はるか高い崖上から、一枚の紙がひらりと舞い落ちた。 一瞥した帯刀は、それが自分が兵衛を通じ、緋真に送った手紙だと確認する。 肩のあたりまで伸ばした、濡羽色の髪。血の気が失せたように見える、陶器のような白肌。 その中で、ほのかに色づく唇。そして、黒曜石のように黒く、驚くほどの存在感を放つ大きな瞳。 何もかもが、初めて会った時の緋真と変わりないように見えた。 ただ、当時のような粗末な着物ではなく、乳白色の着物をふわりと纏っていた。絹の布地には、椿の大輪がいくつも刺繍されている。 そして、荒い息を吐く、見事な黒馬に跨っている。今の彼女に備わる高貴は、むしろ本来の姿に近いのではと思わせた。 「……待ちわびたぞ。久しいな、緋真」 帯刀は上の女を見上げた。 女は、崖下に視線を落したまま無言だった。崖上にも届く高さの見事な椿に一瞬、感嘆するように口が開く。 そして視線は帯刀から白哉に移り、止まった。血に汚れたその姿、殊に脇差で岩に縫いとめられた左腕に目をやった時、その唇が引き結ばれた。 「待て!」 背後で聞こえた白哉の言葉を無視し、帯刀は抜き身の大刀を片手に、崖上に一気に躍り上がった。 対する女は、馬の背から音もなく滑り降りた。前へ出ようとする馬を制し、帯刀の方へ歩み寄る。 ひと組の男女は、雲間から差し込む柔らかな光を挟んで向き合った。 「探し人は見つかったのか? 緋真」 探し人、の言葉に、女はわずかに反応した。訝しげに、帯刀を見返す。男は言い募った。 「見つかったのならば。……約束の時だ」 女は男の声音が昂ぶっても、沈黙を守っている。 一言も口を聞かず、人形のように表情を変えない女の態度が、帯刀の心に焦りを生んだ。 痺れを切らしたように、大股で女に歩み寄る。そして、その肩に手を伸ばした。 と、その指先が、女の触れるか触れないかのところで、止まった。 「……緋真?」 漆黒の瞳が、真下から射殺すような強さで帯刀を貫いていた。 違う、と帯刀は心の底で予感する。緋真は決して、こんな目はしなかった。 その細い肩から、するりと着物が落ちる。乳白色の着物は、一瞬風に膨らみ、はらりと地面に落ちた。 その下から現れた漆黒の着物――死覇装に、帯刀は瞠目する。着物の下に彼女が携えていたのは、一振りの美しい刃だった。 純白の柄糸は、平たく潰され艶を放っている。何度も何度も握って来た証だ。 「姉の名前を口にするか」 女が初めて口をきいた。まるで一つ鐘を打つような、きっぱりとした意思を持つ声だった。 雨の帳を通して聞くような、しっとりと穏やかな緋真の声とは、明らかに異なっていた。 「え?」 帯刀は、その場に棒立ちになる。女は帯刀にひた、と視線を据えたまま続けた。 「姉はどこにもおらぬ。義兄に看取られて亡くなった。もうずっと昔の話だ。貴様など、私は知らぬ」 その一言は、透明な刃のように帯刀の心臓を直に斬り刻んだ。無意識のうちに、喉の奥で悲鳴を上げる。 この目の前にいる女は、緋真に似ていながら確かに「緋真ではない」。 「まさか、緋真があの時、探していたのは――」 緋真はかつて、帯刀の知らないある人物を探していた。そして、瀞霊廷に向かった。 もしも朽木白哉やこの女の言うことが全て真実だと言うのなら―― 緋真が探していたのは目の前のこの女で、本人は瀞霊廷で命を落としたということなのか。 女は刀の切っ先を上げ、帯刀に向けた。対する帯刀は、大刀を宙に惑わせる。 目の前の女を憎んでいるのか、どうなのかも分からなかった。ただこの女は、緋真の生を否定する。 