吹き抜けた一陣の風を、朽木家を見張っていた賊……兵衛は眼を細めて見送った。 風に吹き散らされた粉雪が、灰色の空に巻き上げられる。まだ夕方までには間があるはずだが、厚い雲に覆われているせいで薄暗い。 ―― 少し残念だ。 不意にそう思う。あの女が行ったからには、自分の仕事はここまでだ。もう少し観察していたかった。 帯刀に初めて緋真の絵を見せられたのは、もういつか覚えていないほど昔のことだ。 身体つきは細く小柄で、女らしい曲線には乏しい。まるで小動物のようだった。 ―― 弱者だな。 一目でそう判断したのを覚えている。 流魂街では、対峙する者が強者なのか弱者なのか、更に自分より強いのか弱いのか、一瞬で判断する力が求められる。 判断を誤り、かつ相手の力量が自分を上回った場合は命を落としかねない。 強ければ生き、弱ければ死ぬ。逆などありえない、シンプルな秩序に支配された世界。 だから兵衛は、力弱いものに容赦はしてこなかった。男なら殺したし、女なら強姦した後、やはり殺した。 罪の意識を持ったことはなかった。この世界は「弱い」ということはもっとも重い罪なのだ。 絵の女は、弱者には違いない。しかし兵衛の目を引いたのは、女の大きな眼と、強いまなざしだった。 流魂街の味気ない風景をモノクロームに例えるなら、そこに咲く真紅の椿のような強い印象を放っていた。 だから、実物と接触しろと帯刀から命じられた時、少しだけ興味はあったのだ。 ただの絵でさえあれほどの存在感を放っていた彼女が、一体どのような姿で現れるのか。 女として関心は持てないだろうが、それでもあんな眼をする人間がどんな風なのか、見てみたい。 しかし目の前にしたあの女は、色々な意味で自分の期待を裏切った。 兵衛と向かい合った女には、表情がなかった。短刀を眼の前に突き立てられたにも関わらずだ。 初めは、恐怖のあまり茫然としているのかと思った。しかしそうではない、とすぐに思い知らされた。 あの絵のままの大きな瞳で、ひたと見据えられた瞬間、 ―― 弱者ではない。 兵衛は直感する。 「蛆虫の巣」を知っていた段階で、兵衛の警戒は更に跳ねあがった。 ただ瀞霊廷に住んでいるだけでは、おそらく耳にするはずがない言葉のはずだ。 ―― 「蛆虫の巣に送り返してやる。来い」 そう言い放った時、この無表情は恐怖からではなく、不敵なまでの揺るぎなさから来ると知った。 しかし一点のみ、寒風に咲く一輪の椿のような、凛とした空気は絵の女と変わらなかった。 だから。 帯刀からの手紙に視線を落とした時、これまで全く表情を変えなかった女の眉間に苦しげに皺が寄るのを、兵衛はぞくぞくしながら見守った。 どれほどの葛藤が、その白い肌の奥に潜んでいるのだろう。暴きたい、そう思うだけで高ぶった。 本当なら、もっと悩み苦しむ姿を見たかった。そして成すすべなく愛する男を失い、涙するのを見たかった。 女が帯刀のところに辿りついてしまえば、手は出せない。帯刀は兵衛よりも遥かに強い。 ただし帯刀の元に女が辿りつかなければ、女の命運は自分が握ったも同然だ、と考えていた分、やはり残念だ、という気持ちが強い。 ともあれ、女が屋敷を去ったなら、この場にとどまる理由はない。 死神にでも出くわしたら面倒なことになる。兵衛は周囲を見渡し、そっと屋敷の塀に近付いた。 兵衛は朽木家の塀に身軽に飛び乗り、大通りを見下ろす。雪の気配を厭うのか、人の気配はまるでない。 雪の音さえ聞こえそうに、しん、と静まり返っている。厚い雲が割れ、オブラートに包んだような柔い日光がちらほらと降っている。 周囲を再度窺ってから、中空に身を躍らせた。 刹那。 視界の端に、漆黒の影がひらめいた。 まずい、そう思うと同時に、反射的に刀を引き抜いていた。しかし相手の動きは、兵衛の予想よりも遥かに早かった。 鋼のように固い身体に打ち当られ、冷たい雪の上にどう、と背中が叩きつけられる。 無様に仰向けになった胸の上に、膝が落ちて来た。その衝撃に、一瞬息が詰る。 「何者だ」 兵衛の目前に、刀が突き付けられた。 相手が只者ではない、ということは、現れた瞬間から感じていた。 一瞬前まで、確かに何の気配もなかったのだ。 自分には気配を感じられなかったにしろ、相手がそれだけの一瞬で現れたにしろ、相手の力量は自分より上ということ。 膝で胸を抑えつけられただけだというのに、四肢を釘付けにされたように、びくりとも動けない。 