「……い。おい! 松本!!」 何度も名を呼ばれ、肩を揺すぶられ、ようやく乱菊は目を覚ました。 「ギンが!」 とっさに、目の前の肩を掴む。夢の続きで、駆けつけてきた死神が傍にいるのだと思った。 「……ギン? 市丸のことか?」 翡翠色の瞳が、怪訝そうに顰められている。綺麗な色だ、そう思った途端、われに返った。 夢から現実に引き戻されると同時にこみ上げてきたのは、最近感じたほどもないほどの恥ずかしさだった。 「……寝ぼけて、ました……」 思わず、がっくりと炬燵の上に額を置いてしまう。起き抜けに、よりにもよって市丸の名前を口にするなんて。 普段の生活で、名前を出すことはなくなっていたのに。 もう、何も、心配することなんてない。なぜなら彼はもうずっと前に、死んでいるからだ。 そう思ったとたんに、心の奥の部分で、冷たい風が鳴った。 頬を流れる冷たい涙に気づき、慌てて拳で拭う。 「悪い夢でも見たんだろ。死んでも迷惑な奴だな、あいつは」 日番谷がその涙に気づかなかったはずはないが、触れて来なかったからほっとした。 日番谷にとって、市丸は同僚時代には「厄介な奴」という認識だったはずだ。 乱菊訪問と評して、稀に市丸が十番隊を訪れる時は、いつだって機嫌が悪かった。 市丸が藍染と共に反乱を起こした時は、正真正銘の敵に変わった。 彼の死後、その汚名は漱がれることになるが、それでも一度「敵」の烙印を押された印象は消し難い。 でも今の日番谷の口調は、「厄介な奴」に近かった、と乱菊は思う。そして少しだけ気分が軽くなる。 「炬燵でうたた寝なんかしてるからだ」 日番谷はそう続けると、立ち上がった。 最近は鉄面皮と呼ばれるほど、無表情に図太さも加わったようなこの上司が、少しほっとした顔をしている。 こんな表情をさせるなんて、どうやら自分はかなり、うなされていたらしい。 「……あたし、何か寝言とか言ってました?」 何か恥ずかしいことを口にしていなければいいが。恐る恐る聞いてみると、あぁ、と軽く頷かれた。 「よく声が聞こえなかったけど。必死に誰かを呼んでたぞ。今思えば『ギン』だったか」 あぁぁ、と乱菊は呻きを漏らした。日番谷は、そんな乱菊の苦悩に気がつかないように、視線を宙に泳がせる。 「……そういえば、昨日呼びかけられたのと似たような雰囲気だったような」 「ふぅん……え?」 乱菊はがばり、と身を起こした。 「呼びかけられた? 相手は女性ですか?」 日番谷はしまった、という顔になった。 そんな表情を彼がしたこと自体が軽くショックだった。まだまだ子供だと思っていたのに。 「……いや、空耳かもしれねぇし。意味なんかねぇよ」 「あのね、隊長。あたしがギンのことをどう思っていたか、説明しましょうか?」 「いやいい」 間髪いれず拒絶されたが、要は言われなくてもわかっている、ということだろう。 仕事が忙しすぎるせいか、自分を取り巻く男女関係には疎いが、決して感情に鈍感な方ではない。 「ねぇ、誰なんですか? さっき隊長が触れた人」 「夢」の中で、乱菊は市丸を何度も何度も呼んだ。 現在の自分が思う「市丸に会いたい」という気持ちで感情が増幅されたのか、どうしようもない切羽詰まった気持ちだった。 そんな風に、日番谷を呼ぶ女がいるとすれば、それは。 「……その話、やめろ」 本当に続きを話すのが嫌そうな顔だった。というよりも、彼には珍しく困っているようにも見える。 「いいんだよ。俺の勘違いだ。……それよりお前、一体どんな夢見たんだ?」 強引に話を逸らそうとしているし。 しかし、乱菊としても説明をしておいたほうがいい「夢」だった。ええ、と頷く。 日番谷は氷輪丸を腰から引き抜くと、隊首席の脇の刀置きにおさめる。どうやら今部屋にやってきたばかりらしい。 彼が連れてきた外の冷たい空気が一瞬、頬を撫でてゆく。 ぎっと音を立てて、椅子に腰掛けた。机に肘を乗せて、聞く姿勢である。 乱菊は悪いことをした子供のように、肩をすくめて炬燵から答えた。 「まだ死神になったばかりのギンとあたしが、とある男にコテンパンにやられる夢です」 「今更なんでそんな夢見るんだ。昔ならとにかく」 「なんでって言われても、夢ですから。