朽木白哉が瀞霊廷を去り、一週間が経過していた。 雲ひとつない冬らしい空が広がり、普段は見えない連脈がくっきりと、地平線の方角に見渡せた。 間もなく日が傾きはじめる時間帯、朽木邸の馬場には、蹄の音が高く鳴り響いていた。 白い鼻息を吐き出し、荒ぶる黒丞の背にルキアが跨っていた。彼女の息も荒く、額には冬だと言うのに汗が浮かんでいる。 ふたつの生き物の息が交差する音は、まるで人間と馬が闘っているようだった。 ルキアは暴れる黒丞の上で体勢を何度も立て直し、手にした手綱を手放していない。かれこれ15分、同じ状態が続いていた。 「まったく、じゃじゃ馬だな」 息を切らしながらも、軽口を叩ける余裕ができていた。ずいぶん長い間、乗っていられるようになった。 毎日何時間も特訓を続けて来た効果は、確実に出てきている。 今までのように簡単に振り落とされないルキアに、黒丞が血走った視線を向けてくるのが分かる。 手ごわい恋仇でも見ているつもりか、と馬丁の言葉を思い出して苦笑いを浮かべた、瞬間。 一瞬のルキアの気の緩みをついて、黒丞は猛然と駆けだした。 ルキアとは比較にならない、逞しい馬の筋肉が、脚の下で躍動する。 一瞬でぐん、と加速する。切るような冷たい風が全身に打ち当り、稽古着が身体に張り付いた。袖が強張った音を立てる。 自分にとっては未知のスピードだった。確かにこれは大した馬だ、と全身に鳥肌が立つ。 ―― どこへ行くつもりだ? この速度なら、一瞬で瀞霊廷をも飛び出してしまうだろう。手綱につかまるのが精いっぱいで、気づくのが遅れた。 はっ、と顔を上げた時には、目の前に腕ほどもある桜の枝が迫っていた。 馬から降りているような余裕はない。反射的に手綱を離し、後ろへと飛んだ。しかし、間に合わない。 ルキアは中途半端に鞍の上に足をついた状態のまま、顔をかばった右腕で、その枝を受けた。 みしり、と音を立てたのは、枝か自分か。骨がしびれる感覚があり、その瞬間は痛みも感じなかった。 その反動で背後に飛ばされたルキアは、くるり、と中空で身体を翻し、地面に着地した。 とたん、前に身体が投げ出される感覚に、あわてて左腕で身体を支える。 あのスピードから振り落とされたのだ。平衡感覚を失ったとしてもおかしくはない。 体勢を立て直すと同時に、ルキアは素早く黒丞を探した。と、すぐに中空にたたずむ黒馬と視線が合う。 突進でもしてこられたらたまらない、と思ったが、鼻を鳴らし、苛立たしげに中空を蹴っている以外、向かってくる様子はなかった。 やがて、すい、と鼻面を下に向けると、降下し始める。そして朽木邸の馬場の敷地に、ルキアから少し距離を置いて着地した。 ほっ、とした途端、右腕に脈打つような痛みが走りはじめる。 「っつ……」 思わず顔をしかめ、右腕を見やった。さきほど枝にぶつかった肘から手首にかけて、はやくも赤く染まっている。 ぶつかったその場所には擦り傷が残り、血がにじんでいた。四番隊に行って薬をもらっておかないと、明日内出血でものすごい色になってしまうだろう。 死神の一員として生傷には慣れているが、家の者に心配されるから目立つ傷は困る。ため息が出た。 白い稽古着と黒袴、という服装だったが、稽古着のあちこちが泥に汚れ、血もまざっている。 こんなことなら非番時に不自然とはいえ、死覇装でも着ておけばよかった、と思ったがもう遅かった。 人の言葉を解するはずはないが、20メートルほど離れて立つ馬に話しかける。 「お前、いい加減に勘違いはよせ。私はお前の大事な主人の、妹なのだ。恋仇ではないぞ」 その情の種類が何であれ、黒丞が白哉を慕っていることは、もはや疑うことのできない事実だった。 その証拠に、白哉がいなくなったこの一週間で、明らかに黒丞は冷静さを失った。 落ち着かない挙動が目立ち、目は血走り、食欲が減った。 そして、白哉が屋敷にいる間は、しょっちゅう首をめぐらせて白哉を探していたが、その素振りは見せなくなった。 分かっているのだ、と思う。白哉が屋敷にはいないということ、自分が残されたのだということを。 それでも、黒丞がこの屋敷を離れることはない。今回のように少し離れても、すぐに戻ってくるのを見ると、ルキアは切ないような気持ちになる。 