目の前の刃は、鈍色の空の下でも白々と輝いていた。兵衛は刃の間から、自分を捕えた男を見上げた。 青い、不吉なまでに青い目が、突き刺すような視線で兵衛を見下ろしていた。 まるで落ち込んだクレバスの底のような青さだ。かすかに差しこむ日の光が、その髪を銀色に輝かせている。 羽織った羽織の白に、隊長か、と気づく。 「……帯刀の手下か」 温度のない声だったが、かなり若い。 身長は兵衛よりも高いが、筋肉がそれに追いついていない。若鹿のように瑞々しい身体は、外見だけを言うなら十代の半ば。 「男」というよりは、まだ「少年」と呼んだ方がしっくりくる。 端正な顔は、その無表情と言いその白さといい、まるで人形のようだった。 どこかしら似ている、と思う。自分たちが数日前に遭ったあの男に。 「……もう遅い」 喉元を抑えつけられているかのように、声がかすれた。 「何がだ」 あくまで怜悧な声が返してくる。 「朽木白哉は我らが元にある。余計な真似をすれば、首を飛ばすぞ」 この若さだ。動揺させる言葉には弱いと踏んだが、隊長格らしき少年はふん、とわずかに口元を歪めただけだった。 「信用ならねぇな。お前らに朽木が負けるわけがねぇ」 全く兵衛の言葉を信じていないのか、それともすでに織り込み済みの情報だったのか。少年の表情からは、いずれとも読み取れない。 「……確かに、強かったさ。あの男は」 力はおそらく帯刀と同程度。しかしその佇まいの持つ凄味が異なっていた。 自分のように、欲望の限りを尽くした揚句死神を辞めた者とは違う。 帯刀のように、明日死んでも構わないような生き方をする男とも違う。 死神の隊長としての重み、貴族としての重み、自分たちにはない様々なものを、一身に背負っている男の顔をしていた。 「だがな……」 背負うものがあるからこその、弱さを露呈したのもあの男。 「瀞霊廷にいる妻を殺すと言ったら、刀を捨てたがな」 何かを言う代わりに、すう、と少年の瞳が細まった。弓を引き絞ったような緊迫感が一気に高まって行く。 殺される。身を切るような寒さのはずなのに、額にも背中にも汗が浮いた。 「下手なまねをすれば、妻……緋真も殺すぞ。もうあの女は、帯刀の元へと向かった。手に落ちたも同然だ」 「何だと?」 男の声が初めて高まった。一瞬だが、兵衛に向けられていた殺意が薄まる。 「いつの話だ」 「さて。数時間ほど前か」 本当は5分ほども経っていない上、死神の足では今のあの女には追いつけまい。しかし万が一追いつかれては困るのだ。 「嘘だな」 少年はあっさりと切り捨てる。 「目的を果たしたんなら、この屋敷に何時間もとどまる意味はねぇだろ」 一瞬乱れた霊圧が、すぐ元に戻っている。 ぎし、と膝に抑えつけられた胸の骨が軋む。ただ刺すようだった初めとは、やや目線が異なった目線で、少年は兵衛を見下ろして来た。 「……帯刀という男は、緋真を探し求めていたと聞いた。まさかとは思うが、お前たちの狙いは女一人か?」 「へ。ずいぶん軽々しい言い方だな。まだ女はしらねぇか」 「どれが人生最後の発言になるか分からねぇぞ、気をつけろ」 はっ、と兵衛は笑った。この局面で笑う自分の神経が、自分でもよく分からなかった。 本能は、死から一目散に逃げようと焦っている。しかしそれよりも強く、どうにでもなれという自暴自棄が、自分の中からせりあがって来ていた。 「確かに、帯刀の狙いはあの女だ。他の奴らには、それぞれの理由がある」 「てめぇの狙いは何だ」 「死神を、殺す。特に女だ」 「何のために」 「何のため、だ?」 笑いがくつくつとこみ上げるのを抑えられない。 「つまらねぇ問いだ。好きなモンに、好きな理由なんかあるか? 面白いこともねぇ世界じゃねぇか。てめぇのやりたいようにやって、面白く生きて死ぬ。それだけだ」 少年は、まるで汚物を見るような眼で兵衛を見下ろして来た。 この年で隊長格になるくらいだから、さぞ恵まれた道を歩んできたのだろうと思う。 その綺麗な青い眼には、今自分はどのように映っているのだろうか。 「なるほど。よく分かった」 ゆらり、と少年が身を起こした。膝の力が緩められる。 逃げ出すなら今だ、と思った瞬間、横腹に衝撃が走った。 拳で殴られたのだ、と理解する前に、胃の中のものが一気に逆流する。海老のように身体を丸め、何度も何度も吐いた。 一気に意識がもうろうとしていく。