少しでも早く、少しでも遠く。
足元など気にすることなく、宙を飛ぶようにまっしぐらに、原野を駆けてみたい――
瀞霊廷に居場所を見つけられていなかったころ、そう渇望していたことを乱菊はふと思い出した。

神馬に鋭く檄を飛ばした男の、背中の筋肉が躍動する。
死覇装の袖からのぞいた腕には力がこもり、彫刻刀で彫りつけたような筋肉の線がくっきりと浮き上がっている。
力一杯、わき目もふらず何かに打ち込む男の姿は美しい。しかしその荒々しさが、普段とは別人のようにも見える。
今、野分を駆っている目の前の男は、日番谷ではないのではないか。ありえないことを一瞬、乱菊は考えた。


乱菊を知る大抵の仲間は笑うのだが、馬を駆る男の後ろに座るのが好きだった。
―― 「え? 乱菊さんらしくないですね」
典型的な反応を示したのが雛森で、いつだったか料亭で遅い夕食を取っていた時、笑われたことがある。
その場には後、檜佐木と吉良の副隊長仲間がいた。まだ藍染が五番隊隊長を務めていた、20年以上も前の話だ。
乱菊は銚子を置くと、不機嫌に雛森を見やった。
―― 「どういう意味よ? 雛森。ていうかなんで笑ってんの」
―― 「だって」
雛森は笑んだ口元を掌で隠しながら続ける。同じ女ながら、その姿はなかなかに愛らしいと思う。
―― 「乱菊さん、乗馬得意ですよね。初めは我慢して後ろに乗ってても、途中でまだるっこしくなって、手綱を男の人から奪っちゃいそう」
―― 「……雛森。それ、誰から聞いた?」
―― 「ヤだ、ほんとにやったんですか? 乱菊さん」
―― 「雛森、廊下に立ってなさい」
墓穴を掘った形になり、雛森は更に笑い、吉良は笑いながらも顔をひきつらせ、檜佐木は複雑な顔をしていた。
―― 「なんでまた、馬を駆る男の後ろに座りたいなんて思うんです?」
吉良の言葉に、乱菊は一瞬考えた。
―― 「馬に乗ってる時の男は、口数が少ないからいいの。背中しか見えないしね。ぺらぺら話す男なんてうんざりよ」
―― 「らしいですよ、檜佐木先輩」
―― 「は? ていうか吉良、なんでそこで俺に振る!?」
ふ、と吉良はあまり人が良くなさそうな笑みを浮かべて答えなかった。

たわいない、酒の席での会話。檜佐木が自分のことをどう思っているか、当時も今も分からないほど初心ではない。
ただ、自分を前にするとやたらテンションが上がり、口数が増える彼を可愛いと思っても、男として見ることはないと断言できる。
にこにこしながら話を聞いていた雛森が、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべて小声になった。
―― 「乱菊さん、一緒に馬に乗ってみたいような人、いるんですか?」
乱菊は視線を宙に浮かせた。
―― 「言われてみれば、別にいないわ」
いなくなってしまった、が正しいかもしれない。
かつて一緒に荒野を駆けていた幼馴染は、間に硝子を一枚挟んだかのように、近いのに遠くなってしまっていたからだ。


手綱をさばく日番谷が、軽く野分の脇腹を蹴った。また速度がぐんと上がり、後ろに座った乱菊は追憶から引き戻された。
いくら霊圧で周囲を覆い、風圧をさえぎっているとは言っても、油断すれば落ちる。
落ちればこのスピードだ、例え死神でもきっと、助からない。

速く、もっと速く。
常軌を逸したスピードで、人と馬がまるで空を駆けるための道具のように、一体化していく。
乱菊は日番谷の背中をじっと見つめる。もちろん、表情はうかがえない。
乱菊には決して見せない獰猛な表情で、前方を睨んでいるのではという気がした。

瀞霊廷はすでに背後に地平線に消え、延々と続く雪をたたえた山脈が眼下に連なる。
下を見ても、通り過ぎる景色が早すぎて目にも止まらぬくらいだ。
遠くに見える山々がぐんぐん近づいては飛ぶように通り過ぎ、じっと見ていると眼がまわりそうだ。
空気はしんしんと冷え、頬はとうに対応を失い、硝子のように冷えていた。

