あの夜は、鈴虫や蟋蟀(こおろぎ)が軒下で鳴いていた。 隣を行く市丸が、「あ〜暑い暑い」と言いながら襟元をくつろげていたから、まだ残暑が厳しい頃だったのだろう。 市丸と、乱菊の身長はまだ同じくらいで、真央霊術院を卒業し、それぞれ隊に配属されたばかりだった。 どうして、二人だけで、あんな夜更けに瀞霊廷内を歩いていたのだろう? 流魂街で共に暮らしていた頃ならとにかく、死神になった後で二人きりなのは珍しかった。 確か、新人とベテランの死神の懇親会があって、その後の出来事だったのだと思うが、詳しくは覚えていない。 チャンスとばかりに先輩に取り入る同輩を横目に、欠伸したい気持ちになり――噛み殺しながらふと視線をやると、市丸がそれは気持ちよさそうに欠伸をしていた。 妙に、そんなことばかりはっきり覚えている。糸のように細い目だが、視線がぶつかった、と思った時、ふらりと市丸がその場を後にした。 それが当然のことのように、その背を追って、外に出てきてしまったのだ。……きっと、そうだ。 秋の虫の重なる声、少し先を歩く市丸の草履の音を覚えている。会話を交わさなかったのだ。周囲には静寂が満ちている。 市丸は一度も乱菊の方を振り向かず、それでも酔った自分に合わせて歩調を緩めてくれているのが分かる。 歩きながらそっと目を閉じたいくらいに、安らいだ気持ちになった。その時の感情は、くすぶり続ける炭のように身体の中に残っている。 「あっ、提灯が消える」 「ホンマかいな、月も隠れるで」 沈黙を破ったのは、そんな会話だった。 じじ……と音を立て、提灯の炎が、途絶えた。空を見上げると、ぐんぐんと上空を覆っていた雲が月を多い、周囲は闇に閉ざされた。 といっても瀞霊廷の中だ、通りの向こうには松明の燈が見えるから、真っ暗闇、というほどでもない。 顔を見合わせると同時に、くすくすと笑い出した乱菊に、市丸は不審そうな顔を向ける。 「何を急に笑っとん」 「ううん、久し振りだなって思って。こういうの」 流魂街で二人で暮らしていた頃は、月のある日は燈はつけなかった。 節約というよりも、燈を頼りに、賊に襲われる危険があるためだ。 しかし、そんな時急に、月の光が途切れることがある。そうなれば、互いの輪郭も見えない闇の中だ。 手を離してしまえば、闇の中に引き離され、互いに迷子になってしまうような頼りなさが襲う。 まるで、穴に潜んで親を待つ獣の子のように、二人で身を寄せ合っていた。もっとも、二人に迎えに来てくれる親はいなかったけれど。 役に立たなくなった提灯を乱菊から受け取った市丸が、見返してくる視線を感じた。 「乱菊は、流魂街にいた時の方が、今よりもええって思ってるん?」 とっさに乱菊は答えあぐねた。Yesでもあり、Noでもあった。 夜も安心して寝ることができ、食べるものも着るものも十分にある生活は、これまで憧れてきたものだ。 求め続けてきたことが、やっと手に入ったのだ、ということはできる。 それでも、まるで首に縄をつけられた犬のように、窮屈な思いをすることも多い。 荒野をまっしぐらに駆ける夢を、その頃よく見ていた。それに、市丸に会う回数は圧倒的に減った。 「あんたは、今の生活、気に入ってるの? ……五番隊の副隊長になったって聞いたけど」 市丸の年で副隊長になるのは、これまでに例がないという。 あまりに早い抜擢。そしてその直前に、元副隊長が瀞霊廷内で何者かに斬り殺されていること。 その二つが関連付けられないはずはなく、おどろおどろしい噂が瀞霊廷内を駆け巡っていた。 元副隊長を殺したのは、市丸ギンではないか? ベテランの死神ほど、間違いないと評するのだった。「彼からは、血の匂いがする」と。 「そうやけど?」 市丸は嘯(うそぶ)くように言う。逸らした横顔の輪郭がかすかに見える。 「他人事みたいに言わないで。……あんた、何か物騒なことやったんじゃないわよね」 慣れて来た目に、市丸が困ったように眉を下げたのが分かる。 「乱菊まで、ボクにいろいろ言うん? 切ないわぁ」 「あんまり、無茶するんじゃないわよ。心配なのよ」 それは、市丸が予想していた言葉とは違ったらしい。戸惑ったような気配が伝わってきたため、さりげなく方向性を変更する。 「悪い? あたし以外の、一体だれがあんたを心配するっていうのよ。だから心配してあげてるの」 冗談らしく、恩着せがましい口調で言うと、くすくすと笑い声が返ってくる。全て見抜かれるようで、居心地が悪くなる。 「おおきに」 闇の中に、すぅっと解けるようにその姿がなくなる。それを見た乱菊の心の中には、子供染みた焦りが広がった。 