椿は、ひと思いに花ごと落ちる。地面でひとひらの花びらにほどけ、谷の底を音もなく真紅に染めてゆく。 樹上の赤よりも、地の赤の方が増える春先になっても、帯刀は戌吊にとどまっていた。 その日は、本番の春が来たように日ざしが明るい一方で、風は真冬のように冷たかった。 「光の春」と呼ばれる季節にふさわしく、屋根に積もった雪から落ちる雨粒は、きらきらと光のようだった。 どう、と雪が地上に落ちた。その脇を、枝の束を小脇に抱えた帯刀が通り抜ける。 町を行く者たちは、わずか二か月前に自分たちを蹂躙した男が歩いて行くというのに、特におびえた素振りも見せない。 その無表情は、侵略されることに慣れ、諦めきっているようにも見えた。 ただ、帯刀がある粗末な掘立小屋の中に入り戸を閉め立てると、その後にひそひそと声を交わし合った。 「相変わらずボロい家に住んでんな。建ってんのが不思議だぜ」 帯刀は立てつけの悪い引き戸を無理やり閉め、猫の額ほどの土間に立った。そして、四畳半くらいの一間に座っている緋真を見やった。 思った通り、この寒いのに粗末な囲炉裏には火の気もなく、外と温度は全く変わらないほど冷え切っていた。 この草一本生えない戌吊では薪は貴重品で、そうそう手に入るものではない。女一人で生きる緋真なら尚更入手は難しいはずだ。 緋真は寝間着代わりだろう襦袢のまま、粗末な着物を繕っていた。突然引き戸を開けて現れた客に驚いた様子もなく、帯刀を振り返った。 「また貴方なのですか」 迷惑そうでもなく、かつ嬉しそうでもない。いつもの無表情だった。 しかし帯刀の腕にその視線が移った時、わずかに眉が顰められた。 「怪我をしています」 そう言われても、はじめはどこのことを言われているのか分からなかった。 その視線の先を追って腕を見やり、ああ、と頷く。そう言えば、左腕に裂傷を負っていた。 酔った勢いの刀傷沙汰で、相手は斬った。傷と言っても、骨折するなど実際に動きに支障が出ない限りは、怪我の範疇には入らない。 確かに浅い傷ではないが、舐めておけば治る、くらいに思っていた。 緋真はちらりと周囲を見渡したが、恐ろしく殺風景な一畳間には、家具や荷物と言えるものがほとんどなかった。 「おい、何すんだ」 帯刀はあっけに取られ、鋏で今ままで繕っていた着物の袖を引き裂いた緋真を見下ろした。 緋真は問いには無言のまま帯刀に歩み寄ると、引き裂いた布地を傷ついた腕にあてがった。 「お前、それは一枚だけの着物じゃねぇのか」 知る限り、緋真はいつも同じ、この着物を着ていた。緋真は頷いた。 自分でも理由が分からぬ苛立ちのままに、帯刀は緋真を見下ろす。 「お前、たとえばこの枝と引き換えに、俺に体を売っていると周りに噂されているのを知っているか?」 「はい」 「何も思わねぇのかよ」 「はい。事実ではありませんから」 帯刀はしばらく黙ったまま緋真を見下ろしていたが、やがて諦めたように、ふぅっと息をついた。 そして草履を脱ぎ、緋真の隣を通り過ぎて、ズカズカと狭い部屋の中に上がり込んだ。 枝を乱暴に折り、囲炉裏の中に放り込む。ほどなく、部屋の中は枝の燃える乾いた音と、ほの暖かい空気に満たされた。 緋真は、茶の葉がないからと沸かした湯を帯刀に薦め、自分は向かい側に座って炎を見つめている。 真冬に、襦袢一枚なのが痛々しかった。あの一枚きりの着物は繕えば着れるだろうが、片方の袖は短くなってしまうだろう。 帯刀は、自分の腕に巻かれた布地を見下ろす。わっかんねぇな、と口の中で呟いていた。 この女は一枚きりの着物を俺の傷のために切り裂いたが、だからといって俺を大事に思っているわけではない。きっと心配さえしていない。 周りに悪い噂を立てられようが、薪や食べ物がなかろうが自分の境遇に怒るわけでも、悲しむ訳でもない。 人間としての感受性が完全に欠落しているようなのに――その瞳だけは、豊かな湖のように豊かな感情を湛えているように見える。 それなのに俺には、彼女の黒曜石のような瞳が訴えかけているだろう無限の言葉を、理解できたと思ったことが一度もない。 「つまんねぇ」 帯刀は、今までずっと詰らないと思っていて、突然それを思い出したように急に言った。 そして立ち上がると、緋真の傍に歩み寄る。ごろん、と緋真の膝を枕にして寝転がった。緋真は全く反応しない。 まるで、木の根元や草原の中に寝転がったような感覚だった。相手が反応しないのだから当然か、と思う。全く抱く気が起こらない。 そんな木石のような女の言葉に耳を傾け、結局あの椿は斬らなかった。