それは帯刀にとって、緋真を探し続けた長い年月を否定されるも同じことだった。嘘だ、そう言い聞かせようとする自分がいる。 熱に浮かされたような帯刀の視線と、凛とした女の視線が絡み合う。 「緋真を……緋真を返せ!」 「兄様を返してもらおう」 二人の言葉が重なった。 「ルキア、退け!」 白哉の声が鋭く宙を飛ぶ。しかしルキアは、身じろぎしなかった。 帯刀が刀の切っ先をルキアに定めるまで、時間はかからなかった。目を血走らせ、大きくルキアに向かって刀を振り下ろす。 風が鋭く鳴った。 ** 帯刀の刀筋は、頂点まで昂ぶった感情で真っ赤にさえ見えた。 ―― 疾(はや)い。 ルキアが今まで戦ったどんな虚や破面よりも、その一撃は速かった。 この一撃で、兄を傷つけたのか。朽木邸にいる「緋真」がどうなってもよいのかと、兄を脅迫した上で。 相手の激情に引っ張られ、予想もしなかった怒りが心の底から湧きあがって来る。怒りで相手と、相手が振り下ろす刀しか見えなくなる。 ―― 「心を一点に絞るのはいい。でも、視界は狭めるな。四方に広げるんだ」 その時不意に、日番谷の言葉が頭の中で響いた。熱情の中に落とされた氷のように、ルキアの意識を冷やした。 何度も繰り返した、日番谷との練習試合の光景が頭をよぎる。一瞬の無我とも言える風景の中、ルキアは日番谷と向き合っていた。 ―― 「心は内へ。視界は外へ」 敵の攻撃を見極め、隙となる一点を見抜く。それと同時に、あらゆる方角からの攻撃にも同時に意識を広げなければ殺される。 あの時、日番谷の隙はどこにもなく、ルキアは攻めあぐんだ。 しかし。 あの時の日番谷に比べれば、今の帯刀は……隙だらけだ。 ルキアは大きく、前に踏み込んだ。それと同時に、袖白雪を地面と平行に構える。 刀を振りかぶったために、帯刀の脇腹の辺りに隙ができている。ルキアは真っ直ぐに、相手の左の脇腹に向けて刃を突き込んだ。 ……手首から肩にかけて、鈍い衝撃が広がった。ルキアは唇を噛み、その衝撃に耐える。 相手の肉を斬り、骨を絶つ時の感触。単純な衝撃以前に、相手に致命的な深手を負わせた、その重さは何度繰り返しても慣れなかった。 帯刀が、両目を大きく見開く。その目が、顔が数秒の間に充血していく。両手に、刀を押し戻そうとする筋肉の感触があった。 極限まで集中して打ち出された刃は、あやまたず帯刀の左わき腹をまっすぐに貫き、切っ先は背中に抜けていた。 即死するような傷ではないが、刀を抜いて放置すれば出血多量で15分ともつまい。 おびただしい血が、袖白雪の柄や、ルキアの腕を濡らした。 「観念しろ。刀を捨てろ。さすれば命は助ける」 呻き声を噛み殺し、まだ刀を手放さずにいる帯刀に、ルキアは呼びかけた。 帯刀の口元から、血が滴り落ちる。それでも帯刀は、傷が深まるにも関わらず一歩踏み込んできた。 血で、ぬるりと柄が滑る。握り直そうとした時、上から落ちて来た帯刀の掌に、肩をぐっと掴まれた。 間近で、顔を覗きこまれる。血の匂いが周囲に漂った。 「これほど……これほど似ていて。緋真ではないのか」 その顔に、絶望の膜が降りるのをルキアははっきりと捕えた。 この男は本当に長い間、本気で緋真を探し求めていたのだ。そのことに唐突に思い当り、ルキアは全身を雷に打たれたように立ちすくんだ。 「なぜだ。貴様はどうして、姉様を――」 「ならばもう、何も要らぬ!」 帯刀は次の瞬間、再び刀を振りかぶった。ルキアは――動けない。手にした刀は、帯刀の脇腹に深々と突き刺さったままだった。 瞬間、何が起こったのか分からなかった。 