見ようと思って見たわけじゃないです」 「あのな、俺だって夢くらい見るんだよ、それくらい分かる。でも心にもないことは、あんまり夢には見ねぇもんだろ」 さりげなく言われた言葉に、ぎくり、とした。次に続ける言葉に戸惑う。 「夢、ではあるんですけど。架空の出来事じゃないんです。過去、本当にあったことです」 日番谷が怪訝そうに片方の眉を上げる。 「お前と市丸がやられたのは、事実なのか?」 「ええ。過去をあんな風に、そっくりそのまま夢に見たりするんですねぇ。あたし、結構記憶力いいみたいです」 「仕事には生かされてねぇようだが? ま、夢は起きている間の状況を整理するために見るっていうしな。そんなこともあるか」 何気ない言葉を聞きながら、乱菊の心ははるか昔に飛んでいた。 その「夢」の続きは、はっきりと覚えている。 市丸に重傷を負わせたその男は、その後多くの死神を殺傷した挙句、駆けつけた京楽と斬り結んだ。 それでも決着がつかず、知らせを受けて加勢に訪れた卯ノ花と二人がかりで取り押さえたと聞いていた。 すでに一番隊では、総隊長が出る準備をしていたというから、瀞霊廷でも滅多に見ないような大事件だったのだ。 日番谷は今更と言ったが、今この「夢」を見た理由は、乱菊には分かりすぎるほど分かっていた。 ……名を問われたその男は一言、「帯刀」と名乗ったと言う。 もし戌吊の件を十番隊が担当することになっていたら、乱菊はためらわずにこの事実を報告していただろう。 しかし、今のところは対岸の火事だということが、口を鈍らせた。 かつての自分の失策を報告したくない、という訳ではない。思い出すこと自体が、乱菊にとっては忌わしかったからだ。 ……絶対絶命の危機、というのは、死神を職とする限り、いつかは来るものだと思っていた。 その時、自分がどのような態度を取るのかはその場にならなければ分からない。 だが、死神を目指した時の乱菊は、追い詰められたその時の自分を信じていた。 生き抜くとしても、力及ばず死ぬとしても、誇りを失うことなく最後まで戦うことができると。 しかし、あの時に知った彼女の本性は、違っていた。 戦うどころか、逃げることすらできず、ただおろおろと市丸と帯刀の戦いを見守ることしかできなかった。 同じ場にいた市丸は迷うことなく、乱菊を護るために命を懸けて戦ったというのに。 あの戦いの後、昏々と眠る市丸の枕元に座った乱菊は、人知れず涙を流した。それは、自分自身に対する、失望の涙だった。 ――「いきなり、女襲うやなんて……みっともない真似、するやないか」 市丸の、まだ幼い声を思い出して、乱菊はひっそりと微笑む。 そんなことを、言ってくれていたのか。記憶と共に封印していた。 「ホンット、似合わないんだから」 市丸が、そんなところをちらりちらりと見せるから。いつまでたっても忘れられないのだ。 「……は? 似合わない? なんのことだ」 日番谷は頬杖をつきながら、眉間に皺を寄せている。聞こえない程度の声で言ったつもりだが、耳に届いてしまったらしい。 気づけば、外で雪が降り積む音が聞こえるのではないかと思うほどに、周囲には音がなかった。 湿っぽい話は、基本的に苦手だ。乱菊はひらひらと掌を振った。 「ああ、独り言です。お正月に恋次が着てた一張羅、ぜんっぜん似合ってなかったなって思い出してました」 カクン、と日番谷の頬が掌から落ちた。 「……女を慰めようなんてするもんじゃねぇな。何を考えてるんだか分かったもんじゃねぇ」 「慰めようとしてくれたんですか?」 乱菊は炬燵から伸び上がるように、半身を起こした。 「じゃ、慰めてください! ほらほら」 「元気じゃねぇか! 大体な、おかしくねぇか?」 日番谷は憮然として、乱菊を指差した。正確には、乱菊がさっきから入っている炬燵を。 「何がですか?」 「何がですか、じゃねえ。その炬燵だ! 昨日この部屋を出る時にはなかっただろ、ソレ!」 「今更? 部屋入って来たときに気づいたでしょう? 受け容れてくれたもんだと……」 「誰が受け容れるか! 言い出すタイミングがなかっただけだ」 乱菊は、自分が手をついている炬燵を見下ろした。 