「あんたと似たような顔立ちの女? 知らねぇな」
「そうですか。このあたりで見かけた、という噂を聞いたのですが。ルキア、という名です」
噂ァ、と銭湯の番台に座った男は、胡散臭そうな顔をした。
「この辺りに住んでる奴は、大抵ここに来るけどよ。姉さんみたいなお上品な顔立ちの奴は一人もいねぇよ」
「……分かりました。お仕事中、申し訳ありませんでした」
頭を下げると、男は渋面をつくって緋真を見返して来た。
「どこの貴族さんか知らねぇがよ。この辺はロクでもねぇ奴が多いんだ。目ェつけられない内におうちへ帰んな」
格好つけてんじゃねぇよ、とどこからか野次が飛び、周りがどっと笑った。首筋や背中のあたりに、視線が次々と突き刺さる。
彼ら彼女らからすれば、今の自分は「お貴族様」に見え、反感を覚えるのだろう。
かつての自分が、同じように流魂街でその日暮らしをしていたと言えば、どんな反応をするだろう。

もう一度頭を下げ、ふらりと往来へと出た。
空には低く雲が立ち込め、今にも雪が降り出しそうだ。……そう思ったとたん、ちらりと白いものが視界の隅を横切った。
もっかの自分の格好を見下ろして、これでは眼を引くはずと微かに苦笑いが洩れた。
下ろしたての、乳白色を基調にしたきもの。そこに白や赤の鮮やかな椿を散らした柄だった。
間違っても、こんなぬかるんだ冬の日に着るようなものではない。
必ず家にいるようにと夫から戒められたにも関わらず、似た者がいると噂を聞きつけて、着替える時間も惜しく外に出て来たのだ。
瀞霊廷のすぐ隣に位置するこの潤林安は何度も調べていて、ほとんど可能性がないことは分かっていても、寂寥感はおそって来た。
ルキアに顔が似ているはずの自分が出歩けば出歩くほど、似た顔の人物が現れれば、周囲の印象に残りやすくなる。
だから無駄ではないのだと、自分に言い聞かせた。

綿毛のような雪が次々と舞いあげられる。
淋しい雪。妹を思い出させる雪。身を切るように切なくさせる雪。すべてを消す雪。このまま消えてしまいたくなる雪。夫に会いたくなる雪。
緋真は、雪の中をあてもなく歩いた。



「おい姉さん、待ちな」
呼びかけられてもしばらく、自分にかけられた声だと気づかなかった。深い、物思いに沈みこんでいた。
「何用です」
振り返りながら、さっき銭湯で聞いた笑い声の誰かに似ている、とちらりと思った。
男たちが二人、口角を上げてこちらを見ている。緋真の顔を見たとたん、なぜか少し驚いた顔をした。
「ほぉ。瀞霊廷には中々居ねぇ美人だ。汚れをしらねぇって顔だな。どこの者だ」
緋真は敢えて、沈黙を守った。本名など名乗れば、夫や夫の家に迷惑がかかる。
「さっき、人を探してたな。心当たりあるぜ。一緒についてこいよ」
共に来させるために、心にもないことを言っているのは、その表情や声音からすぐに分かった。
「……分かりました。伺いましょう」
緋真がそう答えると、男たちはむしろ不思議そうな顔をした。

顔を見合わせニヤリと笑った男たちの方に、足を踏み出した時だった。
「その者は、私の身内だ」
聞き慣れた、淡々とした声が背後から聞こえた。振り返ると、雪の中から、確かな存在感を持って一人の男が歩み寄って来るところだった。
今はもう見慣れた漆黒の着物に、隊長の証である羽織をまとっている。
「……白哉様」
「ってオイ、朽木かよ! 冗談じゃねぇ」
夫は、このあたりでも広く顔を知られている。男たちの身の引き方は素早く、弾かれた玉のように姿を消した。
「……申しわけありません」
緋真は頭を下げる。この時間はまだ、勤務時間中のはず。仕事中に余計な手間をかけさせてしまった。
白哉はそれに反応することなく、男たちが走り去った方向を見やった。
「あの男たちの言葉が嘘であると、分かっていたはずだ。それなのに何故、共に行こうとした?」
責めている声音ではなかった。緋真は、うつむいたまま、顔を上げなかった。