何かが疾風のように帯刀とルキアの間に現れ、ルキアはどん、と肩を圧されて背後によろめいた。 ぬめる袖白雪の柄が、手から離れる。視界いっぱいに隊首羽織の白が広がり、ルキアの目は刻まれた数字を追った。 「兄様!」 黒髪を翻らせた白哉は、ちらりとも振りかえらなかった。右手に握った刀を目にも止まらない早さで一閃する。 数瞬遅れて、帯刀の右肩から左脇に掛けて、赤い線を引いたように血がほとばしる。声もなく、背後に倒れるのをルキアは唖然として見守った。 見事だ、とこんな場面なのに、思わず見とれた。とても、今の今まで拘束されていた者の身のこなしとは思えない―― 「兄……様」 ルキアは一歩、兄の背中に歩み寄った。白哉の左腕は、脇差で深く縫いとめられていたはずだ。一体どうやって、、この一瞬で崖上まで移動できたのか? まさか。そう思いながら、その左腕を見やる。腕があるはずの袖の先には、何もなかった。代わりに、おびただしいまでの血が袂を濡らしていた。 「騒ぐな、ルキア」 短い悲鳴を上げて駆け寄ったルキアに、白哉は痛みを感じていないように静かに言った。 倒れた帯刀が動かないのを確認した後、振り返る。その頬に、血が飛んでいる。 縛道を力づくで破ったために、その肩と言わず、胸と言わず、縛道が絡みついていた場所の着物は避け、血がにじんでいた。 ルキアは懐から晒しを取り出し、白哉の左の袖を捲る。露わになった左腕の肘上から先が、強引に引きちぎられるようにして、なくなっていた。 そこまでして、自分を護ってくれた。 あの時ルキアは、ここまで姉の死に絶望する人間にならば斬られてもよい―― 一瞬でも、そう思ってしまったというのに。 むごたらしい傷口を晒しで縛るルキアの目に、後悔とも悲しみともつかない涙が浮かんだ。 「申し訳ありません。私は――」 「馬鹿者」 ルキアは兄を見た。黒にわずかに茶の混じる兄の瞳が、まっすぐルキアを見ていた。 そして妹が無事なのを確認した後、ふっとその瞳の力が凪いだ。 兄の体を支え、その重みとぬくもりを自分の身に感じた時、ルキアは心の底から、ただ一人の肉親をいとおしいと思った。 その時、白哉が鋭く首をめぐらしたのを感じ取り、ルキアは周囲を見渡した。 背後の茂みが揺れ、小枝がぽきぽきと折れる音がしたのは、その数秒後だった。 ルキアは白哉を背後に庇い、一歩前に出る。そのとたん、しまった、と思った。 袖白雪は、倒れた帯刀の脇腹に突き立ったままだ。距離は、ざっと三メートル。 一足飛びに近寄って、一気に引き抜くなら今だ。そう思って足を前に踏み出した時、背後から白哉に肩を掴まれる。 「兄……」 「前に集中しろ」 白哉の声に動揺はなかったが、張りつめているのが分かる。茂みを割って現れた男に、思わずルキアは身を引いた。 2メートル近く、体重も150キロを越えると思われる死神にも稀な巨体だった。 そして肩に、刃だけで1メートル近くはありそうな、出鱈目な大きさの斧を背負っている。 ごくり、とルキアは唾を飲み込んだ。下手に前に飛び出していれば、斧の格好の餌食になっていただろう。 巨体の割に目は小さく、それがますます獰猛な雰囲気を際立たせていた。男はちらり、と倒れた帯刀を見下ろす。 「ち、もう虫の息かよ。ま、女一人に一生を棒に振るような小せぇ男には、似合いの死に様だ」 「何者だ」 「何者かだ? 死神は、先輩の顔も教えねぇのか?」 「何だと?」 「郷石十郎。先代剣八が率いた十一番隊の第三席を務めた男だ」 ルキアの問いに、白哉が返した。ズイ、とルキアの隣に立つ。