まさに日本の炬燵、という外見で、がっちりした長方形の机に、温かそうな赤い花柄の炬燵布団をかけている。 ご丁寧に、机の上には蜜柑が入った籠と、急須と湯呑みがそろえてあった。 これが職場だと言うのだ。どうかしている、と日番谷が思ったとしてもまあおかしくはない、のだが。 「いいアイディアでしょ?」 と、言ってみた。 「まー・つー・もー・とー……」 「はい」 「はいじゃねぇ! どっから持ってきた、捨ててこい!」 「えええ? なんでなんでぇ? 隊長だって、入ってみればこれの良さが分かりますって!」 「ここは職場だ、隊首室だ! そんなもんは自分の部屋に運び込め!」 「こんなでかいもの、あたしの細腕で運び出せるはずがないじゃないですか」 「お前が持ってきたんだ、出せるだろ、当然!」 「これ据えつけたの、修兵です」 「檜佐木はもう隊長だろ。雑用させんじゃねぇよ……」 「その理屈で言えば、運びださせるような雑用、頼んじゃだめです」 「……」 分っかんねぇ、と日番谷が苦虫を噛み潰したような顔をした。 乱菊がああでもないこうでもないと屁理屈をこねているうちに黙認される、といういつものパターンに嵌りつつあった。 「あのなぁ」 日番谷が再度口を開いた時、扉がノックされた。 「久徳か」 その霊圧は、直接姿が見えなくともはっきりと分かる。予想通り、穏やかな声が返した。 「はい。ご依頼いただいていました、資料をお持ちしました」 「入れ」 扉をすらりと開けた久徳は、白髪をきちんと撫でつけた、品のある初老の男だった。 姿勢がいいせいか、背がぐんと高く見える。日番谷が全幅の信頼を置く、十番隊の第三席だった。 炬燵と、肩まで布団をかけた乱菊を見て一瞬動きを止めたが、何事もなかったかのように軽く目礼する。 「あらオジサマ、お仕事?」 十番隊での隊暦がずば抜けて長いこの三席に、乱菊も一目も二目も置いている。久徳は頷き、微笑んだ。 「お前と違ってお仕事中なんだ」 「あら隊長、あたしだって働きますよ! ……蜜柑さえ食べたら」 「久徳、こいつの前にある蜜柑の山を取っ払え」 「はい」 「えええオジサマ、ひどい……」 そこで、ひとつふたつだけ蜜柑を残してやるのが、久徳の甘いところだと思う。 「オジサマ、やっぱり女性にもてるわ〜。隊長と違って」 日番谷は溜め息で乱菊の言葉を黙殺すると、書類に視線を落とした。 一体なんの資料だろう、と乱菊は炬燵から伸び上がり、日番谷の手元を見上げた。 日番谷にとって、久徳は「虎の子」のようなものだ。 よほど重要か、緊急の案件がなければ、直々に仕事を依頼したりはしない。 「ああ、よくまとまってる。ありがとう、久徳」 「お褒めに預かりまして光栄です」 日番谷はそう言ったが、言葉とは裏腹に険しい表情をしている。 これは資料の出来の問題ではなく、書かれている内容がひどい、ということだろう。 ふん、と日番谷が、滅多にない軽蔑するような息を発した。 「死ねばいいんだ、こんな奴等」 思わず乱菊は、久徳と顔を見合わせた。つい、と立ち上がり、資料に集中している日番谷の後ろから覗き込む。 「どうしたんですかぁ?」 肩に手を置いて話しかけると、少し振り返った日番谷の肩から、力がすうっと抜けた。 まだまだ若い、と他の隊長からからかわれる理由にもなっているが、日番谷は理不尽なことには未だ怒りを隠せない。 そんな真っ直ぐなところを失って欲しくないと、乱菊は思っている。 ただいくら怒ったとはいえ、「死ねばいい」のような荒い言葉を日番谷が口にするのは珍しかった。 日番谷は、険しい表情のまま、乱菊に書類を手渡す。 「帯刀」。見下ろすなり飛び込んできた名前に、一瞬視線が止まった。 「……あぁ、朽木隊長が担当されてる戌吊の件ですね。反乱者のリストですか?」 書類によると、反乱を企てているのは、四人。首謀者のところに帯刀の名が挙げられている。 そして、残りの四人は全員、蛆虫の巣出身の元死神だった。 どうやら日番谷を怒らせたのは、蛆虫の巣に幽閉されるに至った理由の箇所らしい。 曰く、同僚の女死神を強姦の上、死に至らしめた罪。 曰く、瀞霊廷の貴族の子を浚い、人体実験に利用した罪。 四人が四人とも、死神としての一線を遠く越えてしまった者ばかりだ。 