こんな夜に、離れたらだめじゃない。 「ギン……」 闇の中に、たよりなく手を伸ばす。しかしその指の先で聞こえたのは、空気を切り裂くような金属音。 シャッ、と刃が鞘走る音に、乱菊は反射的に肩に担いだ刀の柄に手をやった。 「乱菊ッ、逃げ!」 さっきまでの声が別人のような、鋭い声が鼓膜を打つ。 乱菊は、市丸がこれほど緊迫した声を出すのを、初めて聞いた。 「何なの……?」 分からない。分からないが、背筋を泥でなで上げられたような、ぞうっとする感覚が駆け上がってくる。 何かがいる。流魂街であまたの危険を潜り抜け、死神として鍛えてきた第六感が、警鐘を鳴らしている。 闇に慣れてきた視界の、思いがけないほど近くで、市丸が抜刀しているのが見えた。 乱菊には目もくれず、じっと一点を睨んでいる。手にした刀の切っ先を、乱菊は恐る恐る見やった。 松明の光に照らされて、ぼんやりと、その男の輪郭は浮かび上がっていた。 大人の男にしても、長身だ。逞しい体躯で、黒い髪が肩を越えてぼうぼうと伸びていた。 「誰、あいつ……」 ぼろぼろの単衣。死覇装ではない。死神ではない、と見当をつける。市丸が乱菊を見やった。 「何ぐずぐずしてるんや、行け!」 市丸は、自分を庇おうとしてくれているのか。しかし乱菊は、ぐっと唇を噛み締めた。 あたしだって、死神になったんだ。何より、ギンが隣にいる。一緒に戦わなくちゃ、とその時思ったのだ。 きっとあの男には勝ち目がないと、どこか冷静に捉えていたにも関わらず。 いつもより冷たく、重く感じる刀を引き抜き、構える。 「乱……」 いいから逃げろ、と市丸は言いたかったのだろう。しかしその刹那、男が腰に帯びていた太刀を引き抜いた。 だん、と音を立て、地を蹴る。獣のような獰猛な目が、まっすぐに――乱菊に向けられた。 あっ、と思った時には、もう1メートルほど先に、その男は着地していた。 獣の息が、耳近くに聞こえる。殺される。瞬間、目をつぶった。 しかし、予想していた衝撃は、いつまで経っても襲ってこなかった。代わりに、耳を裂くような金属音が聞こえた。何度も、何度も聞こえた。 はっと我に返って目を開けると、手を伸ばせば触れるほどの位置に、市丸の背中が見えた。 火花がぱっ、ぱっと何度も散る。乱菊に斬りかかった男と、斬り結んでいるのだ。体格の差は歴然だった。 「いきなり、女襲うやなんて……みっともない真似、するやないか」 あの市丸が、押されている。その瞬間、乱菊の脳裏を満たしたのは、自分でも認めたくないが恐怖だった。 逃げなかったのは、自分の意思ではない、ただ恐ろしさで体が動かなかっただけなのだ。 「ギン……!」 切羽詰った思いで叫んだ瞬間、パッ、と血が乱菊の頬に散った。 スローモーションのようにゆっくりとした視界の中、市丸の左肩が、血を吹いた。 くるり、と駒のように、その体が回る。そして、愕然と見開かれた市丸の目と、乱菊の恐怖に濡れた目が、合った。 「……逃げ」 半ば気を失っていたに違いないのに、そう言った。 その左肩から、右のわき腹にかけて、袈裟懸けに斬りつけられている。どう、と小柄な体が倒れ伏した。 「ギン!」 叫んだ瞬間、獣のような息が乱菊の頬にかかった。そして、伸びてきた太い腕に、ぐいと襟を捕まえれて引き寄せられる。 締め付けられた感覚に、息が一瞬詰まった。 「何よ……アンタ」 見返した時の、相手の顔を乱菊は今も忘れられない。鬼の面を思わせる顔だった。 髪はぼうぼうと伸び、眉毛は太くつりあがり、目は大きく血走っていた。睨みつけられ、とっさに体が動かない。 男は、乱菊の顔をまじまじと見た後、こういった。 「違う……お前じゃない」 「……え?」 刹那、鈍い音がした。刃物が肉を切り裂く、重く粘りつくような独特の音。 「……お前」 男が、じろりと下を見下ろす。市丸が繰り出した「神鎗」の一撃が、乱菊の襟を捕らえた男の腕を穿っていた。 男の手が、乱菊から離れる。そして、周囲を見回した。その頃になって漸く、乱菊は異変に気づき、集まり出した死神たちの気配に気づいた。 「おい、なんだ。誰かいるのか!」 誰とも知らぬ死神の声に、思いがけないくらいほっとしたのを覚えている。 男はもう一度乱菊を見下ろし、腕を貫いた「神鎗」を引き抜くと同時に、一瞬で姿を消した。 しばらく、乱菊は放心していた。しかし、すぐに我に返る。肩を抑え、声を押し殺して呻く市丸の傍に駆け寄った。 「ギン! 大丈夫? すぐ助けを呼ぶから!」 気づけば、涙が浮かんでいた。その日ほど、苦い涙をこぼした日はない。
last update:2011/10/2