日番谷が、十三番隊隊長の浮竹の住居である雨乾堂を訪れたのは、もう日が傾きかけた頃だった。
ここのところ毎日のように雪が降っており、雪かきも追いついていない。通り道のところだけ真っ白に踏み固められている状態だった。
このような季節は、ことのほか病弱な浮竹には堪えるらしい。今日の隊首定例会も欠席していた。

卯ノ花にことづけられた薬は、なんと行李二個分もあった。その二つを十字縛りにして結びつけ、紐を肩にひっかけた身軽な姿だ。
雨乾堂に続く石段を上がりきると、寒さが中に忍び込まないようにだろう、しっかりと扉は閉ざされていた。
「待っていたよ、入ってくれ」
特に霊圧は鎖していない。すぐに気づいたのだろう、浮竹の思いのほか元気な声が聞こえてきて、日番谷はほっとして扉を開けた。

扉を開けた途端、日番谷は脱力することになる。
「……京楽。ここに来るつもりだったんなら、あんたがこの薬持っていきゃよかっただろ」
「いやぁ。浮竹はいつも、君の訪問を心待ちにしてるからさ。敢えて言わなかったんだけど」
「悪かったな、冬獅郎。ここまで寒かったろ?」
布団から上半身だけを起こし、こげ茶色の丹前を引っかけた姿で、浮竹は日番谷に心配そうな顔を向けた。
「あんたに心配されたくねぇ。ていうか、俺は氷雪系だぞ。寒さなんて感じねぇよ」
「便利だねぇ」
ぽん、と京楽が煙草盆に煙管を打ちつけて言った。
そして、まるで自分の部屋のように、隅に積み上げてあった座布団のうち一枚を日番谷に手渡した。
行李を浮竹に手渡し、扉に近い側に胡坐をかく。布団に座った浮竹と、日番谷と京楽が向かいあう形になった。

「今日の議題は?」
浮竹が身を乗り出す。そんなこと京楽に聞けばいいのに、と思ったが、隊首会の最中に、器用に立ったまま眠っている姿を何度も見ている。
当てにしていないのだろう。日番谷はため息をついた。
「大きなのが一つ。戌吊に行ったまま、朽木白哉が戻らない。白南風の足で往復二日だ。討伐に五日間もかかってるなんてことが、あの男に限ってあるか?」
「白哉君は気が短いからねぇ。ないと思うよ」
京楽が断言する。日番谷が続けた。
「ただし、霊圧はかすかだが感じる。死んじゃいねぇのは間違いない。ただし、伝令神機はつながらねぇし、天廷空羅にも返事がねぇ」
「……掴まった、ということか」
「他にねぇだろうな」
浮竹の沈んだ声に、日番谷が頷いた。京楽がふぅむ、と唸る。
「しかしなぜだい。白哉君を人質にとって何のメリットがある? それにだ。だれも要求らしきものを受け取ってない」
「受け取っていないとも限らないぞ。すでに誰かが脅迫されていて、公にできない可能性もある」
浮竹がそう答え、京楽も頷く。日番谷は二人のやり取りを聞いていたが、おもむろに口を開いた。
「……うちの久徳三席の情報じゃ、帯刀という男は、朽木白哉の妻の絵を持っていたらしい」
「はあ!?」
同時に京楽と浮竹が声を上げ、身を乗り出した。
「朽木白哉の妻だった緋真は、昔戌吊に住んでいたらしい。接点があったということだろうな。その上、猿柿は言っていた。
帯刀はその昔、『女を探しに』瀞霊廷へ侵入したと」
「……ヒントだらけじゃない」
京楽が脱力したように言った。
「ただ決め手には欠ける。確証はねぇよ」
日番谷が首を振った。

