一ヶ月が、瞬く間にすぎた。
季節は二月、ソウル・ソサエティでも最も雪の多い季節に入っていた。
一晩中続いた吹雪の影響で、これが全部米ならいいのに、と流魂街の人間が嘆息するほどの雪が積もっていた。
四十センチほど積もった雪は、流魂街の弱い屋根を数限りなく破壊し、草履の足元を息も詰まるほどに凍てつかせた。
流魂街の住人は、さすがに思いもしなかっただろう。
死神たちが、手に手にシャベルを持ち、流魂街の雪かきを手伝いにやってくるとは。
「本当にありがとうねぇ、こんな年よりには雪かきは大変でねぇ」
死覇装に色とりどりの襷を掛けた女死神たちに、軒先から顔をのぞかせた老婆が何度も頭を下げている。
隣の屋根の上では、草履を藁靴に履き替えた男の死神が、金槌の音を高く響かせている。
カアン、と澄み渡った金属の音が、真っ青な空に高く響き渡っている。
まるで祭の日のような活気が、流魂街の一角には広がっていた。
雪も青く見えるほどの晴天につられて、家にこもっていた住人たちも三々五々と連れだち、物珍しげに死神を眺めている。
「一体どこの隊なんだい、死神が俺たちを助けてくれるなんぞ、前代未聞だぞ」
「十番隊だって。ほらあそこの、児団坊さんの肩の上に乗ってるのが隊長さんだって。潤林安に昔いただろう、銀髪で緑の目の…」
「ああ、あの時の子かい! 立派になったもんじゃないか」
ひと固まりの男女が見上げた先には、十メートルはあろうかという人並みはずれた大男が突っ立っていた。
ただでさえ高い身長を、さらに背伸びしているから余計大きく見える。その肩の上に日番谷の姿があった。
「褒められてんじゃねぇか? 冬獅郎」
「どーだか」
古い馴染みの男は、大きな口を開けて笑った。足を踏み外せば、口の中に飲みこまれてしまいそうだ。日番谷は足を引いた。
そして、眼下に広がる流魂街の街並みを見下ろした。10メートル以上の高さから見れば、高い建物がない流魂街は、地平線の上に横たわる山の形まで見渡せる。
朝の段階では真っ白にしか見えなかったが、道路や軒先の雪が除かれ、黒い土が見えている。
転々と散った死神たちが、最後の片付けにいそしんでいる姿に、日番谷は目を細めた。
「お前なら、こんなこと部下にさせねえでも。雪を降らせねぇようにもできるだろうによ」
児団坊が首をかしげる。日番谷が、天候を操ることができる刀を持っていることを指しているのだ。
しかし日番谷は、苦笑いして首を振った。その腰に帯びた長刀の柄に手をやる。
「よほどのことがなければ、この力は使わねぇことにしてる。雪雲をこの地から追い払ったところで、消えてなくなるわけじゃねぇ。
追い払った雪雲が、別の場所で寒気とぶつかるとするだろ。そうなれば、本来降るはずだった量よりもとんでもなく多い雪がその地には降る。
自然は、俺たちの都合でいじくっていいものじゃ本来ねぇんだ。必ずどこかで、しっぺ返しが来る」
「……お前、成長したなぁ」
「これくらいのこと、前から考えてた」
「いや、それはそうだろうけど。お前がこんなに一度にしゃべるの、前はなかったぞ」
「そこかよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
日番谷にとって児団坊は、思ったままの表情を見せられる数少ない親友だ。
今回のように仕事がらみで顔を合わせると違和感を感じるが、たまにはいい、と思った。
しかし、その笑みはすぐにひっこめられる。
「……何やってんだ? あいつら」
日番谷が指さした方を児団坊が見やる。
「雪合戦だな」
こともなげに断じた。確かに死神たちが数人、流魂街の子供たちと雪玉を投げ合って遊んでいる。
「思いっきり勤務時間中だぞ」
「よせよせ」
今にもそちらに行きそうに身を乗り出した日番谷を、児団坊が止めた。
