人間が死ぬというのはどういうことか、人間に最後に残るのは何なのか、身をもって教えてくださったのだと思っている。行き場をなくしていたわたしに「なつめ堂」という居場所をくれた恩人でもあり、人生の師でもあった。
 
「そうか」
朽木さんは、静かに頷いた。
「以前来たとき、相変わらず良い品を揃えていると感心した」
「でも、あの時は何も買ってくださらなかった」
思わずそう口にしてしまい、余計なことを言ったと赤面した。彼も、少し気まずそうな顔をした。その場に、沈黙が落ちる。
「……あの」
いたたまれなくなり、余計なことを申し訳ありません、と言おうとした時、冬獅郎くんが口をはさんだ。
「正直に言えばいいだろ。持ち合わせがなかって」
「……え?」
「……普段ものを買う習慣も、金を払うこともないのでな」
「たまに買い物すると、金は後で付き人が払いに来るんだよ。前の店主だったときはそうしてたのが、別の店主になって戸惑ったってとこだろ?」
「……まあ、そういうところだ」
冬獅郎くんと朽木さんが、同時にわたしを見た。そういうことだったのか。その発想はなかった……とあっけに取られる反面、そんな理由だったのかと拍子抜けしていた。あの時、何も買ってもらえなかったのを気に病んでいたのだが、胸のつかえが降りた。現に今、わたしが選んだきものを買ってもらえたのだし。

「帰るのか。豆大福があるぞ」
「要らぬ」
「食っていけばいいのに」
「なぜ兄が薦める」
 そんなやり取りを経て、冬獅郎くんとわたしが、朽木さんを見送るという珍しいシチュエーションになった。いつも一人なのに、冬獅郎くんが隣にいると、なんだか心強くうれしくなる。意外とアニメ番組が好きだったけれど、今日何かやっていたかしら。
 きものは後で取りに来させる、とお金だけ支払った朽木さんは、手ぶらだった。
「……前に来た時は、高いほうの塔はなかったな」
 彼の視線を追って、わたしはスカイツリーと東京タワーに気づく。暗くなりかけた夜の空に、二つのタワーがくっきりと突き出している。
「同じようなモンを二本も立てて、人間ってのは分からねぇな」
「もっといいものができたから」
「なら、なんで古いほうを取り壊さねぇんだ?」
確かにそうだ。いつも新しいものが次々と作られ、これまであったものは壊されてしまうこの街で、東京タワーだけが今も残っている。取り壊さないで欲しい、という声が多く挙がったからだと聞いている。幼い日のわたしのように、東京タワーに思い出をもつ人が多いということだろう。

冬獅郎くんには、分からないかもしれない、と不意に思う。
次の時代を背負い、若竹のように伸び盛りのこの子には。彼はそれでいい、そうあるべきだ。
黙っていた朽木さんが口を開いた。
「過去への郷愁が必要なこともある。兄にはまだ早い感情かもしれんがな」
「……なんだよ、それ」
冬獅郎くんは不満そうだったけれど、わたしは思いがけず、その一言に慰められた。
アンティークきもの屋などという商売がまさに、過去を切り売りするようなものだからだ。
そこにいてもいい、と居場所を与えられたような気がした。
もっとも、誰かに存在を認められなければ不安になるほど、もう未熟ではないけれど。
「また、仕入れておいてくれ」
「はい! ありがとうございました」
ありがとうございます、と前の店主に声をかける。あなたの築いた人脈を、また生かすことができました。
あのすっぽり開いた棚に、次は何を仕入れようか。そう思うと、気持ちが弾んだ。




2014/1/26