日番谷は、上空で野分をゆっくり旋回させ、戌吊の町外れに降りた。 濃い鳶色の鬣を綺麗になびかせて着地した野分は、もうこれで終わりなのかと言いたそうに、振り返って日番谷を見返してきた。 黒丞を見つける前に止まったのが不満らしい。広い背から滑り降りた日番谷は、苦笑してその鼻面を撫でてやる。 野分の黒く大きな瞳を、雪が横切る。顔を上げると、無数の綿雪が空から次々と落ちてくる。 雪と雲の境目が分からないほどに空は白く、地上も白く、その間に立っていると雪の中に閉じ込められたかのようだ。 「おぉ寒、体が強張っちゃいました」 白い息を吐きながら、ぎくしゃくとした動きで乱菊が野分から滑り降りる。降りるなり身を縮めた。 「お前、そんなんで戦えるのか?」 「じゃ、あっためてください♪ って、目逸らさないでくださいよ」 日番谷は乱菊には答えず、顎で町の方を指した。 風化し、所々歯抜けになった木塀の隙間から、いくつかの目が二人を見つめていた。 眼の高さからして、全員子供だろう。薄汚れた手で塀を押さえるようにして、恐怖半分、好奇心半分の表情だ。 ざんばらの髪にも雪が積もっていた。 「ちょっと、あんた達」 乱菊が呼びかけると同時に、蜘蛛の子を散らすようにわっと逃げ出した。 この寒いのに、はだしの足は真っ赤になっていた。 「……朽木と阿散井も、かつてはあんな風だったんだろうな」 独り言のように日番谷が呟くと、乱菊はため息をついて応じた。 「最悪とも言える治安ですから。力の弱い子供は、徒党を組むしかありません。それでも……」 乱菊の表情に、厳しさと一抹の寂しさが交錯する。 「あの子たちは見たところ霊圧もないようですし。長くは生きられないでしょうね」 言葉だけ取れば、冷たいともいえる一言だった。ただ、長い付き合いの日番谷には、乱菊が思い沈んでいるのが分かる。 表情をなくした青い双眸は、一体どれくらいの悲惨な光景を見送ってきたのだろうか。 日番谷にできるのはただ想像するだけで、その痛みを同じように感じてやれるわけではない。 「それでも」 日番谷は、ひとつため息を漏らし、周囲を改めて見渡した。 「それでも俺は、流魂街をただの、弱肉強食の世界にはしたくねぇ」 朽木ルキアは赤ん坊だった時、かつて生活に困窮した姉の手で、この戌吊に捨てられたのだと聞いていた。。 そして、赤ん坊が一人では生きられないこの世界で無事成長したからこそ、今死神となっている。 かつて、幼かった日番谷を祖母が拾い育ててくれたように、彼女を助けた「誰か」が戌吊にもいたからに違いない。 流魂街のどこにでも、人としての情はあるのだと信じたかった。 乱菊はどこか眩しそうに、そんな日番谷を見上げた。 「雑談してる場合じゃねぇ。とっとと朽木を探すぞ」 朽木白哉の霊圧は、これほど近づいても、まだ微かなままだった。 この近辺にいることは推測できても、場所を特定できない。 おそらく、霊圧を封じ込める鬼道か道具でも使って、拘束されているのだろうと目安をつけた。 妹のルキアの霊圧は全く感じない。しかし、霊圧を解放して敵に近付く愚を犯すはずがなく、これは当然と言えた。 乱菊を残して、大股で戌吊に足を踏み入れる。すぐ後ろに、霜柱を踏み崩す音がついてきた。 戌吊は、町よりも集落と呼ぶにふさわしい、寂れた小さな地域だった。 周囲が何一つない荒原であれば、さぞかし風も強いだろう。事実今も、北ともつかず南ともつかず、強い風が吹きつけてきていた。 その風を防ぐためだろう。集落の周りには、木の塀がぐるりと張り巡らされていた。 まるで集落全体が、牢に閉じ込められているような印象だ。しかし塀はあちこちが壊れたり傾いたりしており、風避けの役割は十分ではなさそうだった。 橋を渡した上に大きい石を載せただけの簡単な屋根が続き、掘立小屋が雑然と並んでいる。 一応通りのようなものはあるが、この雪と寒さのせいか、行き交う人々の数はまばらだった。 上着を持つような人々は一人もなく、夏着に更に別の着物を重ねて防寒としたり、首に衣服を巻きつけたりしていた。 死神の二人と巨大な馬が歩いてゆくのだ、皆一様に目を見開いたが、騒ぐことも声を立てることすらなく、淡々と日常に戻って行く。 ここで暮らすことに倦み疲れ、何かに期待することも絶望することも諦めた倦怠感が、その全身から漂ってきていた。 銀髪にはらはらと降り積もる雪を、手で払いのける。 ―― 「私は、中途半端なのです」 ふと、日番谷はルキアの声を聞いた。背負われて雪が舞う夜道を歩きながら、日番谷の髪に積もった雪を払った、細い指を思い出す。 ―― 「私は、兄様の隣で対等に戦うには弱すぎます。そして、女として唯一と思われるような存在にもなり得ません」 嘘だ。日番谷はあの時もそう思った。 潜在能力で見れば副隊長レベル。そして、朽木白哉にとって最も失えない女でもある。 ルキアの身近にいる人物ならば自明の理なのに、彼女だけがその事実を見ない。 まるで、本気でそれを欲して自ら動いた時に、手に入らないのを恐れるかのように。 ……姉に捨てられたという過去が、自分の評価を深く押し下げてしまっているのかもしれない。 自分の欲しいものをその掌いっぱいに持ちながら、気がつかない女。気づかないまま、指の間から滑り落としてしまう女。 そして、自分の周りに誰も届かない膜を張り、その奥に閉じこもっているように日番谷には見える。 苛々する、訳ではない。本人が結局望んでそうしているのなら、日番谷にどうこういう筋合いはない。ただ敢えて言えば、もどかしかった。 「……隊長?」 日番谷の顔色の変化を感じ取ったのだろう、隣に並んだ乱菊が、日番谷を見やった。 「……朽木白哉を見つけても、すぐに出るな。様子を見る」 え、という表情を乱菊は作った。当然だろうと思う。もう残された時間は30分を切っている。 百歩譲って総隊長命令を無視するとしても、白哉とルキアの状態を考えれば一刻を争う。 「隊長だったら、野分に乗ったまま突っ込んでくと思ったのに、おかしいと思ってました。なーに、考えてるんですか」 おそらくわざと、軽い口調で問いかける。日番谷は渋面を作った。 「野暮なことだ」 野暮、と鸚鵡返しに言った乱菊が笑った。そして、それ以上は深く聞いてこなかった。 白哉の気配が、少しずつ確実に近くなる。町を護るように、急峻な崖が間近に立ちはだかって来た。 「すっごい、崖ねぇ」 乱菊が嘆息を漏らした時だった。聞き覚えのある馬のいななきが、雪の合間から聞こえた。 静かに後ろをついてきていた野分が、ピンと耳を立てる。日番谷と乱菊は顔を見合わせた。 「もしかして、黒丞?」 「いや。白南風だ」 「てことは!」 「ああ」 白南風は、白哉と共に戌吊へ向かったきり戻ってきていない。 「気配を消せ。近いぞ」 そこは、古びた平屋が何棟も続く、戌吊にしては整った一角だった。崖をすぐ後ろにしているため、風が遮られているのだろう。 しかし、普通の人間なら近づけないような、不穏な空気が漂っていた。何十人もの男が醸し出す、獣のような気配である。 「……ざっと五十人、てとこですね」 崩れかけた家の陰に身を隠した乱菊が、日番谷の耳元で囁く。 町の住人から奪い取ったのだろう、平屋の一角に、男たちが何十人もたむろしていた。 おそらく血で錆びた刀を傍らに投げ出し、昼間から酒を食らっている男たちを、乱菊は眉をひそめて見やった。 流魂街の中でも最も野蛮な類の者たち……ただ、弱くはない。席官レベルの男もちらほらと見受けられた。 蛆虫の巣から脱走した男は四人。筆頭の帯刀がこの先にいることは間違いない。 そのうちの一人兵衛は、日番谷が瀞霊廷で捕えた。となれば、残る強敵は二人となる。 「あの男、郷石ですね」 久徳が調査した書類を、さぼっているようでちゃんと眼を通していたらしい。乱菊が指差した方を見て、日番谷は頷いた。 他の男たちが子供に見えるほどに、体が大きい。2メートル以上あるのではと思わせる巨体の上、丸太のような筋肉の持ち主だった。 更木が隊長となる一代前の、十一番隊に所属していたという。この男が、蛆虫の巣に幽閉されるに至った理由が――「殺しすぎたから」だという。 他のどの隊よりも戦いを好む十一番隊から、その理由ではじき出されたことが、この男の異常さを物語っている。 かの男は、「戦い」よりも、その先にある「死」に異常に執着した。そして一代前の剣八に嫌われ、隊を離れたという経歴を持つ。 「あいつは、俺がやる」 人の上に立つ者なら、自分の部下をあんな男と戦わせるのは御免だろう。 二十メートルほど離れていても、濃厚な血の匂いが漂ってくるのを感じ、日番谷は眉をひそめた。 野分が不意に、後ろから顔をのぞかせる。その大きな眼が見つめる方向を追って、日番谷は視線を止めた。 白南風だ。平屋の柱に、綱で結びつけられている。その気になればあんな綱は振りほどいてしまうだろうが、逃げる気配はない。 元々穏やかな気性の上、頭がいいあの馬のことだ、主人が捕えられている以上、その場を離れないつもりなのかもしれない。 と、白南風の視線が、日番谷のところで止まった。同時に、ぶるる、と鼻を鳴らして綱をひっぱり、近づこうとした。 