「おい! 野分はいるか」
十二番隊の門をくぐると同時に、大声を出した。
何事か、と飛び出して来た守衛に、同じ言葉を繰り返す。

野分は、十番隊に引き渡すよう、総隊長から直々に涅に命じられている神馬だ。
もっとも、涅が目下の最高傑作と評する一頭だけあって、十番隊からの再三にわたる引き渡し依頼には応じていない。
案の定、守衛をつとめる隊士は何とも答えかねる微妙な表情を返した。
異変を感じ取ったのか、他の隊士たちもばらばらと姿を見せる。
「涅隊長の承認は……」
「ねぇ」
そもそも、そんなものが取れているのなら、とっくに十番隊に引き取っている。
「緊急事態だ、どうしても野分が要る。連れていくぞ」
厩舎の方へと足を向けると、お待ちください、と慌てふためいた声で守衛が追いすがる。
「お待ちください! 承認なしにお貸しすれば、我々の命がありません」
その顔に現れた懇願の色に、日番谷は振り払うに振り払えず、やむなく足を止めた。

特に罪もない隊士たちを、次々と実験の検体にしてきた涅のことだ、気持ちは理解できる。
その上、日番谷と涅の関係は、お世辞にもいいとはいえない。
こと日番谷に虎の子を眼の前で奪われたとあっては……意外と子供っぽいあの男の八つ当たりの対象になることは十分にあり得る。
たかが八つ当たり、と言っても涅の場合は相手が悪い。
命はない……どころか、ろくな死に方ができそうにない。
「じゃあまず、涅と話す。どこにいる」
ちらり、と隊士の一人は厩舎の方へと視線を投げた。
「涅副隊長と実験室にこもっておられます。下手に声をかければ、我々の……」
「もういい、分かった。俺が直接行けばいいだろ」
地雷が多い隊だ。もし自分が隊士だったら、さっさと異動願いを出している。

厩舎にほど近い実験室なら、何度か野分を渡すよう直談判に訪れたことがあるから知っている。
いっそ、実験室に向かうふりをして厩舎から野分を連れ出すか。
歩きながらそうも考えたが、何人かの隊士が抜け目なくついて来る。

と、ぶるる、と鼻を鳴らす獣の声が聞こえて来た。
野分だ、とすぐに判断する。足音からか声からか、日番谷が来たことに気づいたのだろう。
足を蹴立てるような音。遠乗りに連れ出してくれと、ねだっているのが分かる。
「……勘弁してくださいよ、日番谷隊長」
隊士の言葉に、ち、と舌を軽く打った、その瞬間だった。

厩舎の影からいきなり伸ばされた一対の腕が、日番谷を捕えた。
あっ、と思った時には、その口元と肩を同時に、掴まれていた。
その一瞬で見えたのは、死覇装の袖の部分だけだった。
厩舎の壁際に、軽々と引きずり込まれる。「あ」の形の開かれた隊士の口が視界から消えた。
「……お、おのれ賊!」
隊士の声が、途中で途切れた。何かを殴りつける重い音の後に、低い呻き声が聞こえる。

「何だ、てめぇは!」
声を荒げ、自分を厩舎の陰に引きずり込んだ腕を振り払う。
わずかに、動揺していた。視界の隅に、自分に向かって伸ばされる腕を捕えるまで、全く霊圧を感じることができなかった。
只者じゃない。反射的に、腰に帯びた刀に手をやる。相手に向き直った瞬間、日番谷は思わず、その場にたたらを踏んで立ち止った。
「な、何やってんだ?」
怒りも忘れ、間の抜けた声が洩れる。
「これはこれは、隊長」
第三席の久徳が日番谷を見下ろし、いつもの柔和な笑みを浮かべている。

とっさに柄からは手を離したが、久徳の意図が分からず無言で見上げる。
いつも一緒にいる者の霊圧は、確かに感じ取りにくくなるものだが――
久徳の実力は、長らく一緒にいる自分でも底が見えないことがある。時に、三席の地位に甘んじている、と感じるほどだ。
「大変失礼しました」
黙ったままの日番谷を見て、久徳は頭を下げた。本当に失礼だ、と怒る気もしないほど優雅な仕草だった。
「何のつもりだ?」
「理由でしたら……」
久徳は返事の代わりに、さきほど日番谷が歩いてきた通路を視線で指した。

合計4名の隊士たちが、その場に昏倒している。
「たまには、こういうのもイイですよね」
倒れた隊士たちを踏まないように避けながら、黒い手拭いで口元を隠した乱菊が歩み寄って来る。
「……何やってんだ松本……」
怒りよりも前に、脱力感がやってきた。
「あらヤだ隊長、どうして一瞬で分かったんですか?」
「なんで分からねぇと思うんだ?」
思わず聞き返した。口元を隠そうが、それ以外のパーツはどこからどう見ても松本乱菊である。