白哉がこの場所に戻ってくると、この馬も信じているのか。 「……悲しいな。黒丞」 人間に対しては決して言わない本音がこぼれ出たのは、言葉が通じない馬だからか、それとも「彼女」が自分と同じと思ったからか、自分でもわからなかった。 ―― 「私に万一何があっても、お前は動くな」 黙って置いていかれるならまだましかもしれない、とルキアは唇を噛みしめる。 自分は、はっきりと拒絶された。去りゆく兄の背中を追うことは、できなかった。 その時、つい、と黒丞が漆黒の鼻面を上げた。空気の匂いを嗅ぐような素振りだったが、それにしては動きが鋭い。 黒丞の視線の先を何気なく追った時だった。ひゅっ、と空気を切り裂く鋭い音が響き、ルキアは顔を上げた。 きらり、と金属質な輝きが視界の隅にひらめく。刃だ、と思ったが、自分や黒丞を狙うものではない、と咄嗟に判断した。 動かないルキアの頬を掠め飛んだ刃は、彼女の背後にあった桜の幹に乾いた音を立てて突き立った。 現れた人影に向き直りながら、癖で左腰のあたりを探ろうとして、しまった、と思う。刀を身につけていなかったことを後悔した。 幹につき立った小刀を横目でちらりと見た。15センチほどの小ぶりな刃のようだが、いざとなれば武器として使える。 と思った時、ふと小刀が縫いとめているものに視線を奪われる。 ―― 手紙? 墨で文字が書かれているのが見えたが、内容までは読み取れない。 「悲鳴でも上げるかと思ったがな。さすが朽木白哉の女だ、気丈だな。それとも、怯える間もなかったか」 忍び笑いが口から漏れ、ルキアはキッと視線を強めて、柵の上に現れた黒衣の男に目をやった。 死覇装に似た衣装だが、手甲脚絆に身を固め、全身は埃のようなもので汚れている。長い道のりを来たらしかった。 髪は鳥の巣のように乱れており、肌は浅黒いが、汚れがこびりついているためだろう。目だけがぎらぎらと光っていた。 年齢はその外見からよく分からないが、それほど若くもなさそうだ。 「誰だ、貴様は。警備はどうした」 ルキアは声を低めて呼びかける。この朽木邸は、死神レベルの警備の者に固められている。 それを潜り抜けてここまでやってくるとは、只者ではない。 「ハッ、あんな奴等。騒がれたんじゃ面倒だ、傍を通り抜けたが気づきもしなかったさ」 どうやら危害を加えてはいない、と心中ほっとするが、緩みはもちろん顔に出さなかった。 それよりも、男が向けてくる視線が不快だった。 まるで相手を視線で裸にするような視線が耐えがたく、さりげなく襟元を調える。 男は、それを見下ろしニヤリと笑った。二の腕を、泥でなで上げられたような不快感が襲う。 「聞いた通り、いい女だ。そんな平気な顔をしていいのか? この場には俺とお前しかいないというのに」 ルキアは無言で、幹につき立った小太刀に手をかけた。 「貴様……死神崩れか」 知らない顔ではあったが、その全身から放たれる霊圧は、明らかに死神のもの。 注意して見れば、今の体勢や刀の投げつけ方ひとつとっても、明らかに訓練されたものだ。流魂街の住人とは思いがたい。 男は、ルキアの言葉に笑みを深めた。 「ああ、てめえの男と同業者だぜ。元、がつくがな」 てめえの男、という呼び方に眉をひそめる。何を勘違いしているのか、という思いがあった。 しかしそれよりも先に、確かめなければならないことがあった。 ルキアとて、白哉が不在の間、手をこまねいていたわけではない。 恋次に協力を頼み、十二番隊から総隊長へと提出された、今回の反乱の首謀者と見られる、蛆虫の巣の脱走者の調査結果を手に入れていた。 首謀者「帯刀」を含めて、脱走者は四人。そのうちの一人は性的倒錯者とも言える男で、同僚の女死神を凌辱の挙句殺害した罪に問われていた。 「蛆虫の巣からの脱走者だな」 自分が女だからかもしれないが、罪状を見た時、もっとも怒りを覚えたのがその男だった。 行為そのものよりも、誇りを踏みにじられる、ということのほうが残酷だった。 どうせ死ぬなら、殴られ蹴られて殺される方がマシだと思えた。 男は、「蛆虫の巣」という言葉に見る見る間に顔色を変えた。口角が、皮肉げに引き上げられる。 「言葉に気をつけな? 俺の前でもう一度、その言葉を口にしたら殺すぜ」 それは認めたとほぼ同等の答えだった。