……ルキアは、今頃何をしているのだろう。気づけばいつも、同じことを考えていた。
別れた場所でいくら探しても見つからなかったのだ、あの地域にはいないだろうが、治安の悪い地域で暮らしているだろう。
彼女にとってこの雪は美しさの象徴では到底なく、命を奪いかねない白く冷たい恐怖として映っているはずだ。

……いや。
赤ん坊が独力で、あんな厳しい世界で生き抜けるはずがない。そして、誰かに育てられていることも考えにくい。
自分が生き延びることで精いっぱいのあの地域では、何かしらの利益がなければ、人を手助けするなどあり得ないからだ。
無力な赤ん坊が路傍で泣いていても、気にも留めない者たちばかりだろう。
そして自分には、それを責める資格はない。姉が妹を、自分だけが生き延びるために捨てたのだから。

今離れれば、ルキアに生きる術はないと知りながら捨てたのだ。到底、到底許される罪ではなかった。
目の前の夫は、だからと言って二人でいれば二人で死ぬこともまた自明の状況だったのだと云ってくれたことがある。
それは事実だが、しかしだから、妹を見殺しにしても良いということにはならないのだった。
共に生きられぬというなら、共に死ぬべきだった。いや、あの時、自分の中で確実に何かは死んだのだろう。

妹のことを思う度、今の自分の恵まれすぎた境遇を、身を絞られるように苦しく思う。
下卑た男たちのほしいままになるほうが、埃ひとつない屋敷で座っているよりも、心の上では「楽」なのだった。
一方で、愛しい男の傍で暮らしている今の日常に、自分で信じられなくなるのだ。
幸せの神に微笑みかけられ、微笑み返そうとしている自分自身がおそろしい。
そんな資格はないくせに、今目の前にいるこの男と一緒にいたいと願ってしまう。

ただ、それは全て緋真自身の問題で、夫には関係がなかった。
だから結果的に、無言のままになってしまう。


「帰るぞ」
白哉は、表情も声音も平坦なままだった。しかし、だからと言って情がないわけではないと緋真は知っている。
むしろ夫は、すべて気づいた上で、それを懐に収めて、敢えて何も云わず緋真を見ている。
「どうか、先にお帰りになってください。すぐ、後を追います」
着物の裾から侵入するこの冷気に、血管が凍ってしまってもいい。ルキアと同じ空気を吸っていたかった。
「……そうか」
白哉はそう言ったまま、その場にたたずんでいる。
「……白哉様?」
「それでは、私もここに残ろう」
抑えていた涙が、雪景色をにじませる。
長年宿病のように抱え込んできた自責の念を、白哉への愛情の深さが一瞬で追い越してしまうのを感じる。
恐ろしい。自分で、自分がコントロールできない。緋真は、抱きしめられた胸の中で、苦しい吐息を漏らした。


***


真紅の椿が、ぼとり、と足元に落ちる。その音が聞こえるほど、周囲は静まりかえっていた。
見事な椿である。その丈は10メートル近くあり、椿としては目を見張るほどの巨木だった。
背後には椿の高さを大きくしのぐ、数十メートルの絶壁がそびえている。この崖が風から木を護っているのだろう。
空はあくまで雲ひとつなく青く、一面に広がる雪はあくまで白く、そびえ立つ崖はあくまで黒い。
きっぱりと塗り分けられた景色の中で、誰かが忘れていった花束のように目を引いていた。

その椿にほど近い崖の真下に、一人の男が捕えられていた。
地面に座らされたその男の体には何本もの鎖が巻きつけられており、その鎖の先端は、周囲に打たれた杭に固く結びつけられていた。
鎖は淡く発光していて、ただの鎖ではなく、何かしらの術で強化されたものに見えた。
伸ばした形で固定された両腕は、長期間の拘束のため、霜が降りて真っ白になっていた。
俯いた白皙の男の表情は、黒髪に隠れて伺えない。