郷石はにやりと笑った。 なぜそんな男がここに、と確認するまでもない。全身から、血の匂いにも似た殺気が噴きつけてくる。ややもすれば、それは狂気にも近かった。 最もルキアが苦手とするタイプの敵であることは、間違いなかった。 力では圧倒的に劣る以上、接近戦はもっての外だ。さらに、今は斬魂刀すら持っておらず、武器になるとすれば鞘だけだ。 遠くから鬼道を打ちこみ距離を取ることしか思いつかないが、この男の鍛えられた肉体を傷つけられるかは怪しかった。 どうする。 ルキアは逡巡した。本来なら兄に応急処置を施し、少しでも早く瀞霊廷に向かうべきだったが――状況がそれを許しそうにない。 一人で戦うほかない。覚悟を決めた、その瞬間だった。ごう、と背後で風が鳴った。 「な……」 巨大な影が白哉とルキアを一足飛びに飛び越え、真っ直ぐに郷石に向かった。 「なんだぁ……馬!?」 「黒丞!」」 郷石に被せるように、ルキアは思わず叫んでいた。 鬣を振り乱し、全身に力をみなぎらせた黒丞が、怒涛の勢いで郷石に迫る。とっさに動きを止めた郷石を、その蹄が強打した。 「この、馬鹿馬が!」 蹄の一撃は直前で郷石が身の前にかざした斧で止まっていた。しかし猛り狂った馬は、郷石に噛みつこうとした。 「黒丞、退け!」 白哉が鋭く叫ぶ。その声に、黒丞は鋭く反応した。郷石が振り下ろした斧を背後に飛んで交わし、白哉の隣に舞い降りる。 しかし怒りは収まらないらしく、白い息を辺りに振りまいた。その口元に泡が浮いている。 状況をよく理解している。それどころか、ある意味危険を察知する能力は自分以上だ。そうルキアは思う。 黒丞に白哉の危機を明確に知ることはできなかったはずなのに、戌吊へ向かう道程で一度も足をゆるめずに奔りきった。 一刻も早く戌吊へ向かい、愛する主人を助けたい。心が自らの体を道具と化して奔る、その矛盾なさに心が熱くなったほどだった。 そして今、白哉を傷つけたのがこの男たちで、このままでは命が危ないことも分かっている。 なりふり構わぬ黒丞の行動が、迷っていたルキアの踏ん切りをつけさせた。 「兄様を連れてゆけ、黒丞。この場から離れろ」 白哉の体力が瀞霊廷まで持つことを信じて、黒丞を再び奔らせるほかない。 「無謀だ。相手が悪すぎる」 「大丈夫です」 兄が言わんとしていることは分かっていた。勝つ方法が浮かんだ訳でもなかった。しかしルキアはその時なぜか、心から微笑むことができた。 「兄様の妹ですから。また、必ずお目にかかります」 黒丞は動かない。代わりに、ぶるる、と軽く鼻を鳴らし、宙を仰向いて匂いを嗅ぐようなそぶりを見せた。 白哉も同じ方向に目をやる。同時に軽く息をついた。 「……次々と出てくるとは、無粋なことだ」 「御挨拶だな」 思いがけないところから聞こえた思いがけない声に、ルキアは思わず肩を揺らせた。 「日番谷……隊長」 郷石の背後5メートルくらいの場所に、いつの間にか日番谷の姿があった。 ずっとそこに立っていたかのように動かない。しかしルキアには、いつ日番谷がそこに現れたのか、全く見当もつかなかった。 直接顔を合わせるのは、あの雪の日以来だった。ずいぶん会っていなかったように思える。 強い男というのは一種の磁場があるのだ、とルキアは身を持って知った。彼が近づいて来ると、まるで湯のような安堵が全身を包むのが分かった。 日番谷は、長い刀を腰に佩いたままの姿で、散歩の途中のようにすたすたと歩いてきた。 その顔にはまだ幼さが残り、成長盛りの手足は筋骨たくましいとは言いがたい。 