その日の夕方。朽木家に赴いた日番谷に、お嬢様なら厩舎におられます、と取り次いだ使用人の清家は言ったが、いつも穏やかな顔に憂色が見て取れる。
「……まだ、黒丞にこだわってんのか」
「黒丞は、白哉様にしか懐かないのです。日番谷隊長からも、止めてくださいませんか。あのままではお怪我をされないかと不安で」
ふむ、と日番谷は口の中でうなり、厩舎のほうを見やる。
あの様子では、怪我をしないか、どころか、生傷が絶えないだろうと思う。
「もう何度も止めてる」
そう返すと、清家と目が合った。お互いに、苦笑ともつかないものが漏れる。
「やっぱりそうなのですか。実は、当主も同じことを」
「朽木白哉が言って駄目なら、もうどうしようもねぇ。朽木ルキアは死神の中でも実力者だ。神馬とはいえ、獣に大怪我を負わされることはねぇさ」
小柄で、一見はかなげに見える外見ではあるが、彼女は意思が強いのだ。
はるか昔、死刑を言い渡された時も、言い訳せず、感情の乱れも見せなかったというから筋金入りだ。
その性格が、いつか命取りにならなければいいが……そう思った時、
不意に、この屋敷内では珍しく、豪快な笑い声が聞こえた。

「お嬢様、またこの黒馬めが無礼を働いて申し訳ねえ。きつく言い聞かしといたからな」
厩舎は、広い庭を突っ切った日当たりのいい場所にある。近寄るまでもなく、その大声は聞こえてきた。
それに対して、ルキアが何か返している。話の内容からして、会話しているのは馬丁らしい。
日番谷がゆっくりと歩み寄ると、果たして、厩舎のすぐ外ではルキアと馬丁が向き合っていた。
貴族の館には珍しく、たっぷりと日に焼け、屈託がなさそうな顔の白髪の男だ。
その隣では、白南風と黒丞が白黒の壁のように佇んでいる。
馬丁は、角を曲がって顔を覗かせた日番谷に、人懐こい笑みを向けた。
「おっ、これはこれは日番谷隊長殿、いつも、こいつ等と遊んでやっていただいて、ありがとうございます。特に白南風は貴方さまに惚れてますようで」
日番谷を見るなり、そちらへ行きかけた白南風の手綱を押さえる。ルキアはため息をついた。
「黒丞も、それくらい人懐こければ良いのだが」
「黒丞は、駄目だあ」
馬丁は豪快に笑い出した。
「こいつは中々嫉妬深い奴でな。白哉様に惚れてる。お嬢様のことを恋敵と思ってるんじゃねぇか」
それを聞いたルキアが、毒気が抜かれたような顔で聞き返す。
「黒丞は雌なのか?」
「確かめてみますかい?」
「……いい」
さすがに苦笑し、ルキアがその場を離れた。
「お嬢様は、馬になんか乗らなくたっていいじゃねえか。死神なんてやめっちまえばいい。
そんなにお綺麗なんだ、体を大事にして、いいところへ嫁に行くのを白哉様だって……おおっと」
馬丁が、日番谷を見て首をすくめ、言葉を止める。
死神は自分の意思で抜けられず、勝手に脱走でもしようものなら「蛆虫の巣」に放り込まれる。
ただし、隊長である白哉がうまく運べば、穏便に辞められないとも限らない。
白哉が妹思いであることを知っている使用人たちにとってみれば、なぜ白哉がルキアの職業を黙認しているのかがそもそも謎だろう。

黒丞を見上げるルキアの首筋に、青黒いあざが残っているのに気づき、日番谷は眉を顰めた。
今日ついた傷ではないだろうが、襟元から覗いているだけでも、かなりひどいようだ。
「……今日は馬には乗らねぇ。厩舎で休ませておいてくれ」
「へい! かしこまりました」
問いかけるように、ルキアが日番谷を見上げる。
日番谷がここに来るのはルキアに修行をつけるためだけではない。
十番隊に神馬を導入するにあたって、その使い勝手を試しに来ていると知っているからだ。
「朽木白哉が、遠征に出るからな。疲れさせるとまずい」
こちらを振り返り振り返り去ってゆく白南風と、黒丞と馬丁を見送りながら、そう答える。
「危険な任務……ではないですか?」
そう問われて、日番谷は苦笑する。
死神が……特に隊長格が負う任務で、危険でないものなどまずない。
日番谷を見上げるルキアの大きな目は、言葉よりも雄弁に、兄が心配だと物語っている。