浮竹が眉をひそめる。
「ということは……危ないのは、うちの朽木か?」
日番谷は軽く唸った。確かに、緋真とルキアは瓜二つだという話だ。瀞霊廷にいる、という情報しかないのなら、勘違いしてもおかしくない。
しかしもしも白哉が掴まっているのなら、緋真はすでに亡くなっており、瀞霊廷にいるのは妹のルキアだと伝えているはずだ。
わざわざ妹を危険にさらす真似をするとは考えられない。ただし、それが伝えられないか、伝えても信用されない状態にいるとすれば?
「日番谷くん、君、定期的に朽木邸に通ってたよね? 最近行ってるかい?」
「……ここ一週間は、行ってねぇ」
日番谷は、京楽の問いに微妙に視線を宙に浮かせた。

最後にあったのは、一週間前、酔いつぶれたルキアを送り届けた時だった。
本来なら今週も二回足を運ぶはずだったのだが。
いわく、黒丞の調子が悪く、馬を試していただけない。
いわく、急な任務が入った。
などの理由で、遠まわしに断られているのだ。これまで、一度もなかったことだった。

―― 俺、何かしたか?
何度か考えてみたが、それらしい前触れは思いつかなかった。
もっとも、副官によれば彼は時々鈍いというから当てにはならない。

「朽木と何かあったのか?」
いきなり浮竹が目を輝かせた。日番谷は顔の前で手を振る。
「なんで嬉しそうなんだ? なんもねぇよ。あの兄貴がいる屋敷で、何ができると思ってんだ」
「でもさあ」
京楽が、ぐい、と日番谷の肩を掴み、肩を組むようにして引き寄せる。
他人と、しかも中年男を触れ合う趣味はない。日番谷がきつく睨みつけるが、全く効果はない。
「白哉君は、ルキアちゃんを強くしてほしいって言ったんだろ?」
「だからどうした」
「知ってるかい? 鬼道系の死神が強くなるには、同系列で自分より強い相手と寝――」
ごんっ、と音がした。
京楽が鼻を押さえて悶絶するのを、日番谷は冷めた視線で見下ろした。
思い切り顔面を小突いた肘が軽く痺れている。
「こんな時に、よくもそんなくだらねぇことが言えるな」
「僕自身がくだらないからね。くだらないことしか口から出ないんだ」
「成程」
「おや日番谷くん、あたらしい返し方を覚えたね。そう受けられるとちょっと淋しいんだけど」
「とにかく、浮竹」
京楽との話を強制的に打ち切り、浮竹に向き直る。
「朽木ルキアはしばらく内勤にしてくれ。一人にさせるなよ。どう敵が接触して来るか分からん」
「ああ、分かってる」
浮竹は顔を引き締めて頷いた。
「ただ、もう敵が朽木に接触し来ていることもありえないか?」
「だな。ま、今からちょっと顔出してくるさ」
「ああ、助かる」
ついでに、隊長不在のため溜まっているだろう六番隊の仕事も、ちょっとはさばいてやらなければ回るまい。
となれば、こんなところで油を売っているにも及ばない。
「あ、冬獅郎」
立ち上がった日番谷を、浮竹が呼びとめた。
「なんだ?」
「俺は君と朽木は中々お似合いだと思うぞ」
「……熱あるんじゃねぇのか」
同僚が行方不明だというのに、のんきな奴らだ。腹を立てながら、雨乾堂を後にする。


***



見開かれた二つの目が、ルキアの右肩のあたりに、じっと視線を注いでいる。
黙然と座敷に座っていたルキアは、急に我に返る。キッと視線を険しくし、視線を感じた方向を睨みつけた。
すると、枯山水に足を踏み入れた野良猫と目が合った。
白黒の斑猫は、ルキアの視線の強さにびくりと身をすくめると、すぐに白い石を蹴散らして逃げ出した。
乾いた音を立てて、石のひとつが濡れ縁に転がる。

