「……やっと、動いたか」
ほぅ、とため息を漏らすと、息で闇の一部が白く染まった。そしてすぐに闇に吸い込まれた。

―― なんだったんだ? さっきのは……
別れたばかりのルキアに、名を呼ばれた気がしたのだ。
天廷空羅か、と思ったが、それにしては声が妙な具合にかすれていた。
本人が意図せずに呼びかけてしまった声が届いたような……
少し前まで日番谷は立ち止り、声なき声に耳を澄ませるように空を見上げていた。

「日番谷隊長」と呼ばれていた気がするが、他の呼び方だったかもしれない。
ルキアが自分に呼びかけてきている、という漠然とした状況しか分からなかった。
空耳か、と聞き流すにはあまりにその声は。
―― 必死、っつーか、切実、つーか……
少なくとも、生身のルキアがあんな声で日番谷を呼んだことは一度もない。

何事だと思い、霊圧を探って初めて、ルキアが自分が下ろした縁側から動いていないことに気づいたのだ。
声をかけたら驚いたようだったが、窮地に陥っている、という風ではなかった。
―― ま、そりゃそうか。
本当に何か窮地に陥ったとして、それが窮地であればあるほど、ルキアは周りに助けを求めるような女ではない。
誰かを呼ぶなど、それが誰であろうとあり得ない。

あの兄を持つ妹なら、それを「誇り」と呼ぶのかもしれないが……
少女のようにも見えるルキアがその態度を貫く姿は、単なる「意地っ張り」に見えなくもない。
それを本人に言えば、顔を真っ赤にして怒るのだろう。その顔を想像して、思わず日番谷はくすりと笑った。

背中が、すぅすぅと風が通り抜けるように寒く感じる。
どうしてだろう、と思った時、さっきまで背負っていたルキアの体温を思い出した。
―― 「おやすみなさい」
脳裏に響いた彼女の言葉を、なぜ急に思い出すのだろう。
おぶってもらった引け目がそうさせるのか、珍しくおずおずとした声をしていた。
「……らしくねぇな」
思わずつぶやいた。俺はさっきから、何を考えている? 思いのほか、酔っているのかもしれない。
さっさと隊舎に戻ろう、と日番谷が歩き出した時、知った霊圧を感じて足を止めた。



霊圧を頼りにたどり着いたのは、四番隊の隊舎前だった。
夜も更け、松明の燈しか近くには見えない。炎に照らされ、おぼろげに浮かび上がった馬の輪郭に、思わず声を上げる。
「……東雲(しののめ)か」
東雲と、瑞雲(ずいうん)。この二頭は普段十二番隊に預けられているが、四番隊の所有となる予定の神馬だ。
馬力は朽木家の神馬より劣るが、医療隊にふさわしく、気象が穏やかな馬が選ばれたと聞いていた。

手綱と鞍をつけ、身動きもせずに、まるで彫像のように雪の中、じっと立っている。
その黒く大きな瞳に、きらきらと炎の輪郭が映っている。白っぽい鬣(たてがみ)が揺らめいているのが何だか艶めかしい。

「よっ……と」
その背に手をかけ、馬上の人となった小柄な女に、日番谷は視線を向ける。
猿柿ひよ里だと気づいても、驚きはしなかった。そもそも、彼女の霊圧を追いかけてきたのだから。
首には、日番谷のマフラーをぐるぐると巻きつけている。どうやら、そのまま持って行くつもりらしい。
―― まさかあいつ、神馬を盗んだんじゃねぇだろうな……
マフラーくらい構わないが、神馬ともなると話は別だ。一瞬困った場に居合わせたと思ったが、すぐに疑いを解いた。
盗み出したのなら、こんな堂々と四番隊の隊舎前で、馬に乗ろうとするはずがない。
卯ノ花の許可を得ているのは間違いないだろう。
―― 卯ノ花隊長も勇気あるよな。
ひよ里たちは敵ではないが、かといって味方でもない。仮面の軍勢も、味方だと思われたいとはカケラも思っていないはずだ。
虎の子の神馬を貸し出したところで、いつ戻されるのか定かではない。最悪、そのまま戻らない可能性もある。
もう百二十年も昔のことだが、卯ノ花と仮面の軍勢は同僚だった。自分にはあずかり知らない絆があるのかもしれない、とふと思う。

ゆっくりと、日番谷はひよ里に歩み寄る。霊圧を殺してもいないのに、気づいていないようなのが意外だった。
彼女を、信用しているのか? と言えば、肯定も否定もできないのが正直なところだ。
ただ、「裏切られても構わない」と思うほどに、好意を持ってはいる。