その上、その気にならないという理由で抱きもしなかった。 まったく帯刀にとっては価値がない女なのに、どうして何度も緋真の家に通うのか、帯刀は自分でも自分の気持ちをうまく説明できなかった。 一度も抱かず、まだこの女を理解しきれていないから、吹っ切れないだけなのか。忌々しい気持ちのまま、部屋の窓からも見えるあの椿を遠く見やった。 「おい」 頬を掴み、自分の方を向かせる。 「怪我が開きますよ」 淡々と返す緋真の目を見ながら、帯刀は続けた。 「お前、人を探してるんだってな。男か? 女か」 緋真が、わずかに顔色を変えた。訝しげに帯刀を見下ろしてくる。 「なぜそれを……」 「行方を俺が知っている、と言ったらどうする」 「どこです!?」 突然荒ぶったその声が、緋真のものだと一瞬分からなかった。 いきなり冷水を頭から掛けられたかのように、緋真は全身で身震いして置き直った。 「教えてください、あの子は――」 続けた彼女の言葉を、帯刀は聞いていなかった。 自分でも全く予想していなかったが、初めて女が示した人間らしい反応に、思いがけないほど昂ぶっていた。 帯刀は衝動のまま跳ね起き、緋真に圧し掛かる。自分の体の重みで、背中を床に押し倒した。 抱いてしまえ。そうすればこの女のことを吹っ切れる。激しく鼓動を打つ女の襟元に手を掛ける。 「質問に答えてください」 緋真は、どこにそんな力が潜んでいたのか、と思うような力を込め、帯刀の体ごと起き上がった。 襟元がはだけ、繊細な白い肌が露わになったのを隠そうともせず、帯刀を食い入るように見た。 「聞こえないのですか?」 彼女らしくもない、詰問するような口調でそう言うと、じっ、と帯刀の目を覗きこんでいた。 しかし、これほどまでに答えを求められ、見つめても尚、緋真は帯刀のことを「見ていない」。 それが分かったとたん、帯刀は脱力した。 「……。嘘に決まってんだろ」 緋真の全身から、力が抜け落ちる。黙って、肌蹴た襟元を直した。 「どうして、貴方はここにいるのですか? 私には……貴方に与えられるものはなにもないと言うのに」 「……なら。心を寄こせ」 思いもよらない言葉が、帯刀の口からぽろりと転げ出た。しかし、それは本心だった。 「心などありません」 緋真の受け太刀は、やはり淡々としていた。しかし、さきほど感情をあらわにした名残なのか、彼女には珍しく言葉を継ぐ。 「心は、人と人との間に生まれるものです。私はかつて、一番大切な人との心を壊してしまった。それから、誰とも正常な関係を結べないのです。 あの子を探し出すまで、私はもう二度と、誰とも心を交わさないと決めたのです」 「そいつを探し出せば、変わると?」 緋真はわずかに首を振った。 「自分でももう、分かりません。とうの昔に私の心は実はもうどこにもなく、あの子を探し出しても、感情が動かないのかもしれないと恐ろしくなります」 「そんなことはねぇよ」 そう言って、帯刀は自分でも驚いた。俺は本当に久し振りに、誰かの心を推し量ろうとしている。 緋真の頬が、わずかに紅潮して見えた。赤々と燃える炎のせいかもしれない。 パチッ、と弾ける炎の音が、二人の間に落ちた沈黙を埋めていく。無言のまま俯いた緋真の瞳が異様なほどに輝き、ぽろりと涙がこぼれ出た。 緋真が誰を探していようが、関係のない話だ。 そう思っていたが、次々と出会うものを締めあげ、緋真の探し人の行方を問い詰めた時、敢えてその探し人が何者なのか聞くことはなかった。 緋真が人探しをしていることは町の誰もが知っていたし、ほぼ全員が、直接緋真から問われていたから、帯刀が知らなくとも不都合はなかった。 本当は、あの緋真がそれほどまでに探すもの――愛するものが誰なのか、知りたくはなかっただけなのかもしれない。 「嘘っていうのは、嘘だ」 涙を押さえていた緋真が顔を上げる。 「この辺の奴らは、自分より力が上の奴が相手じゃなきゃ、質問に答えるのも惜しむんだよ。俺が聞けば、あっさりと吐きやがった。 今から数年前。お前の探し人はこの戌吊にいたそうだ。そいつは、連れと共にここを発ったらしい。『死神になる』と言ってな。 死神がいる場所はただ一つ。この流魂街の中央にある『瀞霊廷』だ。ただ、永遠とも思えるほど遠い場所だ。何年後か、何十年後か、いつ辿りつくかは分からん」 「瀞霊廷……」 緋真は、大きく目を見開いたまま、瀞霊廷、ともう一度繰り返した。 おもむろに、弾かれたように立ち上がる。破れたままの着物に、袖を通した。 