「あ“あ”あ“……」
空座高校の、1年のクラスルーム。
時刻は午後6時近く。窓からの風に揺れるカーテンも、茜色に染まり始めている。

後ろから4番目の窓際の席で、黒髪の少女がたった一人、机に向かっていた。
さわやかな夕焼けに似合わない、じめじめした苦悶の声が教室に響いた。

「さっっぱり……分からぬ」
机に広げた教科書に並んでいるのは、シグマだのアルファだの、読むことも難しい記号の数々。
―― 私だって、好きこのんでサボっていた訳じゃない……!
ルキアは、ぐっ、と拳を握り締める。
瀞霊廷に戻っていたほぼ2ヶ月というもの、勉強など全くしていない。
その間に進んだ授業の差を、取り戻すのがどれほど難しいか。
それを、ルキアは放課後の教室で思い知っていた。

前半は死刑囚として幽閉され、後半は療養していたのだから、ルキアに非はない。
非はないのだが……それを担任に堂々と告げるというわけにもいかない。
結果として、この問題を解いて、職員室の先生に提出するまで、ルキアは帰れないのだ。
誰かに聞こうにも、教室に誰もいないのでは、どうしようもない。

―― 「朽木さん。わたし勉強つきあおっか? 数学は苦手だケド……」
躊躇(ためら)いがちに切り出した織姫の申し出を断ったのが、とことん悔やまれた。
はぁ、とため息をついた、その時。ガラリ、と音がしてドアが開いた。

「ルキア。おめー、まだ残ってんのか?」
ひょい、と教室を覗き込んだのは、見慣れたオレンジ頭だった。
手には、スターバックスの紙のコーヒーカップをふたつ、持っている。
「一護……一護――!!」
「ぅおっ??」
目をウルウルさせて飛びついてきたルキアを受け止め、一護は目を白黒させた。



「……だから。ここがこーなるだろ」
「ふむふむ……で?」
他に誰もいない教室で、ふたりの声だけが響く。
一護は、ルキアの前席の椅子に横向きに腰掛け、足を組んでいる。
ルキアの席に片肘を付き、問題集を覗き込んでいた。

「で? じゃねえ。続きは自分で考えろ」
「〜〜、良いだろうもうちょっと教えてくれても!」
顔を上げたルキアが、すがるような目を向けるが、一護は首を振る。
「見ててやるから」
ずっ、とコーヒーをすすり、一護は眉間にシワをよせたルキアを見下ろした。

決して、面倒くさいから教えないわけじゃない。
逆に、全部教えてしまったほうが楽なのに、それをしないのは、ルキアのことを思いやってのことだろう。
それが分かっているから、無理に教えろといえない。

―― 死神に因数分解など不要だ! アタマの固い奴め……
そう思うものの、目下の状況のルキアには、必要なのは確かだ。
コン、コン、とルキアがシャーペンの芯で机を打つ音が響いた。


「こうやって……こう」
サラサラと、とは言いがたいが、シャーペンが紙をすべる。
「ん?」
一護が横から、答案用紙を見下ろした。
「……なんだ、答え出てんじゃねーか」
「へ?」
「これ答え。合ってるぜ」
「……」
「ルキア?」
「っっっ、しゃぁ!!」
貴族の令嬢とはとても思えない声をあげて、ルキアは唐突に立ち上がった。
のけぞった一護をよそに、ぐっ、と拳を握り締めている。

「帰れる! これで帰れる! あの薄汚い押入れの中に!」
「薄汚ねーとか言うな! 俺の部屋だぞ」
コン、とルキアの頭に軽く拳をあて、一護は立ち上がった。


ルキアの分もコーヒーカップを持ってゴミ箱に向かう背中に、ルキアは目を奪われる。
そういえば。
手伝おうか、という織姫の申し出を断ったとき、一護の視線を感じた。
あの一瞬から、こうなることを見越して、コーヒーを2人分、買って戻ってきてくれたのか。

無愛想で、無鉄砲で、無粋なやつ。無い無い尽くしだと思っていたけれど。
同じやさしさで、この男は私を救うため、瀞霊廷の死神全員を敵に回して戦ったのだ。
ぶっきら棒なくせに、傍にいると、湯のように自分を包む男。
そのぬくもりを感じるのは、むしろこういう、何気ない瞬間。
ルキアはその時、一護に心から感謝した。

「一……」
声をかけようとした時。
「ホ“ロ”ーウ“!! ホ“ロ”ーウ“!!!」
突然一護から鳴り響いた大音響に、
「おおぅ!!」
一護とルキアは同時に飛び上がった。


「なんだぁ? 虚か?」
「見てみる」
ルキアは懐から伝令神機を取り出し、鳴り続けているその音を切った。
「場所は隣町だが……この気配……虚、なのか?」
ルキアは、夕焼けの迫る窓の外に目をやり、怪訝そうに眉根を寄せた。
普段接している虚とは、どこがどう、といっていいかわからないが、違う気がした。

なんだか、生ぬるい空気が自分を包むような……
伝令神機の画面を、後ろから一護も覗き込む。
「小さいな……ん?」
「なんだこりゃ」
2人で、ほぼ同時に声を発する。
画面上に浮かんでいた小さな、小さな点が、たった数秒のうちに、恐ろしく大きくなったからだ。
そのときには、もはや伝令神機の画面を見るまでもない。
おどろおどろしい気配が、肌があわ立つほどにはっきりと感じられた。

「一護!」
ルキアがソウル・キャンディを口に放り込み、死神化した。
漆黒の死覇装が風にはためく。
「おう!」
死神許可証を額にあて、一護が死神化する。
「コン! 先に家に帰ってろ!」
むっくりと体を起こした、コン入りの自分に一護は声をかける。
「お……おい一護!」
あわてて立ち上がったコンをよそに、一護とルキアは同時に教室の窓を蹴り、外へと飛び出した。