あの女は、薄暗がりの中、俺をじっと見つめている。 あの女は、黒曜石のように黒く、猫のように大きく、まるで見るものに訴えかけるような目をしている。 あの女は、艶々と黒く、青みがかってさえ見える髪を、肩よりも少し下で断ち切っている。 あの女は、陶器のように白く皇かな肌を持っている。 あの女は、地獄しか知らない俺が初めて知った、詩(うた)だった。 「……切る、というのですか? この木を。こんなに綺麗な花が咲いているのに」 「綺麗だ? 分からねぇな。花は気に食わねぇ。弱いからな。すぐ枯れる」 「切らないでください。あなたが切らなければ、今ここに咲く花は死にますが、来年のこの季節に生き返ります」 「だがそれは元の花じゃねぇ。この地の人間が、死んでも死んでも次のが流れ込むのと同じだ」 「それでも。……切らないでください」 「は。お前を抱けるなら、考えてやってもいい」 「はい。それでこの椿を切らないならば」 男は、清澄な気配でその場に立つ女を見返した。 はらり、はらりと花弁が落ち、血のような色に女の足元は埋め尽くされている。 視界の底が、赤で染まった。 *** ばらばらっと豆を振りまいたように、雀が何羽か馬場に飛び下りた。 たちまち、掃き清められた土の上に、いくつも矢印型の足跡を押す。 茶色い頭をあげた先の空は、緋色に染まっている。朝七時、そろそろ夜明けの時間帯だ。 ふーっ、と馬は白い息を鼻から噴出す。 均された土を、蹄が蹴立ててゆく。ぐさり、とかすかな音を立てて、蹄の下で霜柱が崩れた。 雀は警戒の声を上げながら、再び上空に撒き散らされる。 ぱっと光が建物の間から差込み、向かい合う二頭の馬と、馬上の人を照らし出す。 一方は、白南風(しらはえ)という名の白馬。 絹のような白毛を、斜めから差し込んだ朝日が朱色に染めている。 鞍はなく、赤い手綱だけをつけた裸馬に跨っているのは黒衣の少年。 年のころはまだ十三歳くらいに見える。 輝くような髪の色は白南風よりも僅かに灰色がかり、銀髪だということが分る。 肌はあくまで白く、双眸は蒼い。 ゆったりと裸馬に跨ったその姿からは、肩の力が抜けている。 馬と人間が、一体になったように見える。 だらりと地面の方に下ろした右手には、一振りの日本刀の柄を握っている。 もう一方は、黒丞(こくじょう)という名の黒馬。 黒檀のように光の差さぬ、闇がそこだけ取り残されたような姿をしている。 同じく裸馬の上の人は女性。特徴的に大きな瞳は、漆黒。 艶めく黒髪を、耳の少し下で断ち切っている。首筋は、寒さのせいかうっすらと紅に染まっている。 きゅっと引き結んだ唇は、紅も差さないのに赤い。 少年と同じように、日本刀を右手で持ち、その峰を右肩に乗せている。 ほぅ、と吐いた息は、白く染まり、朝の空気に吹き散らされてゆく。 二頭の馬は、まるで互いの足跡で円を描くように、ゆっくりと大きく回っている。 馬上の二人は、無表情のまま互いを見つめている。 蹄が大地を蹴る音と、馬が息を吐き出す音以外に、馬場に音はない。 先に口を開いたのは、女だった。 「行きます」 丁寧な言葉遣いながら、相手に同意を求めるような言い方ではない。 自分はそうする、ということを、相手にただ宣言するように聞こえた。 担いでいた刃の切っ先をまっすぐに、男へと向ける。 「どこからでも」 言葉を胸で受けたように、男は少しだけ身を反らした。 女は、花車な足で黒丞の太腹を蹴る。弾丸のように、黒丞は女を乗せたまま、前へと足を踏み出す。 対する男は、馬の腹を蹴ったようにも見えなかったが、流れるように前へ出る。 すれ違いざま、女は上段から、男は下段から一太刀を浴びせる。 顔面に向かってひらめいた刃を、女は目を細めて迎え撃つ。 わずかに身をひねって、男の一撃をかわす。かわしざまに、すかさず刃を男に向けて斬り下ろす。 男は手綱をぐいと後ろに引き、横に逃れる。 再び馬が飛び離れた時、女は手元を見下ろし眉を顰めた。 かわしたはずの男の一太刀は、馬の手綱を傷つけていた。強く引けば、切れてしまうだろう。 「手綱、取り替えてくるか?」 男の言葉に、女は一度、首を振った。 「本当の戦いの時に、そう言ってくれる敵はおりません。このままで結構です」 集中力を散らしてはたまらない、とばかりに、男から目を反らさない。 男は、少しだけ肩をすくめて見せた。 「心を一点に絞るのはいい。でも、視界は狭めるな。四方に広げるんだ」 「心は内へ。視界は外へ……」 女は男の言葉を咀嚼するように、口に出す。しかし言葉は、うまくすとんと腹に落ちてはくれない。 目の前の男は、確かにそれを体現しているように見える。 