それなのに、郷石はルキアに背を向け、一歩退がった。 どうやら日番谷の持つ磁場は、敵には強いプレッシャーを与えるらしい。 「どうして……ここに」 「朽木邸を張ってた奴に鉢合わせてな。話を聞いた」 あの兵衛という男を、泥で腕を撫であげられるような薄気味の悪さと同時に思い出す。 俯いた額の辺りに、日番谷の視線を感じた。 「お前ら兄妹は、誰も頼らないところが良く似てるぜ。言っとくが、褒めてねぇぞ」 「兄(けい)には、関係ない。結局は、我々家族の話だ」 白哉が背後で、重傷を負っているとは思えないような穏やかな口調で返した。 は、とルキアが気づき、振り返って止血する。郷石の注意が日番谷に向いている今なら鬼道で治療ができる。 「家族、か」 日番谷は、白哉とルキアを交互に見て、少しだけ目を細めた。 そして鞘に片手をかけ、郷石と向き合った。 「日番谷隊長!」 ルキアは次の瞬間、声を上げた。日番谷の背後から、いくつもの気配が近づいてくる。 当然気づいているはずだろうに、彼はそちらを振り向きもしなかった。 敵は、瀞霊廷に攻め込む計画を練っていたというのに、この場にいる敵が帯刀や郷石だけのはずがないのだ。 実力にもよるが、一気に取り囲まれると苦しい。 「この、ガキが!」 いち早く日番谷の背後から躍りかかったのは、大鎌を構えた男だった。間髪いれず、 「赤火砲!」 女の声が被さった。日番谷の背後で、飛びかかった男が炎に包まれ、悲鳴を上げて地面に転がった。 「……熱ぃぞ、松本」 じろり、と振り返った日番谷の視線の先に、乱菊が瞬歩で現れる。 「そりゃ炎なんですから熱いです。避けてくださいよ」 乱菊はシレッと言うと、周囲に続々と現れた数人の男に視線を巡らせた。 「半分ほどになったわね。あたし一人に勝てないで、瀞霊廷に攻め込もうなんて可愛いわね」 「侮辱するか!」 刀で斬りかかってきた男を、乱菊が迎え撃つ。剣戟の音が響き渡り、火花を残して二人は背後に飛び離れた。 弾かれた形になった乱菊の背中が、日番谷の背中にぶつかる。乱菊は日番谷に背を向けたまま、刀を構えた。 「重い」 「なら避けてくださいって!」 乱菊が前に踏み出し、二人の背中が離れる。日番谷はゆっくりと、郷石に歩み寄った。 ルキアほどではないが、日番谷と郷石の体格差はいかんともしがたいように見えた。 「なんだぁ? 朽木白哉といい、てめぇといい、最近の死神は優男ばっかりか。筆より重いもの持ったことあんのか」 日番谷の全身をじろじろ見ながら、郷石が言う。 しかし揶揄するような軽い口調とは裏腹に、郷石の全身には力がこもっている。 「てめえらみたいな物好きがいるんでな。時折運動はしてるさ」 対する日番谷は柳に風と受け流す。 「そうかい。じゃあ、感謝してもらわねぇとな」 「大した運動になりそうもないが」 「抜かせ!」 単純な日番谷の挑発に、あっさりと郷石は乗った。 どうやら十一番隊の気質は先代の時代でも同じ――なによりも一対一の接近戦を重んじるらしい。 しかし日番谷は、接近戦が得意なタイプには見えない。ルキアは、今だに刀も抜かない日番谷を、はらはらしながら見守った。 「お前は――殺しが好きすぎて、あの十一番隊を追い出されたらしいな。事実か?」 日番谷の手は柄頭に乗せられたままで、引き抜くようには思われない。一方で、あと一歩で斧の間合いに入ってしまう。 郷石はおそらく、舌舐めずりでもしそうな勢いで、日番谷があと一歩踏み出すのを待っている。 日番谷はそれに気づかないように、郷石を見上げた。 「は。