「どうぜ、敵なんかいねぇんだ。隊舎にいたところで、座布団をあっためてるくらいが関の山だろ、違うか?」
「……。否定はしねぇけど」
隊長はいつまで経っても固物ですね、と副官の松本乱菊に言われたことを思い出す。
確かに、規則通りでないと何だか理不尽な気がするあたり、そう言われても仕方がないのかもしれないが。
風に乗って、笑い声が聞こえてくるのを聞いて、日番谷はひとつ、ため息を漏らした。
「……つい最近までは、戦争の残務処理に追われてたっていうのに。変わったもんだ」
「いいじゃねぇか。平和ってことだ」
「平和?」
日番谷は、ふと聞きなれない言葉を聞いた気がして、鸚鵡返しに聞き返した。
考えてみれば、隊長になってからすぐに、藍染の反乱に巻き込まれた。
藍染が世界から追放された後も、弱体化した瀞霊廷を狙って次々と敵が押し寄せてきたから、引き続き戦争のようなものだった。
反乱から五十年が経ち、やっと敵の襲撃も減り、ソウル・ソサエティは静寂を取り戻している。
「これが、平和ってもんなのか」
目にしてみて初めて、これまでの自分には縁がなかった状態だと感じる。児団坊は、何気なく言った日番谷の言葉に笑い出した。
「分からねぇか? 平和ってのは、これまで毎時間鳴ってた緊急警報が鳴らなくなったり、隊葬が今年に入ってまだ一度もないことだったり、することじゃねぇか」
「よく知ってんな」
「ここにまで警報は聞こえてくるし、隊葬なら死神の格好で分かる。あれは、ヤなもんだ」
日番谷は、その言葉には答えず目を伏せた。何人の隊士を見送ったか、空で言うことができる。
一人ひとりが、何十年たっても忘れられないほどの、傷として残っている。
「死神が雪合戦することだったりしてな。……いいじゃねぇか。やっと手に入れた平和だ」
「……そうだな」
数限りない、犠牲の上に成り立った平和だ。
次の瞬間には崩されるかもしれないが、だからこそそっとしておいてやれ、という児団坊の気持ちは、同じ時を過ごしてきた日番谷にも痛いほど分かった。
ため息をついた時、金色の長い髪を波打たせて駆けてきた女死神にふと視線が止まった。十番隊の副官、松本乱菊の姿である。
日番谷と目が合うと、くいっ、と親指の先で瀞霊廷のほうを指差した。
「隊長! そろそろ、隊首会ですよ」
「分かった。今行く。……児団坊、小一時間ほど経ったら、隊士を引き揚げさせてくれ。お前の声なら全員にとどくだろ」
「おぅ、任しとけ」
軽く手を上げて挨拶すると、日番谷はひょい、と児団坊の肩から飛び降りる。そして足音もほとんどさせず、ひらりと乱菊の隣に飛び下りた。
「たーいちょっ♪」
とたんに飛びついて来た副官から、すげなく身をかわす。
振り返ると、抱きつこうとしたらしい乱菊は、その場で数歩たたらを踏んで、立ち止った。
手には、深緑色のマフラーを持っている。ふくれっ面で上官を見返した。
「もう、この寒いのにマフラーひとつしないんだから。かけてあげようと思っただけです」
「マフラーはよこせ。お前は飛びつくな」
「ひっどい!」
寄こしませんよー、と唇を尖らせる乱菊は、さっき雪合戦をしていた少年よりも幼く見える。
「遊んでる場合か。さっさと行くぞ」
「はーい」
死覇装の袖を翻して歩き出すと、素直に乱菊もついてくる。すぐに肩が並んだ。
瀞霊廷に足を踏み入れたところで、乱菊がまじまじと見ているのに気づく。
「何だ?」
「いや、身長、並んじゃったなぁ、って思って」
「直に追い越すぞ」
これまでなら、まだまだ抜かれません、と胸を張っていた乱菊は、すぐには何も返さなかった。
代わりに、ため息をつく。白い息が、前にこぼれる。
「前は、この胸で隊長の頭をはさむのが楽しみだったのに」
「……冗談じゃねぇ」
顔がひきつるのが分かる。偶発的な事故だと思っていたが、わざとやっていたとは。
しかし、日番谷が乱菊より頭ひとつ以上、低かった昔だからこそできることだ。