ぐさりと正面から貫いてくるような強い瞳だが、同時にどんな脇から攻撃しても見切られていそうな気がする。 隙がない、と言葉にすれば簡単だが、体で示す難しさを女は知っている。 ぶるる、と黒丞が鼻を鳴らし、首を振る。それはわずかな動きだった。しかし、女の集中を乱すのには十分だった。 押しだされるように、女は馬を前に進ませる。足で再び横腹を蹴る。 白南風も同時に滑らかに前に出た。五メートル、三メートル、互いの距離があっという間に狭まる。 女が刀を振り上げた瞬間。黒丞はいきなり、前足を伸ばしてその場に踏ん張った。 あっ、と声を上げる間もなく、女の体は前へ投げ出される。 鬣を掴もうとした手は、首を跳ね上げた馬に振り払われる。 ぐらりと斜め下に崩れるように、落ちた。目の前に、すれ違おうとした白南風の前足が迫る。 蹴られる。かわすこともできず、背筋にぞおっと寒気が駆け上る。 男は一瞬動きを止めたが、すぐに背後に手綱を引いた。 馬がその場に足を止めるのと同時に、その背から自ら滑り落ちる。 女の目には、男が自分に向かって手を伸ばすのが見えた。 肩をつかまれた、女がそう思った時には、小柄な体はやすやすと宙を舞っていた。 ざっ、という固い音に、目を開ける。予想していた痛みは、体のどこにもなかった。 一瞬、何が起こったのか分からなかった。 右肩を、男の手が掴んでいる。背中に、男の腕の筋肉を感じた。 見上げると、男の横顔が、思いがけないほどに近くにあり、思わずのけぞる。 「怪我は」 そう聞かれて初めて、男が身を挺して空中で女を捕らえ、抱き下ろしたのだと理解できた。 主人を失った二頭の馬は互いに、当惑したように立ち止まっている。 黒丞は、荒っぽく蹄で土を蹴立てている。気が立っているのが、その動きから一目瞭然だった。 「黒丞――」 男が女を地面に降ろし、立ち上がりかけた時だった。 いきなり宙を裂いて飛んできた何かに、ハッと顔を上げる。 女には、それはただの閃光に見えた。しかし男は、まっすぐに顔面に飛び込んだそれを右手で受け止める。 「……小太刀?」 男は眉を顰める。女は、その刀に見覚えがあった。鍔の部分に、椿の花の紋様が入っている。 「何をしている。日番谷隊長、ルキア」 抑揚のない男の声が、その場によく通った。女……ルキアは、弾けるように顔を上げ、歩いてくる男を見上げた。 「兄様! いつここへ」 薄青い単衣を皺一つなくまとい、腰にはぴしりと帯を巻いている。漆黒の髪が、風に揺れている。 姿勢のよい、姿のいい男だ。目下の状況を、眉間にわずかに皺を寄せて眺めている。 ぶるる、と鼻を鳴らし、黒丞がその男に駆け寄った。 「……も、申し訳ありません、日番谷隊長!」 抱きかかえられている、目下の状況に気づいたルキアが、頓狂な声を上げた。 そして、その腕から逃れようと咄嗟に体をひねる。男……日番谷冬獅郎は、ため息をついた。 「ただの修行だ。いきなり小太刀を投げつけなくてもいいだろ」 「日番谷隊長。何か」 「何も」 言い争ってもムダだと思ったのか、いち早く日番谷はルキアを解放して立ち上がる。 そして、朽木白哉が黒丞を諌めるのを見やった。 「その馬、躾がなってねぇぞ。今、朽木を振り落とした」 「黒丞は、女を嫌う」 白哉の答えは短かった。そして、妹を無表情に見下ろす。 「お前は知っていたはずだ。なぜ、白南風ではなく黒丞に乗った」 「乗れる馬に乗っても、稽古になりませぬ」 「こいつは、やめておけ。一歩間違えば重傷を負うと分ってて、わざとお前を振り落としたんだ」 その場にいただけ、日番谷の言葉には真実があった。 ルキアは唇を噛み締め、黒丞の黒曜石のような瞳を見上げる。 白哉に鼻面を摺り寄せるその姿は今は優しげで、とてもそんな悪行を働いたようには見えない。 しかし、今起こったことは、紛れもない事実。 そして、ここ数ヶ月、何度でも繰り返されてきたことでもある。 誰にも言っていなかったが、そのおかげでルキアの全身には打撲傷が絶えない。 「幾度も言わぬぞ。黒丞は、やめておけ」 兄の言葉に、ルキアは唇を噛む。頷かぬ妹に、白哉の眉がピクリと動いた。 「とにかく。今日の稽古はこれで終わりだ」 その場の微妙な空気を察知してか、日番谷が大きな声を出す。 馬場の入り口から顔を覗かせていた馬丁に、掌をあげて合図を返した。 「……よろしければ、朝食を召し上がって行ってください。台所に指示してまいります」 顔を上げたルキアの表情に、さきほどまでの頑なさはなかった。 そして二人に目礼すると、足を速めてその場から立ち去る。その後姿を、二人は何となく見守った。 *** 艶のある米からは、ほかほかと湯気が上っている。 茶碗一杯の米と、味噌汁。そして白身魚の西京漬と、白菜の漬物が少々。 朽木家として客人にこんな質素な食事は出せぬ、という台所を頑なに断った日番谷は、白哉と膳に向き合っている。 流魂街で暮らしていたのは遥か昔だが、そのときは米の飯に、一汁一菜あれば十分な方だった。 おかずは梅干だけとか、漬物だけという日も珍しくはなかったくらいだ。 そのときの習慣がいまだ尾を引いているのか、朝だけでなく基本的に昼も夜も粗食が体に合う。 一方、懐石料理みたいだな、と次々と朽木白哉の前に運ばれる膳を見て、思う。 こんな生活を日々繰り返していて、よく胃がもたれないものだと、ある意味感心する。 「朽木ルキアはどうした」 日番谷が尋ねると、黙々と食事を口に運んでいた白哉は無表情に答える。 「ルキアは昔より朝は果物ひとつで済ます習慣だ。今の季節は林檎だ」 自分より上手がいた、と思ったが、ふぅん、くらいしか返す言葉はない。 あのルキアが、こんな懐石料理を朝から平らげるところは、確かに想像できない。 だからと言って、鳥でもあるまいし朝から果物だけで、厳しい死神業がよく勤まるものだとも思う。 とっさに体を受け止めた時驚いたが、ひと一人の体重と思えないくらい軽かった。 「ご馳走様でした」 日番谷は茶をぐいと飲み干し、膳に戻した。時間はまだ七時半を回ったところだが、 私室に戻って風呂に入り、身支度をすれば、隊首室に到着するのは始業ぴったりになりそうだった。 「また来週、来る」 短く言って立ち上がると、白哉の声が追いかけてきた。 「ルキアの稽古につき合わせて、礼を言う」 「……かまわねぇよ」 氷輪丸を腰に帯びながら、短く返した。改まって礼を言われても返しに困る。 この男から、ルキアの稽古を頼まれて早一ヶ月になる。 本来、頼まれなくとも、斬魂刀の属性が同じな以上、自分がルキアの面倒を見るのは自然な流れだと思っていたくらいだ。 氷雪系は氷雪系、炎熱系は炎熱系でそれぞれ力の序列がある。 力が上のものは、下のものに修行をつけてやるのが慣わしとなっていた。 ふと見れば、遠く離れた庭の入り口のあたりで、馬丁が黒丞と白南風を並んで歩かせているのが見えた。 さきほどの暴れ方は嘘かと思うほどに、しずしずとした足取りである。 「……どう見る? ルキアの力を」 何となく目で追っている日番谷に、白哉が尋ねる。 「間違いなく席官レベルだ。十三番隊なら、あの第三席二人の下につくくらいの実力はある」 迷わず日番谷はそう返した。無席の者を評するには、極端ともいえる。しかし白哉は驚いた様子は見せなかった。 「……兄(けい)の目は確かだからな。異論はない」 身内の者が力をつけたのなら、普通なら喜ばしいところだ。 しかし、どことなく渋い顔をしている白哉に、日番谷は思わず苦笑いした。 ルキアがとうに席官になるべき実力を持ちながら、席を持たない影には、この兄の圧力があるのは周知の事実だ。 兄として、妹がより危険を伴う席官になるのを厭う気持ちは、席官の業務がどれほど過酷か知っている日番谷には良く分かる。 しかし、ルキア自身はどう思っているのだろう、とふと思うこともあるのだ。 入隊時は、貴族の娘だから卒業後すぐに十三番隊に入れたのだと、同僚さえ陰口を叩いたという。 それが事実なのか事実でないのか日番谷には興味がない。 しかしその噂が当時消えなかったということは、疑いを跳ね返すほどの実力はなかったのだろう。 しかし長い時間を経た今では逆に、なぜあの実力で席官ではないのか、という声も聞かれるようになった。 目立たぬところで、どれほど彼女が努力を重ねているか、ここ数ヶ月彼女と向き合う中で、理解できるようになっていた。 美、というものに疎い自分でも、袖白雪は美しいと思う。 朽木ルキアの凛とした立ち居振る舞いを目にし、刀の向こうにある大きく澄んだ黒い瞳にじっと見すくめられると、 相手が格下だということも忘れ、本気で対峙しなければ失礼だと思う。 だからこそ思うのだ。ルキアは、明らかに不自然な無席の立場に、納得しているのだろうか? 納得しているのなら、日番谷が口をはさむようなことではない。 ただ、もっと高い舞台で、その戦いが見れぬのは、惜しい、とは思う。 遠くで、ルキアの気配を感じた。どうやらまだ、稽古にいそしんでいるらしい。 その霊圧を背中に感じながら、日番谷は朽木邸を後にした。
藍染の戦いから二十年後のルキアが無席、というのは捏造設定です。あしからず。 あと、黒丞は『花の名』が初出です。
last update:2011/10/4