「……あの。ルキア様」
そっ、とかけられた声に、障子の方を振り返る。閉まったままの障子には、見慣れた使用人の輪郭が写し取られている。
「清家か。どうした」
「来週に迫っている五大貴族の会合についてですが……白哉様は欠席とお伝えしてもよろしいでしょうか」
どんな時でも、穏やかに感情を揺らすことなく、朽木家に従ってきたこの男の声が、隠しようのない疲労を伝えている。
忠義心の強いこの男のことだ、兄がいなくなってからろくに睡眠もとっていないのだろうと推測した。
「……ああ、欠席と伝えてくれ」
「……は」
弱気になるのも無理はないと思う。当主がこれだけ屋敷を不在にするなど前代未聞だ。
当主がいない朽木家など、大黒柱どころか、土台のない屋敷と同じだった。ルキアは、凛と言葉を張る。
「私が代わりに出る」
一瞬の、空白があった。

ルキアが、貴族同士の会合に顔を出したことは一度もない。
兄に声をかけられたことは何度かあるが、かたくなに断り続けていた。
貴族の家に名を連ねているとはいえ、自分には貴族の血は流れていない。部外者なのだという劣等感が強かった。
しかし今、兄はいない。ルキアは背筋に力が入るのを感じた。
「……分かりました。そう先方には伝えます。……私が、なんなりとルキア様を支えます故」
「ありがとう」
兄がいないからと言って、朽木家がその威厳を微塵も失うことがあってはならないのだ。
白哉がこの屋敷に戻ってきた時に、失望しないために。

「どうした。他にも何かあるのか」
障子の向こうから動かない清家に、ルキアは声をかける。
「はい。日番谷隊長より連絡が入っていました。ルキア様の身に、何事もないかと」
「……日番谷隊長が?」
われ知らず、言葉が揺れた。

日番谷は、一週間前のあの夜を最後に、朽木邸には姿を見せていない。
本来なら2度訪れるはずだったのだが、自分が理由をつけて断っている。
教えを請う身でありながら、訪問を断るなど、無礼な女だと呆れられていると思っていた。
まだ、私を気にかけているのか。そう思うと、不意に気持ちが湿るのを感じた。

一週間前の「あれ」は、ただの夢だ。現実には何もかかわりがない事だ。
それなのに、あの夢はルキアの中で、奇妙な変化を起こしていた。
今日番谷に会ってしまったら、自分は目を合わせることもきっと、できないだろう。
「……日番谷隊長に、来ていただきましょうか?」
「いや、大丈夫だ。お時間を取っていただくには忍びない」
ためらいを含んだ清家の言葉を、はっきりと押し返すように断る。
―― 助けは、求めぬ。
窮地でも乱れぬ、不動の心を持っていた兄を思えば、どうして周囲を頼ることができるだろう。
清家はそれ以上何もいわず、下がった。その足音が完全に消えてから、ルキアはふぅ、と人知れずため息を漏らした。



―― どうする。どうすればよい?
あの忌まわしい男が去ってから、同じ問いを何百回も自分に投げかけていた。
あと一日、明日の午後までに、戌吊まで辿りつく方法は自分にあるのか。答えは、いくら可能性を探っても否だった。
ルキアの足では、全力で向かっても数日はかかる。到底、間に合わない。
かといって遺されたのが白南風ならいざしらず黒丞では、ろくに跨ることすらできない。

その状況をよく知っているはずの白哉が、わざわざ「一日で辿りつける」と帯刀に伝えた、理由。
―― 「……私に万一のことがあっても、お前は関わらずともよい」
その心は、今も変わっていないということなのか。
助けを求める兄の姿など、ルキアには想像もつかない。
護られるくらいなら死を選ぶと言わんばかりの、自分をも突き放した言葉だったと今になって思い知る。

「兄様が、そのようなことを望むものか……」
ぽつりと、自分に言い聞かせるように呟いた。
ルキアが見苦しくうろたえる姿も、なりふり構わず助けを求める姿も、兄は望まないだろう。

そもそも、他の死神に助けを求めようにも、常に貼りつくような視線を感じている。
間違いなく、あの帯刀に連なる男の気配がする。影で見ている、と言ったあの男に。
下手に情報を漏らせば、その場で兄の命が危ない。
どうすればよいのだ、と心は暴れ回る。しかしその心を収めた身体は、森閑と固まり、強張ったように動けなかった。


