強い眩暈と吐き気は、酔いが引くと同時に嘘のようにおさまっていった。
きしっ、きしっ、と雪を踏む音と、日番谷のかすかな息遣いしか聞こえない。
見上げると、自分が二人の頭上に差しかけた唐傘の上に、白く雪がたまっているのが透けている。
重みを増しているのに気づき、傘を横に倒すと、さらさらと音を立てて道にこぼれてゆく。
「それにしても、高ぇ塀だな」
朽木家の周囲に張り巡らされている、5メートルはある塀を見上げ、日番谷は感心したように言った。
「も、申し訳ありません」
「なんでお前が謝る」
日番谷は笑ったようだった。わずかな振動が伝わって来る。

「ちょっと揺れても大丈夫か?」
日番谷がルキアを振り返った。
「あ、はい。大丈夫です」
ルキアが頷くと同時に、ふわ、と身体が浮き上がる感触があった。
と思った時には、視界がぐんと上に上がる。塀をちょうど見下ろせる高さ……力を入れたようにも見えなかったが、6メートルは一瞬で跳んでいただろう。
片手でルキアを支え、開いた手で塀の近くにあった枝をつかむ。そのままひょい、と庭に飛び降りた。

まだ誰も足を踏み入れていない庭園は、足跡ひとつない真っ白な雪で覆われていた。
月光が差し込み、陰影がくっきりと浮かび出て美しい。
きれいだ、とルキアは思わず息を飲んだ。日番谷も同じだったのか、立ったまましばらくその景色を眺めていた。
「……不思議です」
不意に胸に浮かんだ言葉を、ルキアはそのまま口にした。
「何が?」
「私はずっと貴方を、雲の上の存在のように思っていたのに。こんな風に一緒に、夜の庭を眺めることがあるなどとは、夢にも思っていませんでした」
本人には口にしたことがない、本心だった。
隊長になったばかりの日番谷は、氷雪系の中でも最強の斬魂刀を引っ提げ、史上最年少で隊長の座についた神童。
同じ氷雪系の力を持つということや、流魂街出身であるという似た背景は、ルキアの劣等感をさらに掻き立てることはあれ、親近感は覚えなかった。
ルキアが見る日番谷はいつも遠い姿で、目を合わせることもなく話すこともなく、肉体をもった存在なのだと思うことすらなかった。

それなのに、今のルキアは日番谷の腕の筋肉が躍動する感触も、その温もりさえも自分の肌で感じている。
そう思ったとたん、ドキリとした。今まで気分の悪すぎてそれどころではなかったが、考えてみるとこの状況は異常ではないか?
これほど人と接近した記憶が、ちょっと思い出せない。
「なるほど。俺のことを、どこかの本の登場人物くらいの目で見ていたか? おまけに、ナリだけ見れば子供だと」
「い……いえ!」
思わず声を上げてしまい、慌てて低める。
「そのような失礼なことは考えておりません……」
しかし考えてみれば、「本の登場人物」という表現は言い当て妙なのだった。「子供」というイメージもいまだに根強い。
「どうかな」
酔いのせいだろうか、やけに肌が敏感になっているのを感じる。
その指も、足も腹も、日番谷と触れている部分は全て、震えがきそうなしびれを帯びている。
「あの、もう大丈夫です。下ろしてください」
無様に、声がかすれた。日番谷が全く不意に、ルキアを解放する。
両足の支えをなくし、ルキアは雪の上でよろめいた。

刹那。

ずっしりと重い体躯がルキアの上から落ちてくる。掌が、ルキアの髪に深く差しこまれる。
何が起こったのか分からぬまま、ルキアは背中から、まっさらな雪の上に倒れ込んでいた。
痛くはない。後頭部は日番谷の掌に支えられているため、衝撃も感じなかった。
「ちょ……日番谷隊長、大丈夫ですか?」
とっさに、日番谷が体調を崩したのかと思い、ルキアは日番谷の下でもがいた。
温かい息が、ルキアの喉元をくすぐる。ぬるり、とした生温かい感触があった。
それが舌だ、と思った瞬間、強く音を立てて首筋を吸われた。わずかな痛みとともに、全身があっという間に硬直する。
「……息、しろよ。ちゃんと」
囁きが耳に吹き込まれる。あまりの動揺に、言葉がうまく口をついて出てこない。
「聞いたことあるか?」
その声から、日番谷の感情は伝わってこない。ルキアの頭が麻痺しているから、感じ取れないだけかもしれない。
「鬼道系の死神が強くなりたきゃ、同じ系列でより強い力の奴と交わればいい。相手の力を受け入れることで、強くなると」
「そ……んなものは、迷信です!」
あの日番谷が、そのような世迷言を口にするとは。ルキアは初めて腕の力を入れ、日番谷を押し返そうとした。