やはり、と思うと同時に、ひやりとした予感が襲う。 兄はこの連中を追っていたはずだ。それなのになぜ一週間後も経った今、張本人の一人がこの場に現れるのか? そんなことを今考えている場合ではない、とルキアは気持ちを引き締め、目の前の男を見上げる。 兄の敵でもあるこの男は、調査結果の通りであれば決して弱くはない。何しろ、はるか昔、九番隊の副隊長だったというのだから。 立場だけで比較するなら、無席のルキアとは天と地ほどの違いがある。 男の浅黒い顔の中で、目だけがぎらぎらと光りルキアを見下ろしている。 ―― 「心を一点に絞るのはいい。でも、視界は狭めるな。四方に広げるんだ」 稽古をつけてくれた日番谷の言葉を思い出す。涼しげな翡翠色の瞳を思い出す。 すうっ、と焼けつくようだった怒りが静まる。ふぅ、とかすかに息をつくと、ルキアは男を見返した。 男に目をやったまま、幹につき立っていた小太刀を引きぬく。縫いとめられていた紙が足元に落ちたが、目を向けなかった。 兄の敵だというならなおさら、見逃すわけにはいかない。負けるわけにもいかなかった。 「蛆虫の巣に送り返してやる。来い」 その言葉に、男の笑みが消えた。憎しみとも、恐怖ともつかない表情が一瞬顔面を支配する。 しかしすぐに、狂ったように笑い出した。 「恐れを知らねぇ女だ、ますます俺の好みだ。ただ残念なところ、てめぇに手を出したことがバレたら、帯刀にぶっ殺される」 「何?」 どくん、と胸が高鳴る。ぽつんと胸の奥に生まれた暗黒が、見る見る間に染み広がって行く。 「帯刀」とは、兄が追っていた男の名前ではないのか。その男はまだ、生きているのか? 兄はどうなったのだ、と詰め寄りたい衝動を、ルキアは必死に抑え込んだ。 そんなルキアの心を知ってか知らずか、男は笑みを深める。 「知らねぇとは言わせねぇぜ、帯刀の名前を。奴からの伝言だ。その紙を見な」 ルキアは無言で、地面に落ちた紙を拾い上げる。立ちあがる時、はじめに男が投げつけた小刀に、ふと目が止まった。その瞬間凍りつく。 鍔の部分に、椿の花の文様が入っている。見間違えようもない、兄がいつも懐に入れていたものだった。 「に……、朽木白哉の行方を知っているのか?」 それを尋ねれば弱みをこちらから見せるようなものだ、と分かっていても、聞かずにいることが耐えられなかった。 「いいから、それを読めよ。その間は手ェ出さねぇよ。かつての男の手紙なんぞいらねぇか? ……緋真さんよ」 「……え?」 駆け足のように高鳴っていた鼓動がその瞬間、撥ねた。 緋真。 この屋敷でさえ永い間、口にされたことがない名前だった。 それを、この野卑な男がたやすく口にするとは。怒りと、それ以上に幽霊が生き返って来たようなショックに、ルキアは一瞬震えた。 心中の動揺を押し隠しながら、ルキアは油断なく男を見据えながら、紙を地面から拾い上げた。 今まで静物のようにその場に佇んでいた黒丞が不意に首をめぐらし、ルキアの傍へと歩み寄った。 しかし目を落としたルキアには、黒丞に意識を払う余裕はなかった。 「……何なのだ、これは……?」 たたきつけるような殴り書きの筆跡で、そこにはこう書かれていた。 『緋真殿 朽木白哉を一日後に処刑する。最期に愛しき女に合わせる故、戌吊まで来られたし。口外せし場合、その場で夫の命はないものと覚えよ。帯刀』 どういうことなのだ。ルキアはわなわなと震えだした手を押さえることも忘れ、立ち尽くした。 兄は戦いに負け、捉まったというのか? 信じられないが、兄の懐刀を敵が持っている時点で、その可能性は高いといわざるを得ない。 しかしなぜ、この帯刀という男は、自分を緋真と呼ぶ? 姉を知っているというなら、一体どこで接点があったというのだ。 「状況は理解したか」 はっ、とルキアは顔を上げた。手紙の内容があまりにも衝撃的で、男の存在を忘れていた。 どうする、とルキアは真っ白になりそうな頭の中で、必死に考えた。 自分は緋真ではなく、妹だということ。そして緋真は故人であることを指摘し、誤解を解くのは簡単だ。 しかし、緋真はもういないと知った帯刀はどうする? 自分に手を出せば、帯刀に殺される、と今目の前にいるこの男は言った。 