乱菊は軽く溜め息をつくと、書類を隊首机の上に戻した。 「……一体どうして、オジサマに調査を頼んだんですか? この件は、朽木隊長が担当されているのに」 「そうなんだがな」 日番谷は座ったまま腕を組み、言葉を濁した。 「敵がいくら強かろうと、隊長格は誰でも一戦隊と同じくらいの実力を持ってる。 朽木は強い。遅れを取るとは思わねぇんだが……なぜか、気になる。つきあわせて悪かったな、久徳」 「……隊長の第六感は、人並み以上ですからね」 「そういうあいまいなモンは、好きじゃねぇんだがな」 机に広げられた書類を見下ろす視線は、憂いを湛えている。 確かに勘が鋭い、と乱菊は思わずにはいられなかった。なにより自分は、帯刀の実力を知っているのだから。 「……隊長」 「なにかあったんだろ? この帯刀って男と」 これ以上黙っていられないと乱菊が思った瞬間、すぱりと聞いてくる呼吸はさすがだと思う。 隊首会で、帯刀の名前が出た時、一瞬強張った乱菊の変化を見逃していなかったのだろう。 むしろほっとしたような気持ちで、乱菊は口を開いた。 「さっきの夢の話の続きですよ。……ギンとあたしがやられたの、この男です」 「市丸はどうやって負けた」 不思議そうな表情も見せず、日番谷はすぐに聞き返して来た。 「斬り合いになって、押し負けました」 「市丸が?」 対する視線が鋭くなる。元同僚として、市丸の斬術の腕を知っているのだから当然の反応だろう。 「まあ、あの頃のギンは死神になったばかりでしたから。隊長の知るギンよりは段違いに弱いですけど」 ふぅん、と日番谷は唸った。 「……それに、朽木はタイプが違うからな。鬼道で戦えば結果は違うかもしれねぇが……今日で朽木が出て行って、四日か」 ぎっ、と軽い音を立てて、日番谷は腕を組んだまま、隊首席の背もたれに沈み込んだ。 白南風の足なら、戌吊までは半日ほどでたどり着けたはず。 四日、という日数は不自然に長いとはいえなかったが、決して短くはない。 悠長な浮竹や京楽あたりなら、一ヶ月くらいは戻らないこともありそうだが、 ああ見えて性急な気がある白哉のこと、あまり引き伸ばすのは彼らしくなかった。 「朽木ルキアが、心配してるだろうな。追えるもんなら追いたいだろうが、残されたのが黒丞じゃ、しょうがねぇ。そのうち、様子を見に行ってみる」 日番谷が眉を顰めるのを見て、乱菊は少し複雑な気分になる。 この上司はいつからか、妙にルキアを気にするようになった。 同じ系列の力を持つ死神同士に連帯感があるのは分かる気がするが、そういう関係を超えているように思う。 兄が妹を見守るような関係なのだろうか? いや、そう言葉にしてしまうと、何か違うような気もする。 そこまで考えて、乱菊はそれ以上想像するのはやめた。今は、そんなことを話題にしている場合ではない。 「黒丞って、六番隊の神馬ですよね。なんで黒丞じゃダメなんですか?」 「朽木ルキアが背中に乗ると抵抗するんだ。兄貴の方は喜んで乗せるくせに」 「六番隊の馬だから、律儀に六番隊しか乗せないとか? 隊長だとどうなんです?」 「普通に乗せる。機嫌は良くも悪くもねぇよ」 「困った馬ですね」 乱菊は笑い出した。久徳が微笑みながら口を開く。 「黒丞は女馬らしいですね。朽木隊長に大切に思われている、朽木ルキアさんに嫉妬しているのかも知れませんね」 「馬丁と同じこと言うんだな。嫉妬なんて、分っからねぇな」 「そうですか? じきに、分かりますよ」 「……」 日番谷は何かにつまづいたような顔をした。返事のタイミングを逃したと思ったのか無言になる。 こんな風に上司がやり込められるのは、いまや久徳を相手にしている時くらいだ。 まるで、少し年のいった父親と、若い母親、そして息子みたいだ、と乱菊は思う。 家族をもったことがない乱菊だが、そんな想像をしてみるのは楽しかった。 馬が人間に恋愛感情を持つなんて、あるのかと思うが。 神馬の、あの優しい大きな瞳を見ていると、人間よりも豊かな感情が潜んでいるようにも思える。 「そういえば、十番隊の神馬って、決まってるんですか?」 乱菊はふと思い出して、日番谷に訊ねた。 