腕を払った拍子に、日番谷の襟元に触れる。その左胸が夜目にも白くはだけ、ルキアの細い指先が日番谷の胸に触れた。
日番谷の鼓動を、掌の下に感じた。とたんに、ルキアはまるで自分が触れられているかのようにひとつ、喘いだ。
「どうした? 家の奴を、呼べばいいだろ」
圧し掛かって来る身体の圧力に、ルキアは今さらのように驚いていた。
人間でいえば十三歳程度。
まだ子供だと言うのに、歴戦で鍛えられたその体格は、ルキアと同じくらいの身長だというのに筋肉の塊のようだった。

日番谷の胸元に置いた手を、下ろすことができない。その温もりに、くらりと酔いはじめていた。
何よりも雄弁に、その鼓動と体温が、お前が欲しいのだとルキアに伝えている。
ルキアの左胸が、自分がしたのと同じように肌蹴られる。外気とともに掌の感触が着物の中に滑り込み、ルキアはまたひとつ、喘いだ。

日番谷の銀色に輝く髪の向こうに、白い月が浮かんでいる。
おぼろに光る雪が、次から次へと落ちて来る。美しい、とまた思った。美しいが、冷たい景色だ。
自分を包み込む雪に、不思議と冷たさは感じなかった。ただ、身体が熱い。皮膚が冷たくとも、どんどん熱が身体の奥底から生まれて来る。
抗うのか。
それとも任せるのか。
両手を空に高く上げる。そして――


*


ルキアは、小さな叫びと同時に目を見開いた。
「……」
しばらく、胸に手を当てたまま、荒い息を整える。
空には、白い月が浮かんでいた。雪が、ちらほらと静かに降っている。
いつの間にかルキアは、自室へと続く縁側に腰掛け、その柱の一つにもたれかかっているのだった。

庭は無人で、足跡も残っていなかった。ルキアは思わず、自分の左襟をくつろげて見下ろした。
……誰が触れた跡もなく、服は乱れてもいなかった。
「……ゆめ」
その声が無様に揺れている。

そうだ。
日番谷は自分を背負ってこの屋敷に足を踏み入れた後、ルキアをこの縁側に下ろして――
―― 「じゃあな。早く部屋に入れよ。お休み」
そう言って、そのまま姿を消したのだった。
そのまま、酔いに任せてうとうとしてしまったのか。

夢の内容を思い出すにつれて、ルキアは自分の顔が熱くなるのを感じた。
一体、なんということだ。自分が尊敬している相手に、半ば無理やりに抱かれる夢を見るなどと。
日番谷はルキアに対して、そのような浅ましい感情は持っていない、ましてや行動に移すことなど絶対にあり得ない。
それはルキア自身も同じことだ。抱かれたいなどと、想像もしたことがなかった。
―― それなのに。
あまりに生々しい感覚に、すぐには冷静になれそうもない。
相手の掌を肌に感じて、どう思った? 無理やりに抱かれようとして、何を感じていた?
目を覚ます直前、手を高くさし上げた自分は、次にどうするつもりだったのだ。
「……恥を、知れ」
無意識のうちに、そう呟いていた。
このような浅ましい心が、自分の中にあるからこそこのような夢を見るのだ、と思った。恥を知れ、と。


投げ出したふくらはぎに、雪片が落ちる。
足は氷のように冷え切っていたが、それでもすぐに部屋に入る気にはなれなかった。
とても、何事もなかったかのように日常に戻れない。しばらくここで、頭を冷やしていたかった。