鬼道みてぇな技は論外だぜ。この手で敵をぶち倒すのが俺の生きがいなんだよ」 更木みてぇな奴だな、と日番谷は呟いた。 「歯向かってきた敵が、俺の前で跪く。相手の命をこの手で握ってる快感……そして、この手で殺す快感は、一度味わえばやめられねぇ」 日番谷は眉をひそめて、郷石の口上を聞いていた。その眉間の辺りに嫌悪が浮かんでいる。 「瀞霊廷に攻め込んで、どうするつもりだ」 「てめぇも死神だったら分かるだろ。虚より、破面より死神は強い。死神でいる限り死神は殺せねぇからな。だが今は違う」 「なるほど」 日番谷は、さらに一歩踏み出した。斧の間合いに入った! ルキアは息をつめた。 「じゃあ、俺から殺せ」 答えの代わりに、獣のような雄たけびが返した。郷石は思い切り、振りかぶった斧を日番谷の頭の上に打ちおろす。 刀であれば狙い通りに頭を斬るのは難しいが、この巨大な斧だと、受ければ頭ごと叩き潰されてしまうだろう。 ルキアは声を上げることもできず、その場に固まったまま凝視することしかできなかった。 対して日番谷は、更に一歩前にでた。傍目からは特に素早くもなく、無造作に歩いているようにしか見えない。 その手が伸び、斧を振り下ろしかけた郷石の右の手首をしっかりとつかんだ。 一秒、二秒、と立つが、郷石は斧を振り下ろせない。郷石の半分くらいの太さしかない手首なのに、日番谷はびくとも動かない。 見る間に、郷石の顔が朱に染まった。 「このガキ――」 ぴし、と音が響いた。ルキアが目を向けると、日番谷が握っている郷石の右の手首の辺りが、氷に覆われていた。 見る見る間に氷が手首の、肩の、胸の、腹の上を奔るように広がっていく。 「こんな氷! 鬼道なんぞに……」 郷石は両手を氷を振り落とそうとしたが、それよりも氷が拡がるスピードの方が速い。焦りが、郷石の顔に広がった。 斧が、ズシンと音を立てて、郷石の傍の岩に突き立った。無理に氷を体から引き離そうとした途端……音を立てて血しぶきが散った。 「暴れて、皮膚を破られて出血多量で死ぬか。そのまま黙って氷漬けになるか、選べ」 「なにを……」 郷石が身動きする度に、新しい血が氷の上に散った。 ルキアは思わず、止血をした白哉に身を寄せていた。話に聞いた、大紅蓮地獄の話を思い出していた。 その世界では、全てが凍りつく。動こうとした者の皮膚は裂け、氷が血で赤く染まる。それを炎に例え、大紅蓮地獄と呼ぶと言う。 目の前で繰り広げられている血の惨劇は、まさにその名を冠するにふさわしいものではないか―― 「ま……待て!」 氷に口元まで覆われた男が、悲鳴のような声を上げる。その時には、敵を倒し終えた乱菊も、日番谷の傍らにあった。 「何か言い遺すことは?」 「待ってくれ、俺は……」 たすけて、と言おうとしたのだろうか。その言葉は、頭を包み込んだ氷が飲み込んで行った。 再び静寂が戻った台地で、日番谷はため息をつく。終始飄々として見えた彼が、ぐっと疲れて見えた。 「分っからねぇな」 氷像と化した郷石を見上げ、つぶやく。 あれほど殺したと言っていながら、自分が殺される時にはあれほどうろたえたことを差しているのか。 今わの際にさえ、遺す言葉のひとつもなかったことを差しているのか。それとも、殺す快感は自分には分からないということなのか。 「……お疲れさまでした」 乱菊が、労わるように日番谷の肩に手を置く。それと同時に、日番谷の周りを覆っていた冷気が霧散した。 惨劇の終わりを告げるように、清らかな雪が宙を舞う。
last update:2012/5/22