このまま帯刀のことなど忘れ、引き戸を開けたらもう二度と戻って来ない。 どれくらいかかろうが、彼女ならきっと瀞霊廷に辿りつくのだろう。言えば、こうなることは分かっていた。帯刀はもう緋真に声をかけなかった。 帯をきゅっと結んだ緋真は、不意に帯刀を振り返った。 「ありがとうございます。私に出来ることなら何なりと礼を致します」 「へ。もう見つけたような言い方をしやがる」 抱かせろと言えば、否とは言わないだろう。他のどんな願いでも、聞くつもりに違いないと思えた。 「本当に瀞霊廷で探し人を見つけたら。その時は、俺に心を寄こせ」 緋真は、おそらく初めて、まっすぐに帯刀を見た。その表情に、わずかに戸惑いが見えた。 「てめえに惚れてるんだよ。理由はそれじゃ足りねぇのか」 「……その時に、私に心が戻っていれば。その時に、お答えします」 そう言って一度だけ頭を下げ、立ち上がる。 「名は」 「……緋真、と申します」 わずかに微笑んだ。 緋真は引き戸を開け、最後に一度だけ、振り返った。 光で真っ白に見える背景を背負った彼女は、まるで絵画のように見えた。 いつも、まるで昨日のように鮮明に覚えていた出来事だったのに、今はなぜか遠い記憶の果ての出来事のようだった。 ……あぁ。 緋真が、もう死んだと知ったからか。 心は、人と人の間に生まれる。 そして、人と人の間で、死ぬ。 *** 背中が、血でぬるぬるする。痛みすらなく、ただ体に力が入らないだけだった。 ひと眠りすれば何事もなかったかのように起き上がれそうだったが、そんなはずはあるまい。 目を閉じれば、二度と再び辺りを見ることはあるまい。 気づけば、帯刀はやたら音のない世界の中で、赤に埋もれて倒れていた。 血の赤か、椿の赤か、混じり合って分からない。 ゆっくりと誰かが歩み寄る足音に、帯刀は物憂い視線を向けた。 明るい金色の髪をした死神。その顔に、どこか見覚えがあった。 「……覚えてはいないでしょうね。あたしのことなんて」 「ああ」 覚えていた。遥か昔、瀞霊廷に緋真を探して潜入した時に出会った女だ。 当時出会った人間のことはほとんど覚えていないが、あの時に女を庇った銀髪の男があまりに必死にあらがって来たから覚えている。 「……あの男は、死んだか」 瀕死の重傷を負わせたが、自分も腕に傷を負った。女は数秒の沈黙の後、頷いた。 その眉間に深い皺が刻まれる。 「何を……悲しむ。お前らは命を支配する者。生き返らせればよい」 「それができるなら、あたしは今、こんな顔はしていないわ。……死んだ者は、生き返らない。それだけのことよ」 それだけのこと、と言いながら。女の瞳には、今にも涙が浮かびそうな輝きに光っている。しかし、女の目から涙は落ちなかった。 「死ねば……先に死んだ者に、会う事は出来るか?」 幾人かの足音が近づいてきた。しかしその時にはもう、視界がかすんでよく見えなくなっていた。 「答えを……」 答えが欲しい、と言いすがった緋真のことを、こんな時に思い出す。 この世のどこでも会えぬなら、あの世にでも追いかけてゆきたい。 遠ざかる意識の中、す、と冷たい手が額を滑り、こめかみと耳に触れた。 「緋……さな?」 来てくれたのか? その小さな、少し体温が低い優しい手の持ち主は、無言のまま髪を撫でた。 「会……えたのか? 探していた妹に」 「はい」 確かな声が、そう返した。 探し人が見つかったなら、その時は……と。 俺と緋真は、約束を交わしたはずだ。 でも、もうどうでもよくなってしまった。とにかく、体が重いのだ。 もう、これ以上心に残すことはなにもない。帯刀は、必死に手繰り寄せようとしていた糸のような意識を手放した。 *** 「……幸せそうな顔して、死んじゃったわね」 帯刀の死体を見下ろし、乱菊がそう言うとほろ苦く微笑んだ。 戌吊の地に降りだした雪はだんだん大粒になり、今夜は大雪になると思われた。 日番谷が、野分と白南風を連れて戻って来る。他の者は帯刀の周囲に集まっていた。 「……ルキア」 白哉が妹を呼び、見下ろした。 「何を泣く」 帯刀の隣にしゃがみこみ、掌で額を撫でていたルキアは、自分でも今気づいたのように、頬を伝う涙をぬぐった。 「姉は確かに、この世界で。生きていたのですね」 私も姉に、会いとうございました。 ルキアの最後の言葉は、涙に隠れて途切れた。 二頭の馬を引きつれて歩み寄った日番谷が、ふ、と空を見上げる。 「……椿。綺麗だな」 息絶えた帯刀の頬に、はらりと舞い落ちた。
last update:2012/5/27