しんしんと、雪が降る。身体がゆっくりと冷たくなってゆく。
ルキアは放心したまま、庭に振り積む雪を眺めていた。
このままでは、寒さに強い自分といえども風邪をひいてしまうだろう。それでも、かまわないか。そう思った時だった。
―― 「おい!」
急に頭の中に響いた声に、ルキアは文字通り飛び上がった。
天廷空羅……縛道のひとつで、遠くにいる相手の場所を補足し、声を届ける術だ。
驚いた理由は、あまりに声の主のタイミングが悪かったからだ。
―― 「おい、聞こえてんのか? いつまで縁側でボーッとしてんだ。寝てんのか?」
―― 「は! はい! 日番谷隊長! 起きています!」
慌てて返したが、胸はひっくり返りそうにドクンドクンと鳴っている。
―― 「なに慌ててんだ……? とにかく。そんなとこいたら風邪ひくぞ。さっさと部屋に入れ」
考えてみれば、自分は特に霊圧を閉じていない。隊長くらいになれば、霊圧を頼りに正確な位置まで遠隔で把握できる。
この霊圧の乱れを悟られていなければいいが……ただ、日番谷の声音はじゃっかん呆れてこそいるが、いつもと変わりなかった。
―― 「お気づかい、ありがとうございます。はい、すぐ中に入ります」
―― 「それならいい。……お休み」
―― 「……。お休みなさい」
身体は、身軽に立ち上がれないほどに強張っている。
だが、心の中にはさっきまでとは違う、暖かな気持ちが拡がっていた。
「おやすみ」。ささやかな挨拶だが、まるで家族のように血の通った言葉に思えた。

立ち上がると、廊下の向こうに、朧な光が差し込んできているのに気づいた。
たどたどしい足取りで、オレンジ色の柔らかな光の方へと誘われるように歩き出した。
光が揺れているのは、光源が蝋燭だからだろう。そこが亡き姉の部屋だと、ルキアは知っていた。


「……姉さま」
甘やかな、とも言える光の中、わずかに開いた仏壇から、姉の遺影が覗いている。
ルキアは畳をきしきしと踏みながら、仏壇へと歩み寄った。
周りからよく言われるが、本当に自分と顔が似ていると思う。
漆黒の瞳、髪は言うまでもなく、目鼻立ちも双子のようだ。
でも、二人の間で決定的に違うものがある……それは、表情。
内側からにじみ出たような微笑み。幸せだったのだろう、とルキアは姉の人生を想像する。
……自分は、いまだにうまく、笑えない。

ちらり、と姉の衣装箪笥に目をやる。
ここに来た時点で、自由に使っても良い、と白哉に言われたものだ。
しかし、姉に似ていて決して姉ではない、ということを露呈するようで、姉の着物を身につけることはできなかった。
そっと引き出しを開け、中の着物を覗き込んだ途端、はっとして思わず手をとめた。
あまりに、初めに目に飛び込んできた着物が美しかったからだ。
純白ではない、金色をわずかに散らしたような色。
そっと掴み取り出してみると、点々とちりばめられた真紅の椿が、ぐいを眼を惹いた。
椿は、白哉の華押でもある花である。
真冬に真紅を添えるその花は、彼自身のように孤高で凛と美しい。

椿はまるで本物の花のように艶々しい。
その色みがかった白は、一糸纏わぬ女の肌を思い起こさせる。
そこに散らされる、椿の真紅。

姉様に、この着物を送ったのは、兄様なのだろうか。
姉様は、この着物を身に着けたのだろうか。
そして……兄様に、抱かれたのだろうか。

そこまで考えて、びく、とルキアは顔を上げた。自分はなんという恥知らずなことを考えていたのだ、と思わず頭を振る。
さっきの夢が影響しているのか、まだ残っている酔いのせいなのか。
なにげなく胸に置いた拳に、どく、どく、と脈打つ鼓動が伝わってくる。
ほのかな燈の下で、拳ごと抱きしめるように、その音に耳を済ませていた。

ルキアは自分でも気がつかない内に、長く細いため息を漏らしていた。
海燕のように強くなり、同じ場所に立ち、かつて彼が自分にしてくれたように、十三番隊を護る。
そして、兄の隣に立って戦えるような死神になりたい。そう思い、突き進んできた死神としての道だった。
迷いはないはずなのに。いつからか、もう一人の自分を知ってしまった。

力だけでよいのかと、微笑む姉が遺影の向こうから問いかけているように思えて。
女として誰かを思い、その誰かに思われる。それが幸せの形ではないのかと、思うもう一人の自分がいる。
中途半端だ、と思うようになったのは、同じころからだ。

力が欲しいのか。愛情が欲しいのか。
どちらも選び、どちらも選べない自分自身の間で揺れている。
あの人は、それを知ってもなお、うなずいてくれるだろうか。
そのままでいい、と。言ってくれるのだろうか。



last update:2011/10/2