いつまでその場に座っていただろう。夕焼けの光が座敷の奥にまで差しこんできていた。
ルキアは夕日に誘われるように、ふらりと立ち上がった。

キュッキュッ、と磨き上げられた縁側が足袋の下で鳴る。
漆黒の死覇装が、縁側に暗い影を落としている。腰に帯びた袖白雪が、かすかに衣擦れの音を立てた。。
朽木邸の使用人たちのざわめきも、この区域には及んでこない。
ここは、生きている家人のいない場所……生前、緋真が使っていた区域だ。

ルキアは、自分の手のひらを見下ろす。
兄の命を託されるには、あまりに小さく、頼りなく見えた。
ルキアは、大きく息を吸い込んで、姉の部屋に続く扉を開いた。


「姉様」
救いを求めるような口調になってしまったのは、否めない。
すぐ傍まで歩み寄り、遺影がおさまる額縁に指先で触れた。
「姉様。どうすれば」
姉は、溶けるような優しい微笑みを浮かべている。愛する者のために生きた姉は、こんな時も迷わなかったのだろうか。
自分は中途半端だと、再び思う。

朽木家の者として恥じない態度をと願いながらも、心の中は暴れ狂い、うろたえている。
死神として力を追い求めながらも、力が全て、と思いきることはできない。
女として誰かに愛されたいと願いながらも、うまく誰かを愛することはできない。
一人の自分が駆け出そうとすれば、もう一人の自分は立ち止ろうとする。
「わたし、は」

その時だった。遠くで聞こえた叫び声に、ルキアはびくんと肩を揺らせた。
あの男が、攻めて来たのか? 慌てて位牌に背を向け、部屋の障子を開け放つ。
「黒丞! こら、どこにいる!」
「黒丞……?」
かの馬は、ルキアを背中に乗せていない時は、至って大人しく扱いやすい馬だった。
一体何事だ? ルキアは、庭園を望む縁側に歩み出る。凍るほどに床はつめたかった。
茜色の夕日が、西の空から景色を染めている。日が当っている肩が、ほんのりと暖かかった。

漆黒の影のような姿が、滑るように庭園に現れたのを、ルキアはしばらく放心したように眺めていた。。
「……黒丞」
手綱も鞍もつけていない、野生馬と変わらない姿だった。
艶々とびろうどのように黒く輝く脇腹が、息とともに波打って見える。

―― 分かっているのか?
黒丞は、明らかに興奮していた。その鬣は天に向かって逆立ち、いつもよりも尚巨体に見える。
そして、燃えるような瞳を、まっすぐにルキアに向けていた。大きな鼻息を立て、白い蒸気が周囲に散る。
太い首を振り仰ぎ、はるか西を見上げた。……西、は。戌吊のある場所。白哉が去って行った方向だ。
「……黒丞」
名前と同時に、涙がぽろりと零れ落ちた。
「兄様を、助けたいのか」
誰の助力をもかたくなに拒み、弱みも見せないはずだったのに。
どうして今、自分は一頭の馬を前に、子供のように涙を流しているのかが自分でも分からなかった。

―― 「中途半端っていうなら、全部そうだろ」
不意に浮かんできたのは、日番谷の言葉だった。
何者にもなりきれぬ自分への焦りを、柄にもなく打ち明けた時に聞いた、日番谷の意外な言葉。
―― 「だからな。お前も、そのままでいいんだぞ」
ルキアは、自分を見下ろした。力ない、小さな掌だ。
女のように豊かではなく、男のように逞しくもない、子供のような身体だ。
認められない、認めたくもない、自分の素の姿だった。

「……私は。兄様を助けたい」
なぜだろう。言葉にしたとたん、ふっと楽になった気がした。

黒丞が、ぶるる、と荒っぽく鼻を鳴らす。
そのまま、大きく前足を踏み出し、雪を蹴立ててまっすぐにルキアに向かって歩んでくる。
その瞳は、まるで肉食獣のように爛々と輝いている。
ルキアは縁側の縁へ歩み寄る。そして自分より何倍も大きな黒丞に向かって、手を差し伸べた。



last update:2011/10/4