とっさに日番谷は、立てた人差し指を口の前に持ってくる。人間の身ぶりが伝わるとも思えなかったが、白南風はぴたりと動きを止めた。 「可愛い。隊長が言いたいこと分かるんですね」 「あの崖の方へ向かうぞ。朽木白哉の気配はあの下から感じる」 熟達すれば、気配を完全に消し、人の目の前を横切っても気づかれなくなる。 日番谷は乱菊を促し、平屋の陰を伝いながら、崖の方角を目指した。 今ここで見つかってしまえば、日番谷の計画はぶち壊しになってしまう。二人は慎重に前へ進んだ。 薄い雪雲を通し、弱い西日が指し込んで来ていた。 半円の形に弧を描く絶壁の下は、まるで舞台のように仄白い光に包まれている。 ちらり、ちらり、と綿雪が降り続いていた。その場に辿りついた日番谷と乱菊は、同時にハッと息を飲んだ。 「……椿」 これまでの「椿」の概念を覆すような、見事な巨木が根を下ろしていた。 大人の拳よりも一回り大きな真紅の花が、びっしりと深緑の葉の間に開いている。 散り落ちた花びらが、地面をうっすらと赤く染めている。それはどこか、美しさを越えて胸苦しくなるような光景だった。 柔らかな光は、その場の二人の男の姿も、白日の下にさらしていた。 黒い長髪をたなびかせた男は仁王立ちで、崖に腕を打ちつけられた男に迫っているように見えた。 「……朽木隊長!」 乱菊が掠れた声を漏らす。同時に帯刀が一瞬二人の方に首を向けた。 とっさに、日番谷は乱菊の肩をつかみ、岩陰へ引きずり込んだ。 「……ひどい」 乱菊は、さっき見た白哉の姿が眼から離れないのか、顔をゆがめた。 普段の塵ひとつない彼の姿からは信じられないほどに、血にまみれた姿だった。その腕は脇差に縫いとめられ、指先は力なく地面に向いていた。 おびただしい血が、地面で椿の花と混ざっている。あの出血量では、長くは持たない。それは明らかだった。 朽木ルキアの気配はまだ感じない。そして白哉の命は、この瞬間に断たれてもおかしくはない。 どうする。助けるのか、待つのか。二つの考えが葛藤を始めた時、黒丞に跨ったルキアの姿が、ふと頭に浮かんだ。 まだ平和だったころ、早朝の朽木邸で、ルキアに稽古をつけていた時の光景だ。 ――「心を一点に絞るのはいい。でも、視界は狭めるな。四方に広げるんだ」 日番谷がそう言った時、ルキアは言葉を咀嚼するように、視線をつかの間、下に落としていた。 ――「心は内へ。視界は外へ……」 そう呟いて、きっと顔を上げた時の表情を思い出す。その瞬間、心が震えたことも。 袖白雪は美しい刀だ。しかし、戦いの場にある朽木ルキアの魂は、刀より更に美しい。 その女が、乗れもしないはずの馬に跨り、宙を一目散に飛んでくる。 愛する者を救うために、自身を一本の矢に変えて飛んでくる。 ―― 「海燕殿は、私達が前に進むことを、望んでおられたはずです。海燕殿が立たれていたのと同じ場所に立って、浮竹隊長を助け、隊士を護る。 ……それが私の目標です」 「松本」 日番谷は副官を呼んだ。 「手を出すな。朽木ルキアを待て」 「……無茶です!」 数拍置いて、乱菊はすぐに切り返して来た。 「帯刀は強い。とても勝ち目はありません!」 「分かってる。でも、あいつにとって戦うべき時は今なんだ」 問いかけるような乱菊の視線を感じた。「朽木ルキアなら勝てる」と簡単に言えるような状況ではなかった。 あの帯刀という男、確かに強い。一瞬でその力量が読めるほどに。弱みを握られたとは言え、白哉が遅れを取ったのもうなずける。 「朽木ルキアのことを思う気持ちは分かります。でも、まだ早すぎます」 日番谷の肩をつかみ返した乱菊の指に、力がこもっている。 どうする。日番谷が唇を噛んだ時だった。不意に、黒い影が視界の片隅に現れた。 風景を一直線に切り裂いたかのような黒い絶壁の上に、音もなく一頭の馬が現れた。 西日を背中に負っているため、影絵のようにその姿は暗く、跨る人物の姿も判然としない。 ただ、その者が纏う着物の輪郭だけが、乳白色に輝いていた。白哉と帯刀も、崖上の人馬に気づいた。 「……黒丞」 足先から尾まで完全に漆黒の体毛を持つ馬は、荒ぶる息を四方に吐いていた。 ―― 誰だ。 馬上の人を見つめると同時に、どくん、と鼓動が一度、波打った。 黒丞だとすれば、馬を駆る人物は只一人のはずだ。しかしあれは―― 日番谷は、白哉に視線を移す。 茫然と崖上を見上げた白哉の口が、ゆっくりと動くのが見えた。 ヒ・サ・ナ。 まさか、そんなはずはない。日番谷はもう一度、崖上の人影を見上げた。
last update:2012/5/15