ひよ里は、右手で手綱を取っていたが、ふと思い出したように、左手で懐を探る。
取り出した小さな黄色い巾着袋を、そっと掌の中にあたためるように置き、見下ろした。
何が入っているんだろう、と思ったがすぐに気づき、ハッと胸を突かれる。
卯ノ花が、平子のために調合した薬が入っているのだろう。
日番谷の視線には気づかないまま、ひよ里が丁寧な手つきで懐にしまおうとした時、するり、と袋は小さな掌から滑り落ちた。
「あ!」
咄嗟に手を伸ばそうとした時、同時に日番谷も動いていた。
馬の足元に落ちそうになったそれを、ぱし、と手で受け取る。


ぎょっ、とした表情のひよ里と目が合う。本当に気づいていなかったのか、と改めて思った。
いつもつりあがった眉の辺りに、力がない。やはり、疲れているのだろう。
「……早く持っていってやれ。重傷なんだろ」
「気配消して近づくなや。趣味悪いわ」
無心な時の行動を見られたからだろうか、ひよ里の口調は荒かった。それには答えず、
「大丈夫か?」
と訊ねた。考えてみれば、ひよ里が疲れているのは当然なのだ。戌吊から瀞霊廷は、死神の足で一週間ほどかかる。
その後ろくに休みもせず、同じ行程を引き返すというのだから、神馬に乗っていてもかなりの荒行になる。
ひよ里は、苦虫を噛み潰したような顔を返した。
「熱あるんか? お前」
「お前に聞いてんだよ」
「……大丈夫や! お前なんかに心配されたら終わっとる」
手綱をぐいと引き、馬を歩ませる。そのまま無言で去ろうとしたが、不意にきっと振り返った。
「帯刀のことやけどな。あいつは刀の遣い手や。真二が追っかけて、袈裟懸けに斬られた。あんな太刀筋、見たことないわ。
朽木白哉が止められんかったら、奴等はここに来る。せいぜい、気ぃつけな」

ぶっきらぼうな言い方だが、情報をくれようとしているのは分かる。日番谷は馬上のひよ里を見上げた。
「お前は、蛆虫の巣で会ったことあるんだろ? どんな奴だった」
「どんな奴て。あの時は力は封じられてたからな。そんな凄腕やとは知らんかったけど」
当時のことを思い出しているのだろう、その口調がゆっくりになる。
「会った途端、ものすごい形相でじっと顔を見られてな。浦原も涅もおったけど、ウチだけ。で、こう言いおった。『違う。お前じゃない』って。
あいつは、死神やない。瀞霊廷に忍び込んできた、流魂街の男や。誰かを探しに、瀞霊廷に忍び込んだんかもな」
「蛆虫の巣にいるのは、例外なく死神じゃねぇのか?」
思わず日番谷は聞き返した。蛆虫の巣についての知識は、真央霊術院での知識に毛が生えた程度のものでしかなかった。
確か、除隊が認められない死神の制度の中で、精神・肉体的に異常を来たしたり、異端とされたものが幽閉されると聞いていた。

そんなことも知らないのか、と馬鹿にするかと思ったが、ひよ里は頷いただけだった。
「普通はな。でも、あいつは特別や。捕まえるんも苦労したしな。そのうち利用するつもりやったんやないか」
「……なるほどな。しかし人探しのために、わざわざ危険を冒して瀞霊廷まで来るもんか? 普通」
「ウチに聞くなや。ただな」
ひよ里は肩をすくめて続けた。
「あいつが探してたんはな、女や」
日番谷は眉をひそめた。一瞬、ルキアのことが頭をよぎる。
「だから?」
「……図体ばっかりデカなっても、まだまだガキやな、お前は。そういうん疎すぎや」
見下しているのとは微妙に違う、親が子供に呆れるような口調だった。
「お前だってガキだろうが、外見は」
「お前と一緒にすんなや。なんや、一回相手、してやろか?」
「俺にだって選ぶ権利くらいある」
「何、偉そうに断っとんねん! 冗談に決まっとるやろ! ホンマにムカつくわ」
「なに一人で怒ってんだよ……」
ひよ里を見ていると、それこそ暴れ馬を扱っているような気分になってくる。
面倒な女だと思うが、他の者といる時よりは自然と口数が増える。

ひよ里ははぁ、とわざとらしくため息をついた。
「雑談はここまでや。ウチ急がなあかんのに、お前とおると何か調子狂うわ」
ひよ里は、そう言ったにはもう、視線を前に戻していた。この先の長い工程のことを考えているのだろう。
零下の気温の中、神速で駆けるのだ。乗っている方もかなり消耗する。体調が万全でないなら、当然だ。
「ありがとな」
え、と思わず日番谷は周りを見回した。他の誰かが口にした言葉かと思った。
ひよ里に視線を戻したとき、彼女は困ったような顔をして、日番谷のマフラーを片手でちょっと持ち上げて見せた。
「これの礼や!」
日番谷の返事を聞く前に、馬の太腹を足で打つ。一声いななき、東雲が闇に足を踏み出した。
蹴立てた雪が一瞬白くひらめく。
遠ざかる足音に、日番谷はしばらくの間、耳を澄ませていた。



last update:2011/10/2