「……朽木白哉は、大丈夫だ」
危険ではない、という代わりに、そう答えた。
実力はもちろん、朽木家の当主として敗北は許されぬ、という強い意志で彼は立っている。
血筋、というものとは無縁の日番谷には分らないが、それでも、自分についてきてくれる部下たちに恥じない隊長でいたいと思っている、
その気持ちと近いのかもしれない。
日番谷は、改めてルキアに向き直った。
「……さっきの馬丁のセリフじゃねえけどよ。お前、死神を辞めたっていいんだぞ。いざとなれば口利いてやってもいい。
お前みたいな家柄の令嬢が、こんな危険な稼業につく必要はねえだろ」
そこまで言って、日番谷は思わず言葉を飲み込む。見返してきたルキアの目が一瞬、怒りに似た感情に燃えるのを見たからだ。
しかしそれはわずかな間のことで、ルキアはすぐに、感情を露にしたのを恥じるように俯いた。
「それとも。お前にも『死神でいる理由』があるのか?」
「あります」
続きを促すように見返すと、ルキアはしばらく、ためらった。
言葉を探しているというよりも、口にして良いのか考えているように見えた。

話しづらそうなのは一目瞭然だ。話をそらしてやろうとした時、不意に口を開いた。
「十三番隊の、副隊長になりたいのです。それが私の夢です」
え、と思わず日番谷は声を漏らし、あらためてルキアの顔を見やった。驚いた日番谷の様子に、ルキアは自嘲気味に笑う。
「おかしいでしょう? 私のような、無席の者が副隊長などと」
「いや、そんなことはねえよ」
本音だった。
無席であっても、ルキアは第四席のレベルの力があると白哉に返したのは、つい先日のこと。
二人の第三席を超えた先にある、副隊長の座にたどり着くのが不可能とは思えなかった。
「……そういえば、あの隊の副隊長は、ずっと空席のままだな」
「前の副隊長が、優れた方でしたから。誰かがその場所を埋めて、あの方の歴史が終わったかのように思えるのが、あの時代を生きた隊士には辛いのだと思います」
ルキアは、視線を一番星が光り始めた空に投げた。
「でも海燕殿は、そのようなことは望まれていないはず。私達が前に進むことを、望んでおられたはずです。
海燕殿が立たれていたのと同じ場所に立って、浮竹隊長を助け、隊士を護る。それが私の目標です」
海燕、という名前を日番谷は心の中で繰り返す。志波海燕。書面でしか知らない名で、直接面識はない。
日番谷が真央霊術院に入った頃には、すでに故人となっていた。

「……大したモンだな」
「ええ。海燕殿ほどの方は、そうおられません」
「いや」
日番谷は苦笑した。
「お前のことだよ」
志波海燕の死の経緯を、又聞きではあるが知っている。やむをえなかったとは言え、手を下したのがルキアだったことも。
二度と振り返りたくない過去だろうに、責任から逃げることなく、向き合っている。
視線を戻したルキアの目が、驚いたように見開かれている。見る見る間に、その頬が赤く染まった。
しかしすぐに、動揺を隠すように首を振った。
「そのようなことは、ありません。私は、中途半端ですから」
「中途半端?」
「……お分かりには、ならないでしょうね」
それでいいのだという風にルキアが微笑んだから、日番谷もそれ以上は聞かなかった。
「お前、朝飯が林檎だって本当か?」
いきなり話を方向転換させた日番谷に、ルキアがきょとん、としたままもう一度首を振った。
自分よりもいくつも年上のはずだが、そんな表情はまるであどけない子供のようだ。
思わず、がしがしと頭を撫でてやりたいような気持ちになり、日番谷は自分にもこんな面があったのかと思う。
朽木白哉が、この娘を誰よりも気にかける理由が、分る気がする。

「そんな食事だから、いつまで経っても棒みてえなんだ。松本が気に入ってる店が、近くにある」
棒、と口の中で繰り返したルキアが、反射的に自分の体を見下ろす。
まるで少年のような体型に、狼狽したように目を反らす。
「松本副隊長が、特別なのです! 私は……その……」
普通です、とも言い切れずにいるルキアを後にして、日番谷が歩きだす。
「お待ちください、日番谷たい……」
小走りに駆けてくるルキアの足音に混じって、蹄が鳴る音が聞こえた。二人とも、その場に足を止めて振り返る。
「兄様!」
ぼう、と暗闇に、白い馬体と跨った男の姿が浮き出してきた。
この時間帯に、死覇装に隊首羽織の正装である。ルキアの表情が緊張した。
「当主! こんな時間から、お出かけで? 黒丞じゃなくていいんですかい」
後ろから馬丁の声が追いかけてくる。