久徳がひとつ、頷いた。
「と、言うわけです」
「って、分かるか! この忙しい時に、ややこしい真似しやがって」
「あの者たちが起きれば、きっと日番谷隊長ともども賊に襲われ、気がつけば野分の姿がなかった、と涅隊長に報告するでしょう。
あなたに正面突破されるよりは罪は浅くなる、違いますか?」
ううん、と日番谷は思わずうなった。普通なら逆だろうと思うが、あの涅の八つ当たりは避けられそうな気がする。
「つーか、なんでお前らがここにいるんだ?」
「野分を出せるか、とおっしゃったのは隊長でしょう?」
「質問を質問で返すな。確かに言ったが、そのあとに『探りを入れろ』と付け加えたはずだが? 聞いてなかったのか後半を」
今の行動、探りを入れるにしては積極的に過ぎると思う。
それに何食わぬ顔をしているが、久徳が今の事態を楽しんでいるのは見れば分かる。乱菊は言うにも及ばない。

「そうだったのですか」
嘘をつけ、と言い返したくもならないくらい、サラリと久徳は頷いた。
「とはいえ、今すぐどうしても野分が必要なのでしょう? さっき、隊士との押し問答が聞こえてきましたよ」
「そーですよ、隊長。涅隊長と直談判って、本気ですか? OKだとしても夜明けまでかかりますよ」
返事の代わりに、日番谷はガシガシと頭を掻いた。
今しがた起こった状況を、何も説明していないはずなのに、二人の言う事は逐一正しいのだった。

「一体、何事だネ?」

涅の声が意外なほどに近くで、突然聞こえた。思わず三人とも、首をすくめる。
「珍しいな。外の霊圧に気づいたか」
普段なら、実験室に一度こもれば外の気配などすべて無視して没頭しているはずだが、実験が終わりかけていたらしい。
ここに来られたら、芝居が水の泡になる。
そう思った日番谷は、とっさに鋭く、口笛を吹いた。
人間の耳であれば、数メートル先なら聞こえないくらいに抑えたが、伝えたい相手はすぐに反応した。

木がみしみしと軋む音がしたと思った直後、土ぼこりを上げて厩舎の一部が崩れ落ちた。
袂で口元を覆った日番谷の前に、巨大な影が歩み出る。馬だ、と思った時には、その巨体は弾むようにぶつかってきた。
「野分」
名を呼ぶと、頭を下げて長い顔を肩にぶつけて来る。荒い息が胸元に広がり、くすぐったい。
顔を抱え込むように腕を上げ、耳の後ろを撫でてやると、嬉しそうに顔を振った。
「この場は任せたぞ」
身軽に野分の背に飛び乗った日番谷は、久徳を見下ろす。
「お任せください」
日番谷でも、この場をどういさめるのか想像がつかないが、久徳は事もなげに頷いた。

「松本、お前は――」
「つれてってください」
言い終わる前に言い返されて、眼を見開く。その反応は予想していなかった。
「野分なら、乗せるのが一人でも二人でも一緒でしょう?」
「それはそうだが、なぜだ?」
「あたしは、殺したいんです」
黒い手拭いを取り去った乱菊は、強い目で日番谷を見上げて来た。
軽い驚きをもって見返す。彼女が「殺す」というような言葉を使うことはまずなかったからだ。
「……そんなに憎いのか。帯刀という男が」
ためらいが生まれたのは、帯刀との過去に市丸が絡んでいるからだ。
市丸が絡んだ時だけ、乱菊は未だに平常心を失う。ひどく冷静な顔をしているのが、却って不安をあおる。

「違います」
しかし乱菊は、静かに首を振った。
「帯刀なんか、どうだっていいんです。あたしが殺したいのは、大昔の弱かったあたし自身です」
一人で、生きていくためにか?
とっさにそう返しそうになり、言葉を止める。

市丸に守られ、生き延びた過去をひとつひとつ精算すること。
それが、彼女なりの「弔い」であり、これから生きていく「覚悟」なのかもしれないと、不意に思う。

「野分? どうしたんだネ」
涅の声がだんだん近づいて来る。
「私からもお願いします。副隊長と御一緒に」
久徳と視線がぶつかった。
わざわざ、このために下手な芝居を打ったか。
「しょうがねぇな……松本、来い」
日番谷が馬上から差し伸べた手を、乱菊は力強く取った。

last update:2011/11/28