しかし、日番谷がどれほどうんざりした顔をしようが、それが通じるような女ではない。
何を思ったか、乱菊が突然ニヤリと笑う。反射的に、厭な予感がする。
「そういえば隊長、最近逃げるようになりましたね、あたしが抱きつこうとすると」
「なんで俺が逃げなきゃいけねぇんだ。かわしてるだけだ」
「同じことでしょ」
「何が言いたいんだよ」
「前は、オッパイが頬っぺたを直撃しても、迷惑そうな顔するだけで無関心だったのに。隊長ったら、思春期ですか?」
「……。やかましい」
全く、人が成長したら成長したで、あれやこれやと余計なことを言う女だ。
噛みつくように日番谷が言った時、急に頭上に影が差した。塀の上に下り立った人影に、俺は眉間に皺を寄せた。
真っ青な空の下ででは、その服の赤はまぶしいように見えた。
「……また、余計な女が増えた」
「余計な女ってなんや! しばくぞ!」
目が合った途端に落胆した日番谷を見て、猿柿ひよ里は無意味に胸を張った。
ぴょい、と軽い動きで、塀から地面に飛び下りる。
「エエもんもってるやん、ウチに貸し!」
乱菊が持ったままになっていたマフラーを有無を言わさず取り、首に巻いてしまう。
何十年も前からトレードマークのように着ている赤いジャージに、緑のマフラーが全く合っていないが、
ひよ里はそんなことは全く頓着していない。
言い合いながらも、日番谷は足を緩めない。
行き交う死神達は、この見知らぬ女に驚きの表情を投げかけてゆく。
一度目は、隊長にぞんざいな口をきくことに驚き、二度目に、死覇装とはかけ離れた恰好に驚いているのは想像にかたくない。
「仲がいい、とは言わないけれど。決して悪くないよね」
とは、日番谷とひよ里を評した京楽春水の言葉である。
日番谷にとっては、全く気を遣わなくていい、という意味で気楽な相手であることは確かだ。
ひよ里にとってもそれは同じらしく、日番谷のものだろうと思いながらマフラーを勝手に使うほどには、気を許していると言えた。
「何しに来たんです?」
乱菊が敬語でひよ里に問うた。ひよ里はそんな乱菊にも噛み付く。
「何って、隊首会に決まっとるやろうが。お前ら現役やのに、忘れたんか?」
「忘れちゃいません。ていうか、今あたし達が向かってるの、隊首会だし。ひよ里さんも出るんですか? 珍しい」
「ああ。ウチはめんどくさいでイヤやって言ったんやけどな。真二が瀞霊廷に言うとけってうるさいねん」
ひよ里は、さも面倒くさそうに、かつての五番隊長の名前を挙げた。
「なんだお前、ガキの遣いかよ」
「ヤッかましいわ、このチ……」
チビ、と言おうとしたのだろう。しかし、自分よりはるかに背が伸びた日番谷を前に、悔しそうに言葉を飲み込む。
ぐい、と日番谷の襟元を掴んで、自分の方に引き下ろす。
「……お前、どうやって身長伸ばしたんや。何かズルしたんやろ。超後輩のくせに、このあたしを見下ろそうなんぞ千年早いわ」
「ズルって何だ。勝手に伸びたんだよ」
「嘘こけ!」
「ンなことはいい。面倒事か」
ひよ里を見た時点で、嫌な予感はあった。そして思った通り、ひよ里はひとつ、うなずいた。
やっと平和になった、の舌の根が乾かない内に、これだ。雪合戦で笑い合っていた死神と子供たちの顔がふっと頭をよぎった。
乱菊がちらと日番谷を振り返る。
「あたしたちで食い止めればいいんです。そのための隊長と副隊長じゃないですか」
いつも傍にいるわけでもないのに。日番谷と同じものを見て、同じものを感じたような言動には驚かされる。
「続きは中で。着きましたよ」
見上げれば、「一」と黒々と描かれた門の前にたどり着いていた。
死覇装に襷をかけ、斬魂刀を携えた死神が二人ずつ、門の両脇に控えている。
ひよ里を見てわずかに不審そうな顔をしたが、日番谷が片手を挙げると、すぐに門を開いた。