「大丈夫か」
不意に、日番谷が前を向いたままそう言った。風の音に声がまぎれて、反応が遅れた。
ちらり、と日番谷が振り返る。いつも机に向かっている時と同じ、無表情だった。
「おい、凍ったか?」
「凍ってませんまだ」
「寒いなら寒いって言え」
寒くありませんと強がろうにも、頬が真っ青なのは自分でも分かっていた。
「俺のマフラー取れ」
黙っていると、そんなことを言われた。顎で、身につけている黒いマフラーを指して見せる。
両手が使えないから自分で取れ、ということだろう。
「でも、隊長はあたしより寒いでしょう?」
風圧がまともにかからないと言っても、やはり風は当たる。
乱菊は前にいる日番谷が盾になっているせいであまり風は感じないが、日番谷の髪は絶えずそよいでいた。
「別に。今回の敵は雑魚じゃねぇんだ。身体が強張って動けねぇんじゃ、俺が迷惑なんだよ」
「めっ……」
迷惑って。行動だけ取れば優しいのに、言葉のせいでぶち壊しだ。
でも長い付き合いで、日番谷がわざとそんな言い方をするのだと気づいている。
照れ隠しなのか、それとも乱菊が好意を受け取りやすくしているのか、ただの天然なのかは分からないけれど。
「そこまで言うなら、お借りします」
そう言いながら、ありがたくマフラーを拝借する。首に巻いてみるとほんのりとあたたかく、かすかに日番谷の匂いがした。

その時。不意に懐で、乱菊の伝令神機から「ジョーズのテーマ」が流れ出した。
「なんだ? この気持ち悪ぃ曲」
現世では有名な曲だが知らないのだろう、日番谷は前を向いたまま怪訝そうな声を出す。
「総隊長からの着信です!」
それは失礼だろ、とぼやく日番谷をよそに、受話ボタンを押す。
総隊長直々に、乱菊に電話がかかってくることは十年に一度もない。
「はい。松本です」
第一声は、さすがに緊張していた。
おそらく総隊長には、京楽や浮竹から状況の説明はいっているはず。本来であれば、総隊長の指示を待ってから行動すべきところだ。
緊急事態だった、と言えば通らなくもないが、何となく嫌な予感がする。

「松本副隊長か。日番谷隊長はおるかの」
穏やかに抑えてはいても、隠しきれない威圧感のある声が聞こえて来た。電話越しでも異常な迫力だ。
「はい」
そう返し、音をスピーカーに変える。
「日番谷隊長。今どこにおるのじゃ?」
「南流魂街の第50番区です」
日番谷がちらりと周囲の山を見渡しながら答えたのに乱菊は驚く。乱菊には、自分たちが今何番区あたりにいるのか想像もついていなかった。
「ふむ。儂の指令を待たず、独断で飛び出したということかの」
「朽木兄妹の命がかかっています。緊急事態と判断しました」
凄味を増す総隊長の言葉に、日番谷は表情も変えず淡々と返す。
「副官と共に瀞霊廷に戻れ」
続いて伝令神機から漏れた声に、乱菊は思わず耳を疑った。思わず日番谷の背中を見る。
「何か、瀞霊廷に異常でも?」
ある程度、その指示を読んでいたのかもしれない。日番谷の声は平静なままだが、その表情はうかがえない。
「そうではない。しかし、相手は朽木隊長が敗北したほどの敵。一旦戦略を練らねば何度かかっても同じ結果になりかねん」
「朽木が……朽木ルキアが先に向かったんです! 一刻の猶予もありません。それなのに……」
淡々としたやり取りに我慢がならず、乱菊が言葉を挟む。
「それは、大した問題ではない」
その言葉は、穏やかとも言える総隊長の声によって遮られた。
「朽木ルキアは潜在的には副官の実力はあるじゃろう。しかしその階級ならいくらでも代わりはおる。
隊長の代わりは難しいが、朽木白哉なら、例え敵中にあろうとそうそう死にはせぬ」
「……っ」
ひやりとした感情が頭の中に流れ込み、乱菊はとっさに答える言葉を失った。
この総隊長にとって見れば、副隊長までは「替えが利く」のだろう。実際、総隊長がそう言ったのを聞いた者もいる。
副官である自分への発言としてはあまりに酷薄、と思ったが、おそらく総隊長は「意図的に」乱菊にそう言った。
死神は「兵隊」だ。兵隊ということは、駒として扱われるということであり、替えがあるということでもある。
その覚悟を忘れたか、と言下に言われた気がした。分かっていても、心がキンと鳴るように冷たい。