神馬の量産に技術開発局が成功して数年。各隊に二頭ずつ割り当てるようにと総隊長より指示が下っていたが、 そういえば、十番隊はどうなっているのか聞いたことはなかった。 問われた日番谷は、珍しくニヤリと笑った。さらに珍しいことに、その瞳に悪戯っぽい光が宿っている。 「実はな。野分(のわき)を、狙ってる」 「野分とは」 久徳が驚いているのを見て、乱菊は首を傾げた。 「野分って?」 「野分を知らないのか?」 二人の男は同時に不思議そうな顔をした。 「野分は去年、技術開発局がありったけの知識と技術を結集させた、神馬の中の神馬みたいなもんだ。 毛色は栃栗毛、額の部分に一筋、白い線が入ってる。六番隊にいるあの黒丞や白南風に比べても、力もスピードも何倍も上回るらしいぜ」 「ああ」 乱菊は日番谷の言葉に頷いた。 そういえば瀞霊廷通信に昔載っていて、お披露目の時には恋次や吉良たちが見に行った、と興奮した口調で話していた気がする。 「てことは、隊長も行ったんですか?」 「そりゃ、行ったさ」 「男って、いつまで経っても子供なトコありますよね」 どういう意味だ、と日番谷は不服そうに久徳と目を見合わせる。 乱菊なら、そんな馬だの最強だのいうものよりは、新発売のケーキでも食べに行く方が何倍も興奮する。 そんな乱菊とは裏腹に、日番谷は珍しく楽しそうだ。 「一目見て、惚れ込んだんだ。あいつが欲しい」 女ではなく、馬に惚れるところがますます男の子だ、と思いながらも、乱菊は首を傾げた。 「でも隊長、期待を殺ぐようで悪いですけど。涅隊長が、そんな虎の子を譲るとは思えないんですけど」 「あいつはもちろん断った。でも、二頭いらねぇから野分一頭をどうしても欲しいと総隊長に直談判したんだ。 苦笑いしてたが、最終的にはいいって承認をくれた」 その時の総隊長の心境が見えるようで、乱菊は思わず久徳と笑み交わした。 あまり表立っては見せないが、総隊長は子供好きである。 隊長の中で最年少だという理由で仕事を押し付けられ、その都度健気にも文句も言わず引き受けてきた日番谷の、 滅多にない我がままは聞いてやりたかったのだろう。 「何を笑ってんだ」 二人を見上げ、日番谷は仏頂面を返した。そして、ふと思い出したように、久徳を見上げた。 「ついでにもう一つ頼まれてくれ。野分は今、引き出せる状態か? 技術開発局に探りを入れておいてくれ」 「かしこまりました……それと、日番谷隊長。言いそびれていたことがあるのですが」 「なんだ?」 久徳はかけらも難色を見せず頷いたが、日番谷を見下ろしたまま、しばらく無言だった。 珍しく続ける言葉に迷うような素振りに、上司は怪訝な表情を向ける。 「どうした?」 「さきほどの、戌吊の件ですが。聞き込みを進めたところ、帯刀が肌身離さず持っている、絵があるというのです」 「絵?」 「これを、見ていただきたいのです。絵の写しを入手しました」 久徳は死覇装の懐から、一枚の紙を二人に示して見せた。見下ろすと同時に、二人とも息を飲んだ。 「……これ、朽木じゃない!」 そこに描かれていたのは、年のころ十代後半から二十代前半に見える、一人の女の半身像だった。 粗末な単衣の着物を着ているが、その表情には気品が漂っている。 濡羽色の髪、白い肌、そして驚くほど大きな瞳。頬に浮かぶ微笑。 乱菊には、薄い墨で描かれたそれは、どこから見ても朽木ルキアにしか見えなかった。 「どういうことだ? 帯刀と、朽木ルキアに接点はあるのか? 同じ戌吊の出身だとは本人も言ってたが」 顔色を変えた日番谷の問いに、久徳はすぐに首を振った。 「いいえ。帯刀が戌吊にいたのは二百年ほども前。朽木ルキアさんはまだ赤ん坊だったはずです。 そして、帯刀はすぐに戌吊を離れ、戻ってきたのは最近です。この絵の姿の、彼女を知るはずはありません」 ―― 「違う。お前じゃない」 はるか昔、帯刀に投げつけられた言葉が、乱菊の脳裏に甦る。 あの男は、誰かを探していたのか。それが、この絵の女性だとすれば―― 「おそらく」 久徳は、ゆっくりと続けた。 「この絵の主は、朽木緋真様……朽木隊長の亡き奥方かと思われます」
last update:2011/10/2