途切れる直前、少年が吐き捨てた。 「てめぇに情けをかける必要はねぇってことをだ。二度と会うこともねぇだろうがな」 *** 「日番谷隊長! いかがされました」 日番谷が正門から入るなり、守衛から知らせを受けた清家が駆けつけて来た。 「朽木ルキアはいるか?」 「自室にはいらっしゃいません」 清家の声は、はっきりと分かるほど緊張していた。 「お加減が悪い様子で、気にかけていたのですが……さきほどお声をおかけしたのですが。屋敷中を探してまいります」 「いや、いい」 口早に日番谷は遮った。 「阿散井を六番隊から呼び寄せてくれ。大通りに賊が転がってるから回収してくれと伝えてくれ」 「は? 賊、ですか。私どもが行きましょうか」 「この屋敷には入れなくていい」 この屋敷には、朽木緋真が弔われている。そこに、あの男を二度と踏み入らせたくなかった。 朽木白哉も、ルキアも、それは望むまい。 「……馬鹿野郎」 「? 何かおっしゃいましたか?」 「いや」 請求に電話で連絡をとっていた清家が怪訝そうに顔を上げたが、日番谷は首を振った。 そして、厩舎に向かって足を急がせる。そして、いつも黒丞と白南風の定位置の前まで来て、不意に足を止めた。 「……黒丞まで」 追いかけて来た清家が言葉をなくす。仕切られた二つの空間は、どちらも空だった。 「申し訳ございません、日番谷様、清家殿! 黒丞めは、さっき檻を破って逃げ出しまして。いまだに見つかっていません」 馬丁の一人が二人に気づき、慌てて駆け寄って来た。黙って黒丞がいなくなった空間を見つめていた日番谷は、ゆるく首を振った。 「必要ねぇ」 そう言った時、懐で伝令神機が鳴った。おそらく首尾を問う浮竹と京楽からの連絡だろう。 「一体、何が起こっているのですか?」 清家が不安げに問うた。主人が二人もいない異常事態なのだ、平静でいろというほうが難しいだろう。 「今日中だ」 「は?」 「今日中には、朽木兄妹も、馬二頭も戻る。俺に任せろ」 何か言いたげな表情を一瞬、清家は年老いた顔に浮かべた。しかしひとつ、頷いた。 ――馬鹿野郎が。 踵を返し、十二番隊に向かいながら、日番谷は心の中で繰り返す。 あの賊に脅迫されたルキアが、黒丞を駆り帯刀と兄の元に向かったのはもう間違いなかった。 「悪いな浮竹、俺の失策だ。あいつが危険なのは分かってたはずだったのに」 「君の責任じゃないさ。そもそもあいつのことだ、追いつめられるほど、一人でどうにかしようとするはずだからね」 伝令神機から漏れ聞こえる浮竹の声に、確かに、と日番谷は苦笑いする。 実際、今週は実質三度も、来訪を遠まわしに断られている状態だったからだ。 その時点で、異変に気付くべきだったと今頃思っても遅い。「馬鹿野郎」の半分は、自分自身に向けられた言葉だった。 乗れもしない黒丞に跨り、勝てるはずのない相手に向かったルキアの行動は、愚かとしか言いようがない。 本当なら、自分でも浮竹でもいい、隊長格に事の次第を告げ、指示を仰ぐべきだった。 ただ、腹を立てながらも、そのような生き方が決して、嫌いではない。 「しかし、本当に黒丞を駆って行ったのか? あの馬は女は乗せないと聞いたことがあったぞ。黒丞は黒丞で朽木とは別に戌吊へ向かった、ということは?」 「馬の行動なんか俺に聞くな」 思わず声が不機嫌になる。 「ただ、神馬といっても馬なんだ。霊圧を追ったりはできねぇよ。独力で戌吊へ向かってる、てセンはないはずだ」 もぬけの空だった、黒丞がいた厩舎が思い浮かぶ。同時に脳裏に再生されたのは、馬丁の言葉だった。 ―― 「こいつは中々嫉妬深い奴でな。白哉様に惚れてる。お嬢様のことを恋敵と思ってるんじゃねぇか」 馬に心はあるのだろうと思う反面、人間に恋心や嫉妬心を抱くことがあるとは、どうしてもピンとこない。 しかし、ルキアに時折見せていた燃えるようなまなざしや、白哉を前にしたときの喜びを前面に押し出した身のこなしを、ふと思い出した。 黒丞が、なんらかの勘で白哉に危険が迫っていることに気づいたとしたら……何を差し置いても白哉を助けようとする。そんな気がした。 「……冬獅郎?」 黙っている日番谷に、浮竹が怪訝そうな声をかけた。 「いや、なんでもねぇ。とにかく、朽木ルキアより先に戌吊に行く」 「しかし黒丞は神馬の中でも俊足だ。追いつく手段は――」 「一つだけある。俺が行く」
last update:2011/11/26