ルキアは、白南風の前に歩み出る。優しい瞳をした神馬は、その眼前で立ち止まった。
馬上の白哉が、表情をうつさぬ漆黒の瞳で、妹を見下ろす。
「……しばし、屋敷を空ける。ルキア、留守を頼むぞ」
「は、はい。兄様はどちらへ?」
「戌吊へ」
「戌吊?」
日番谷が思ったとおり、ルキアが声を上げる。
「私が恋次と共に育った場所です」
「そうか」
もともと知っているため、白哉の声は平坦なままだった。ルキアの背後で腕を組んだ日番谷が呼びかける。
「もう行くのか。涅の調査結果は出たのか?」
白哉は軽くうなずいた。
「帯刀という男と、他に3名の脱走が確認された。猿柿の伝えた特徴とも一致している。間違いなかろう」
「一人で行くのか?」
「ぞろぞろ部下を引き連れるのは性に合わぬ」
「そうかもしれねぇが、……無理はするなよ」
予感や占いなど信じるタイプではないが、厭な予感がした。
しかしそれをこの場で言えば、ルキアが心配するばかりだ。白哉は軽く頷く。
「兄様!」
ルキアが一声呼んだ。高音の鐘をひとつ打つように、凛と相手の心に染みる声だ。
白哉は漆黒の瞳をルキアに向ける。
「……私に万一のことがあっても、お前は関わらずともよい」
「そんな……」
眉間に皺を寄せて言い返しかけたが、白哉にじっと見下ろされると、開かれた唇がゆっくりと噛み締められる。
兄妹の視線は数秒間からみあったが、すぐに離れた。
「日番谷隊長。妹を頼む」
「ああ」
日番谷が頷くと、白哉はそのまま背中を向ける。
少しずつ遠のく蹄の音を、ルキアは肩を落として見送った。
「珍しいこともあるもんだ。当主は黒丞にいつも乗られるのに」
馬丁の声に、日番谷は何も返さなかった。

白哉が、敢えて白南風を選んだ理由。
それはきっと、黒丞に乗れないルキアに、後を追ってこさせないためだろう。
「……日番谷隊長。修行を、つけていただけませんか?」
唇を噛み締め、白哉が去っていった闇をにらみつけるルキアの目が、きらきらと輝いていた。


***


数時間後。
「……朽木がいなくてよかったぜ」
日番谷は、ぼやきながら夜道を歩いていた。深夜に近い時間帯のため、その裏通りに人影はない。
凍てつくように冷たい夜だった。下弦の月が、夜空を切り取ったようにくっきりと浮かび出ている。
ため息をついて、酔いつぶれたルキアの身体を背負いなおす。
ぐったりと力を失った身体は安定せず、雪のせいで足場の悪い状態では、気をつけて歩かないと滑りそうだった。
もしも白哉がこの有様を見たら、おのれ送り狼、と斬魂刀を抜いてもおかしくない、と日番谷は半ば本気で思う。
しかしこんなことになった原因は、あの男にある。

白哉が去った後、ルキアは日番谷に真剣での立会いを求めた。
正眼に構える間ももどかしく、体当たりで打ちかかってきたルキアの勢いに、押されたというよりも戸惑った。
全力で打とうと軽量のルキアの一撃は軽く、いなすのはさほど難しくない。
かわした後斬り返そうとして、一瞬その手が止まる。普段なら身軽に攻撃をかわすルキアは、よける代わりに焼けるような目で日番谷を見返してきた。
このまま振り下ろせば、ルキアの肩口に当たる。ためらった瞬間、袖白雪がひらめいた。
「っ……」
間一髪、瞬歩で背後にかわした。
「……どうしたのですか? 日番谷隊長。あなたらしくもない」
ルキアの息がはずんでいる。らしくないのはお前だろう、と思った。
自分の身を全く守ろうとしていない戦い方だ。こんな戦い方をすれば、練習でも命にかかわる。

白哉に、万一のことがあっても関係ないと言い放たれ、置いていかれたことが原因なのは間違いなかった。
ルキアの剣筋からは、悔しいとも、悲しいとも、腹立たしいともつかない感情がにじみ出ている。
そこまで兄のそばにいたいなら、どうしてあの時、自分も一緒に行くと伝えなかったのだろう。肩を落として白哉を見送った後ろ姿を思い出す。
誰もが知るほど、互いに互いを思いやっている兄妹でありながら、その感情を見せないところがよく似ている。
「もう止めだ」
十五分ほど斬り結んだ後、日番谷は大きく刀を振るってルキアの刀に打ち当て、退かせた。
「なぜ……」
「こんなのは修行じゃねぇ。お前の八つ当たりには付き合わねぇぞ」
ルキアは、平手で頬を叩かれたような顔になり、立ちすくんだ。
「も……申し訳ありません」
小さい身体をさらに縮めて頭を下げたルキアを、気分転換に、と乱菊が薦めていた料亭に連れて行ったのは良かったが……