自らが拘束した男を、腕を組んで見下ろしている男が、一人。
腰に巨大な鋸のような刀と脇差の二本を帯び、長身は鋼のように鍛えられている。腰に届くような長い黒髪を、無造作に風に流していた。
「待ちかねたぞ。もうすぐ、あの女との再会の時だ」
帯刀と呼ばれる、かつて瀞霊廷に幽閉されていた男は、口元に笑みを浮かべている。死んだように固まっていた囚われた男が、口を開いた。
「……何度言えば分かる。緋真は死んだ。今朽木邸にいるのは、妹のルキアだ」
掠れてはいるが、明瞭によく響く声だった。帯刀はせせら笑う。
「つくならもっと違う嘘をつくんだな、朽木白哉。俺は朽木邸にいる女の写真を手に入れたんだ。姉妹とはいえ、あれほど似ていることはありえまい」
大股で歩み寄った帯刀は、無造作に脇差を抜きはなった。そしてその刀を、寸分のためらいも見せず、張り付けられた白哉の左腕に突き立てた。
鮮血がほとばしり、左腕に巻かれていた白い手甲が弾け、地面に落ちる。脇差は白哉の腕を貫通し、背後の岩に突き刺さり止まっていた。
骨を断ち、筋肉を裂く一撃だったが、白哉は俯いたまま悲鳴も上げなかった。
「……貴様がなぜ、緋真を知っているのだ」
「はっ、会ったからに決まっているだろう。この椿の下でな。その日もこんな風に、満開だった」
捕えた男と捕えられた男の視線が、同時に椿に向いた。
「戌吊の町を、かつて俺が陥落させた時のことだ。刃向う男は殺し、女は犯し、俺たちは満足していた。足がある奴は必死で町から逃げた。
全て終わり、町から去ろうとした時に、町外れのこの椿が目に付いた。ろくに木も生えねぇこの荒野だ。薪にしようと近づいた時、あの女が現れた」

―― 切らないでください。
椿の前に庇うように立った女は、そう訴えた。
町に残ったものは殺され、逃げた者はもはや足音も聞こえない。そんな中で恐れを知らぬように端然と、その場にたたずんでいた。
一目見て、圧された。相手は、粗末な着物をまとい、白皙の肌も汚れた、ただの町娘だというのに。
思えばあの瞬間に、惚れていたのだろう。……帯刀はそう思っている。

「お前を抱けるなら考えてやろうと言った。女はあっさりと頷いたさ。『それでこの木を切らないなら』と。知りたいか? その後、どうなったかを」
ぎし、と鎖が鳴った。白哉が帯刀を強く見据えたまま、前に身を乗り出していた。
鎖が鳴る度、淡い色合いが強く鳴り、白哉を抑え込もうとする。全身に刻まれた傷跡から、新しい血が流れた。
「噛みつかんばかりの顔だな。貴族様らしくもねぇ」
帯刀は、手にした刀を白哉の顔に突きつける。そのままゆっくりと、その頬に刃の切っ先を滑らせた。
頬から眼の際にかけて、斬り裂かれた傷から血が流れ出す。それでも、二人の男は互いを食い入るように見たまま、目をそらさなかった。
その表情にはどちらにも、消し難い憎しみが浮かんでいる。男は一瞬笑い、刀を背後に引いた。
「お前のその態度が、緋真が生きている証拠だ。死した女のために、そこまで必死になる理由がない」
白哉は一瞬、帯刀の言葉に口を開きかけたが、すぐにまた閉じた。帯刀が続ける。
「俺はあの女が欲しい。他の男のものになるなぞ許さぬ。お前を、あの女の前で殺す」
「不可能だ。緋真はもう、誰のものでもない」
「まだ言うか」
帯刀の表情にまた怒りが上った時、突然ふわり、と空中に現れたのは、一匹の地獄蝶だった。
ふわふわと羽根を宙にひるがえし、まっすぐに帯刀の肩に止まった。かすかな声が蝶から漏れ、それを聞きとった帯刀の顔がはっきりと愉悦に塗り替えられた。
「お前の嘘が露呈したぞ。瀞霊廷に寄こした兵衛からの言伝だ。朽木緋真は黒馬を駆り、戌吊に向かった、と」
それを聞いた白哉の表情が、はっきりと変わった。愕然と眼を見開いたまま、しばらく無言だった。
「……馬鹿者」
呻きのような声が、微かに漏れた。



一面の雪景色に投じられた黒い宝石のように、雪原を駆け抜けるひと組の馬と女。
裸馬は脇腹を波立たせ、炎のような息を口から吐いている。蹄が空中でぶつかり、高い音を周囲に響かせる。
南の空に向かい一心不乱に疾走する姿は、さながら放たれた一本の矢である。
跨る女の腕は、妖しいまでに細く白い。女の髪が、馬の鬣と共に黒く背後に流れる。
女は細い足で馬の横腹を蹴る。馬の足取りはいよいよ速い。歯を食いしばった女は、ふと呟いた。
「……兄様」

はっ、と白哉は顔を上げた。

last update:2012/5/5