そんなことは分かっている、と乱菊は怒鳴りたい気持ちに駆られた。
そんなことは分かっている。でもそのうえで、仲間を助けたいからこうやって出て来たのだ。
しかし何と言えば、この老獪な総隊長を説得できるのか、到底方法が思い浮かばない。
「お主を失うわけにはいかぬ、日番谷隊長。戻るのじゃ」
「……総隊長。隊首会はいつ?」
黙っていた日番谷が、口を開く。
「二時間後じゃ」
二時間。乱菊は唇を噛む。ここまでの道のりで、既に1時間近く経っている。時間がなさすぎる。
「二時間だってよ」
日番谷はそう言った。初め、自分に掛けられた言葉かと思った。
しかし日番谷は、よく見ると野分の首筋に掌をおいていた。ぶるる、と野分が返事をするように鼻を鳴らす。
「あと30分で追いつけるか? 黒丞に」
尋ねる口調ではなかった。預ける口調だった。
神馬が、人語を解するとは聞いたことがない。しかし野分は確かに日番谷の言葉を聞いていたし、理解しているように見えた。
なぜなら日番谷の言葉に、野分が奮い立つのが乱菊にも分かったからだ。
ぐん、とスピードが上がると同時に、馬体が揺れ、風が大きく当たる。周囲に張った結界にほころびが出たらしい。
「……っ」
とっさに乱菊がよろめく。それを、伸びて来た日番谷の腕が支えた。
「総隊長。状況理解しました。隊首会には出席します」
「日番谷……」
「ただし、朽木ルキアの代わりなど、俺は一度も見たことがありません」
失礼します、と日番谷は何かを言おうとした総隊長を遮ったまま、伝令神機を切った。
「しっかり掴まってろよ」
そう言って伝令神機を手渡された時、不覚にも涙がにじんだ。


それから、おおよそ15分後。野分が、徐々にスピードを落とし始めた。鼻先を斜め下に向け、何かを探している気配だ。
「……見つけたな。もうすぐ、戌吊だ」
日番谷の言葉に、乱菊は周囲を見渡した。雪を冠した巨大な山脈に、草木一本生えない原野が広がっている。
「人っ子ひとりいねぇな」
「あっち。集落ですよ」
乱菊は日番谷の後ろから指をさす。周囲とは少し、色が違って見える。もっと近付けば、掘立小屋が立ち並ぶ集落が見えてくるはずだ。
雄大で過酷な原風景の中で、人々の営みはあまりに小さく、無惨でさえあった。
「よく分かるな」
「あたしが育ったところと、少し似てます。懐かしいくらい」
日番谷は眉をひそめたまま無言だった。西流魂街1番区、もっとも治安がいいエリアの一つで育った日番谷には、ここは人が住む所には見えないのだろう。

初めて見るはずなのに、既視感のある風景。
人の尊厳がゴミのように捨てられ、命は時に物よりも軽かったあの時代を思い出す。
……死神と呼ばれ、副隊長と言う地位を手に入れた今ですら、状況は変わっていないのかもしれないが。
「……何だかんだ言って、総隊長は甘ぇな」
独り言のように日番谷がつぶやいた言葉に、馬上でつんのめりそうになった。
「冗談ですよね?」
「あの位置から、一時間で帰還できるのは分かってただろうに、二時間の猶予があるんだぞ」
「で……でも。現地にとどまれるのは、いいとこ30分ですよ」
「30分ありゃ十分だろ?」
さっき、神馬にかけたのと同じような調子で問いかけて来るのだから困る。
Noと言えない時点で、彼に惹きこまれているのは神馬と同じだ。
「……分かりましたよ」
心の中にあった迷いが、吹き飛ばされてゆく。


last update:2012/4/22