緊張しているところに、酒を飲ませたのがまずかったのだろうか。
結局八つ当たりの方法が、刀から酒に変わっただけの話だったのか、ルキアはぐいぐいと飲み、そしてあっという間に酔っ払った。
もともと、酒の免疫はないのかもしれないが、二時間後には意識はもうろう、歩くのもふらふらという状態になった。
車を呼びましょうか、と声をかけてくれた店の者に、日番谷は首を横に振った。
こんな深夜に、車で家の前に乗り付けては、ルキアも体裁が悪いだろう。

―― だからって、俺がなんでコソコソしなきゃいけねえんだ……
霊圧を殺し、人気がない道を歩きながら、日番谷は苦笑した。
「……申し訳、ありません」
不意に耳元で声が聞こえ、日番谷は振り返った。
「なんだ、起きたのか」
「歩きます。自分で、歩けますから」
「とかさっきも言ってたが、歩けなかっただろうが」
「大丈夫です!」
酔っ払いの大丈夫、ほど当てにならないものはない。思ったとおり、日番谷の背中から滑り落ちた瞬間、ルキアはよろめいた。
「……っー……」
今にも吐きそうに口元を押さえたルキアに、日番谷は背中を向ける。
「動くと余計酔いがまわるぞ。背中に乗れ」
「でも! もし吐いたりしたら……」
「いいから、乗れ」
「……」
恥ずかしそうにルキアが日番谷の肩につかまる。そっとその体を背中にひっぱりあげた。

ルキアが遠慮ぶかく日番谷の肩に添えた指は、おどろくほど細い。こんな指でよく刀が握れるものだと感心する。
耳鳴りがしそうに、しんと静まり返った夜だった。
「そろそろかもな」
神馬は十二番隊を中心に何頭もいるが、その中でも白南風と黒丞は名馬として知られている。
ため息をついたルキアに、日番谷は呼びかけた。
「……ついて行きたかったんだろ。連れて行けって言えばよかったんだ。兄妹だろ」
きょうだい、の響きにルキアは微笑んだ。
「足手まといになると分かっているのに、言えません」
「お前は、志波海燕を目指すんだろ。又聞きでしか知らんが、隊長に近い力の持ち主だったと聞いてる。そんな弱気じゃ、後釜は務まらねぇぞ」
「……分かっています」
「お前はなんで、朽木白哉を追いかけたいんだ? 妹として心配だからか? それとも、隣で戦えるほど強くなりたいのか?」
踏み込んだ質問をした自覚があった。思った通り、背後のルキアはしばらく無言だった。

頬に氷がはりつきそうなほど冷え込む空気の中、互いの身が触れ合っている部分だけが温かい。
暗闇の中、目の前をちらりと何かがかすめたと思ったら、綿のような雪片だった。
音もなく、次から次へと暗闇から現れては足元に散ってゆく。
ルキアが身じろぎする気配がしてすぐに、ばさ、と頭上で音がした。
顔を上げると、ルキアが携えていた傘を、ふたりの頭上で開いたところだった。赤い和紙に、雪が積もってゆく。
「……私は、中途半端なのです」
傘を日番谷の上にさしかけながら、ルキアはそう言った。
銀髪の上に積もった雪を、細い指が軽やかに払う感触がかすかにした。
「私は、兄様の隣で対等に戦うには弱すぎるます。そして、女として唯一と思われるような存在にもなり得ません」
「? お前、朽木白哉に惚れてんのか?」
くらぁ、とルキアが日番谷の背中の上で揺れた。
「ち! 違います! とんでもないです! 私は、妹です!」
「わ、悪かった。今のは訂正する」
話の流れから、白哉にとってのルキアの存在、ということかと思ったが、そうでもないらしい。一般論だったのかもしれない。
放っておけば延々と言い募りそうなルキアの剣幕に、日番谷はとっさに謝った。
「中途半端、か」
「日番谷隊長は、そんなことで悩まれたことがないでしょう?」
「いや」
日番谷は首を振った。
「中途半端っていうなら、全部そうだろ」
ルキアが息をのむ気配があった。

頼れる部下でありながら、自分を導いてくれた恩人でもある松本乱菊しかり。
家族でありながら、恋と見分けがつかないような感情を抱いたことのある、雛森桃しかり。
一言で言いきれるほど、人と人との関係は単純ではないと思うようになっている。
離れがたい関係性、というのは、そんなあいまいな部分にこそ多く潜んでいるようにも思える。
「だからな。お前も、そのままでいいんだぞ」
背後から、返事はかえってこなかった。その代わりに、肩に置かれた指に、力がこもったのを感じた。


last update:2011/10/2