とすれば、帯刀が緋真を呼び寄せようとしているのは白哉への餞というよりも、姉に対する並々ならぬ執着が為せる業か。 そう考えれば……緋真がもう亡いと知れば、その場で白哉は殺されるかもしれない。 「理解したかと聞いている」 男は塀の上から馬場に飛び降りた。掃き清められた地面に、男の足跡が荒く残っていく。 白哉の命が握られているこの状況では、ルキアの立場は余りに不利すぎる。 一歩後ずさったルキアに、にやりと笑った男が歩み寄る。 「ま、帯刀にバレなきゃいいんだよな」 どうする。ルキアが唇を噛み締めたとき。初めて、目の前に静かに立っている黒丞の存在に気づいた。 「どけ、馬如きが」 男は黒丞の鼻面を、手荒く拳で払おうとする。 しかしその瞬間、大人しく立っていた黒丞は、歯をむき出して男に飛びかかった。 「っつ! この馬、噛み付こうとしやがった」 男はさすがに慌てて飛び下がる。我に返ったルキアは、黒丞の鬣(たてがみ)が興奮で逆立っているのを見た。 「……黒丞。下がれ」 自分の言うことを聞くとは思えなかったが、そう言って手綱を引く。黒丞は抵抗しなかった。 「……一日、と言ったな。なぜだ」 震えそうになる言葉を押さえつけ、ルキアはようやく口にした。 死神の足でも、戌吊までは一週間かかる。三日でたどり着くのが不可能なことは、同じ道程を来たはずのこの男が分からぬはずはない。 「てめぇの男が言ったんだ。一日で来ることが可能だと」 「……なに?」 そんな馬鹿な。そう言い返そうとしたときだった。 「どうした、誰かそこにいんのか!!」 野卑な男の声が、その瞬間馬場を貫いた。 「恋……」 一瞬、注意がその男から声の主へとそれると同時に、男の気配がふっと掻き消えた。 「伝えたぞ。くれぐれも他へ情報を漏らさぬよう。影で見ているぞ」 「待て!」 叫んで振り返った時には、男の姿は消えていた。 いなくなったのを確認した瞬間、どっと、汗が額から噴き出した。 そして手の中の手紙を、そっと懐へと隠した。 男とちょうど入れ違いに、恋次の大柄な姿が現れる。 寝ていたのだろう、浴衣姿で赤髪は背中に落ちている。 「なんだ? 今なんか、知らない奴の霊圧を感じたと思ったんだが。お前と黒丞だけか」 拍子抜けしたように、馬場を見下ろした。すぐに、その視線が鋭くなる。 「……じゃ、ねぇな。この足跡は誰のだ?」 さすがに鋭い、と思う。即座に、ルキアのものでない男の足跡に気づいた。 「……馬丁のものだ。悪いが、恋次。私は気分が優れぬ。黒丞を厩舎へ頼む」 ルキアはできるだけさりげなくそう言うと、恋次のもとをすり抜けようとした。 頭の中は混乱しきっていて、しばらく一人になって状況を整理したかった。 しかしすり抜けざまに、強く手首をつかまれる。思わず顔をしかめて、恋次の顔を見上げた。 「……なんで震えてる。何があった」 とても振り払えないほどにその力は強い。しかし彼なりに押さえてはいるのだろうと思う。 見下ろしてくる恋次の表情からは、ぶっきらぼうながら、ルキアを心配しているのが伝わってくる。 なぜかその瞬間、泣きたくなるような懐かしさがこみ上げた。 今起こったことを打ち明けてしまえば。恋次は間違いなく怒り、悩み、策を考えてくれるだろう。 言ってしまえたら、という誘惑に駆られたことは否めない。同じ気持ちを共有できる相手がいるなら、孤独を抱えなくて済む。 しかしルキアは、その誘惑を一秒で振り切った。 影で見ている、とあの男は消える前に言った。もし自分が他言したことが分かれば、白哉がどうなるか分からない。 「相変わらず、馬鹿力だな。腕があざになるではないか。見ろ」 できるだけ軽い口調で言うと、視線で、つかまれたあたりを示す。腕が真っ赤になっているのを見て、慌てて恋次が手を離した。 「お前、これどうしたよ。俺か? 俺じゃねぇよな?」 「黒丞に乗っていてな。今日はもう三時間経つ」 「……お前、ほどほどにしろよな」 「分かってる。お陰で手足に痺れが来て止まらぬのだ。しばらく休む……黒丞を頼む」 「……ああ」 恋次はそんなルキアを、どこか釈然としない表情で見下ろしながらも、黒丞の手綱を取った。 すまぬ、と馬場から立ち去りながら、ルキアは恋次に謝った。
last update:2011/10/2